江戸時代中期になると、庶民も読み物を楽しむようになり、出版文化が一気に拡大します。その結果、本の挿絵を描いたり、執筆活動をしたりする武士も増え、一躍人気の戯作者となる者も出てきました。黄表紙の創始者といわれる恋川春町(こいかわはるまち)もその一人。江戸小石川春日町(現在の文京区小石川)に住んでいたことから、地名をもじって恋川春町の号で挿絵や文章を書き、狂歌師としては酒上不埒 (さけのうえのふらち)の号で名を馳せました。黄表紙についてはコチラ江戸時代の「大人向け小説」黄表紙と洒落本に書かれていたものとは?
養子先は1万石の弱小藩に仕えた倉橋家
生年は寛保4(1744)年、紀州徳川家の家老安藤帯刀の家臣・桑島勝義の2男として生まれました。その後、20歳のときに伯父の倉橋家に養子に入り、安永5(1776)年、養父の隠居で跡を継ぎ、33歳で高100石、内用人となります。この前年である安永4(1775)年に出版されたのが、恋町の名を一気に世に知らしめた『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』です。武士の仕事をしながら、画を描き、執筆していたのですから、その才能は非常に高かったのでしょう。吉原を舞台にしたこの黄表紙は大ヒットとなります。その後も次々と自画による黄表紙を発表し、その数は生涯において約30冊にものぼると言われています。
一流の絵師について絵を学び、絵師としても活躍
春町が絵を学ぶようになったのは、暮らしの助けになればとのこともあったのでしょう。喜多川歌麿の師ともいわれる鳥山石燕(とりやませきえん)に師事します。また、北斎の師であった勝川春章(かつかわしゅんしょう)にも影響を受け、恋川春町の号は、春章を意識したのではとも言われています。その後、友人であり、武士仲間の朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)※1の本に挿絵を描くなど、絵師としての仕事でも名をあげていきました。春町の周りには、文化人も多く、本草学者であり、戯作者であり、エレキテルの製作でも有名な平賀源内(ひらがげんない)をはじめ、大田南畝(おおたなんぽ)のように武士でありながら、文筆活動をしていた彼らの影響も大きかったのではないでしょうか。
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春町を文筆家として育て上げた鱗形屋孫兵衛
2025年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』で片岡愛之助が演じる老舗の地本問屋(じほんどんや)※2が鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)です。それまで浄瑠璃(じょうるり)本を中心とした出版から『吉原細見』の発行へと移っていった鱗形屋でしたが、『金々先生栄花夢』の大ヒットで、さらに黄表紙へと進出。春町や喜三二に次々と黄表紙を書かせていきます。しかしもともと経営状態が悪化していたこと、時代の主流に乗り切れなかったこともあり、次第に縮小していきます。これに変わって台頭したのが、『吉原細見』を自ら発行し、版元として力をつけた蔦屋重三郎でした。彼の勢いに押され、鱗形屋は安永9(1780)年に、休業の危機に追いやられます。蔦屋からも黄表紙※3を出版していた恋町でしたが、自らの出世作を生み出してくれた鱗形屋に義理を立てたのか、その後はしばらく執筆を休止しています。
政変に巻き込まれ、人生の終焉を迎える
天明7(1787)年に起こった天明の大飢饉により、民衆の不満が爆発し、田沼意次が失脚すると、松平定信が質素倹約、浮世のムードを引き締める寛政の改革を断行します。出版統制なども行われる中、幕府に反旗を翻すかのように、山東京伝や喜三二が蔦屋から次々と本を出版したのです。
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休筆していた春町も、寛政元(1789)年に出版された『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』で、寛政改革を風刺し、大ヒットを飛ばします。しかし、これが幕府の逆鱗に触れ、窮地に追いやられてしまいます。同様に武士で文筆活動をしていた南畝や喜三二も次々と文芸界と距離を置き、本業に戻っていきました。実直な養父から継承した倉橋家に傷をつけたことを気に病んだのか、恋町はこの年に死没。一部には突然のことでもあり、自死との噂も流れました。義理堅く、才能にあふれた恋町でしたが、46歳で生涯を閉じることになります。恵まれた環境ではない中、自身の才能によって、道を切り開き、花開かせた恋町。激動の時代を駆け抜けた悲しい最期だったといえます。
アイキャッチ画像:「金々先生栄花夢」 恋川春町画作 国立国会図書館より
参考資料:『江戸文藝攷』濱田義一郎著 岩波書店、『江戸の本屋さん』 今田洋三 NHKブックス、『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、『世界百科全書』 小学館