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2024.09.18

光源氏のモデル? 悲運の美しきプリンス・敦康親王の生涯を辿る

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大河ドラマ『光る君へ』では、まひろ(紫式部)が『源氏物語』の執筆に取りかかり始め、いよいよ佳境へと入ってきました。『源氏物語』の主人公・光源氏は天皇の子でありながら、天皇にはなれない人物として描かれています。

その光源氏のモデルの1人とも伝えられているのが、実在した敦康(あつやす)親王です。同じように一条天皇の子として生まれながら、天皇となる道が絶たれてしまった不運なプリンス。大河ドラマ初出演となる、歌舞伎俳優の片岡千之助さんが演じることでも話題となっています。敦康親王は、どのような人生を送ったのでしょうか?

複雑な環境のなかでの誕生

長保元(999)年、敦康親王は一条天皇の第1皇子として生まれました。母は皇后定子(ていし/さだこ、関白藤原道隆の娘)で、本来なら待望の皇子誕生として周囲から祝福されるはずでした。しかし4年前の長徳元(995)年に、定子の父・道隆が亡くなっており、その翌年に兄の伊周(これちか)、隆家らが事件を起こして※1失脚します。この事態に絶望した定子は、発作的に髪を切って出家。そのまま仏門に入るかと思われましたが、一条天皇の強い働きかけで、再び召されて生まれたのが敦康親王でした。この異例の出来事は、宮中では受け入れられなかったようです。

男子誕生の知らせを聞いても、貴族たちは定子のもとへ祝いには行かず、冷ややかな反応でした。藤原実資(さねすけ)は日記『小右記(しょうゆうき)』のなかで、定子のことを「横川(よかわ)の皮仙(かわひじり)」と揶揄(やゆ)しています。これは比叡山横川にいた僧の行円(ぎょうえん)が、夏も冬も鹿革の装束を着ていて異様だったことから、僧らしくないという意味合い。同じように、定子も尼のはずなのに出産したことに対する陰口ととらえられます。

また藤原道長の娘・彰子(しょうし/あきこ)が、ちょうど同じ日に一条天皇の女御(にょうご)として、入内(じゅだい)していました。何とかして一条天皇と定子の仲を裂きたい周囲の思惑のなかで、敦康親王は誕生したのです。

※1 伊周と隆家兄弟と花山法皇との間で、起こった争い。女性を巡る勘違いから、花山法皇の衣の袖を隆家が射抜き、大問題となる。

学問を好み、素質のあった敦康親王

光源氏は美男子という設定ですが、敦康親王も美しい容姿をしていたと伝えられています。また両親が親しんだ漢文に興味を示し、2人の血を受け継いで学問好きであったようです。

7歳になった時には、初めて漢文の講義を受けることになり、「読書始め」の儀が行われたと『小右記』に書かれています。誕生の時には祝福されなかった敦康親王ですが、左大臣の道長や右大臣、内大臣をはじめそうそうたる人物が集まる華やかなものでした。その中には左遷されて以来10年ぶりの復帰となる伊周の姿もありました。

ただこれには訳がありました。母の定子は、敦康親王の妹を出産する際のトラブルが原因で、亡くなっていたのです。妊娠中から体力が弱まっていたようで、死を覚悟し命がけで出産した後、あの世へと旅立ってしまいました。

一条天皇と彰子との間には、まだ子どもが誕生していなかったこともあり、道長は政治的な計算から祖父として後ろ盾の役割を担うことにしたのです。また、定子の妹・御匣殿(みくしげどの)※2が一条天皇の子を懐妊したことから、2人の関係を阻止する目的もありました。

▼御匣殿については、こちら。
最愛の后を失って…一条天皇と定子の妹「御匣殿」、悲しみで結ばれた愛の行方

※2 定子の末の妹。敦康親王の養育を託された縁から、一条天皇と深い仲になった。しかし、出産を見ぬままに死亡。享年17、8だった。

幼い継母・彰子に育てられる

敦康親王が母の定子を失ったのはわずか2歳の時で、彰子は13歳という若さでした。その後敦康親王は3歳で彰子の元へ引き取られます。まだ少女の年齢の彰子に、母性が芽生えていたのかはわかりませんが、彰子の元で大切に育てられました。天皇の長男として後継の第一候補の敦康親王は、道長の支配下に入ったことで立場が安定します。

