Culture
2019.09.10

史跡にまつわる怪談。城や古墳・古戦場に残る悲しいエピソードに人間の歴史を見た

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夜通し踊る盆踊り「郡上(ぐじょう)おどり」で有名な岐阜県郡上市八幡町。吉田川のほとりには郡上八幡城が美しくそびえるが、この城に人柱の伝説がある。城が大改修された折のことというから、天正16年(1588)頃の稲葉貞通(いなばさだみち)が城主の時か、もしくは関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)に城主となった遠藤慶隆(えんどうよしたか)の時か。

城の修理に用いる材木を山中から切り出し、台車に載せて運んでいたところ、途中で全く動かなくなってしまった。何人もの男たちが力を込めても、びくともしない。そこへ通りかかった農家の娘およしが手伝うと、不思議にも台車は再び動き始めた。およしは17歳の美しい娘だったという。ところがおよしが手を離すと、台車は動かなくなる。仕方なく、およしは一緒に城下まで台車を押していった。

およしの祟り

この話を耳にした時の城主は、不思議な力を持つおよしこそ、崩れない石垣を築くための人柱にふさわしいと考え、否応なくおよしを捕える。そして吉田川で深夜に水垢離(みずごり)をさせると、白羽二重(しろはぶたえ)の装束を着せて駕籠に乗せ、櫓下の石垣に空けた空間に駕籠ごと入れて、外から石で塞いだ。人柱の甲斐あってか、郡上八幡城の石垣は崩れずに完成したという。

このおよしの祟りではないかと騒がれたのは、時代が下って明治40年(1907)のことである。水害の後、町では火災が頻発したが、火事が起こる前、「今夜は寒いから、火を焚いてあたろうか」とささやく、白装束の若い女性の亡霊が方々に現われたという。人々の騒ぎを受けて、城の近くにある善光寺で住職がおよしのために読経すると、およしの亡霊が姿を見せ、「いつもこのように供養をしてほしい」と願った。そこで寺ではおよしを祀ることにし、その後、城の本丸にもおよしの祠(ほこら)が建立されたという。

なお最近、およしをモデルにした「およしちゃん」という萌えキャラが、郡上八幡の観光PRに一役買っている。およしの伝説を多くの人が知る意味では、よいことなのかもしれない。

踏切にたたずむ男

以前、私が住んでいた部屋はマンションの2階で、私鉄の線路が目の前、すぐ脇が踏切だった。窓はもちろん防音サッシだが、電車の通る音は慣れるとさほど気にならない。もっとも、人身事故が起きた時には閉口したが…。

当時、よく一緒に仕事をするカメラマンが近所だったので、取材帰りの夜、車で送ってもらうことが何度かあった。その彼が、私の家の近くで車を停めて、こんなことを言った。

「気持ちのいい話じゃないけど、マンションの脇の踏切のところ、男性がいるよ。前に来た時とまったく同じ格好だから、生きた人間じゃないね。変な姿勢なんだよ。線路の方を向いて頭を深く下げているような、そんな後ろ姿だよね」。私には男性の姿は確認できず、街灯に照らされたほの暗い踏切が見えるばかりである。

さしあたって実害はなさそうなので、気にしないことにしたが、なるべく夜は踏切を渡らず、別方向から帰宅するようにしていた。しばらくして、またカメラマンに家まで送ってもらうことになった。「あんな話を聞いたから、最近は踏切を渡っていないよ」などと話しながら、車が家の近くまで来ると、カメラマンが車を停めて踏切の方を凝視している。

「やっぱり今日もいる?」と私が訊くと、「ああ、わかった!」とカメラマンが小さく声を上げた。「何が?」

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。