そして一条天皇には複数の女御がいましたが、いつしか敦康親王を慈しんでくれる彰子を唯一の后として過ごすようになっていきました。敦康親王にとって幸せな時間が流れましたが、この関係は彰子の懐妊で変化してしまいます。彰子は21歳で敦成(あつひら)親王を出産し、翌年には敦良(あつなが)親王を出産します。

後を継がせたい一条天皇の迷い

道長は長年待ち続けた孫の誕生に、歓喜しました。敦康親王を引き取って養祖父となった時とは、気合の入り方が違います。2人の皇子を授かった一条天皇と彰子の結びつきも、結婚当初とは違い強くなっていました。けれども、定子の残した敦康親王を不憫に思う一条天皇の気持ちは、消えることはありませんでした。

寛弘7(1010)年7月、12歳になった敦康親王の元服の儀式が、一条天皇臨席のもと行われました。大人となった証として行われるこの儀式では、髪型と衣装を大人のものに改めて、頭に「冠」をかぶります。この初冠(ういこうぶり)の役は道長が務めました。敦康親王の立派な佇まいに、周囲の者たちは見ほれたことでしょう。

『源氏物語』の中で、光源氏の元服を描いた場面。左上の少年が光源氏 『源氏五十四帖 桐壷』尾形月耕画 国立国会図書館デジタルコレクションより

しかし、このめでたい儀式の前年に不穏な出来事が起こっていました。伊周が中心となって彰子と敦成、さらに道長の死を願い呪詛していたことが発覚したのです。一時は失脚した伊周が赦免されて政界へ復帰できたのは、一条天皇の働きかけがあったからでした。それは恐らく、敦康が帝位につくことがあれば、後ろ盾になって欲しいとの思いからだと推測されます。しかし、一条天皇は再び厳しい処置を取らざるをえませんでした。先行きを絶望した伊周は、精神的に追い詰められ、翌年の正月に持病の悪化で亡くなります。

父を失い、絶たれた天皇への道

後ろ盾となるはずだった伊周が亡くなり、敦康親王には有力な後見人がいない不安定な状態となりました。かつては道長が頼りになる存在でしたが、実の孫が誕生した今となっては、それは望むべくもありません。一条天皇としては、敦康親王を後継ぎにしたいとは、おおっぴらに言うことはできなかったことでしょう。

そんな中、寛弘8(1011)年5月、一条天皇が発病して寝込んでしまいます。一時は回復に向かうものの、容態が悪化し、一条天皇は死を覚悟します。譲位と敦康親王のことをどうするか、信頼をおく藤原行成(ゆきなり)※3を呼び寄せて相談をします。すると行成は一条天皇の敦康親王への思いを理解しながら、次男の敦成親王の立太子を提言しました。

「帝が一の皇子(みこ)だからと敦康親王を東宮にしようとしても、道長様は納得はしないでしょう」。この説得によって一条天皇は、敦康擁立を断念します。譲位が行われた後、ほどなくして一条天皇は崩御(ほうぎょ)します。発病してから、わずか1か月ほどのことでした。享年32。

長年そばにいて一条天皇の願いを理解していた彰子は、決定を覆して敦康親王を東宮に立てるように父に訴えますが、それは叶いませんでした。

※3 平安中期の公卿、書家。天皇の側近にあたる蔵人頭を長く務め、権大納言にまで出世した。冷静かつ真面目な性格で、一条天皇や道長からの信任も厚かった。

心労からか若くして突然の死去

一条天皇の次の帝は三条天皇※4となり、皇太子として異母弟の敦成親王が選ばれます。敦康親王を押しのけるような形で皇太子となり、のちに後一条天皇として即位した時は、まだ9歳という年齢でした。当時18歳の青年だった敦康親王は、どのように感じていたでしょうか。

19歳になった時には、道長の強引なやり方によって、もう1人の異母弟の敦良親王が9歳で立太子する事態に遭遇します。これによって、皇位の可能性は無くなったと痛感したことでしょう。両親譲りの知性は、歌会など文化面で発揮するより他なかったようです。

寛仁2(1018)年、道長が権力の頂点に立ち「望月の歌」※5を詠んだ2か月後に、敦康親王は病で亡くなります。享年20。道長が栄華を極めている世の中では、父の遺志を継ぐことはできないと、絶望してしまったのでしょうか……?

『源氏物語絵巻』藤原隆能 画 国立国会図書館デジタルより

『栄花物語』※6によると、彰子は後継選びの機会のたびに、道長に敦康擁立を願い出たと書かれています。けれども道長は聞き入れず、敦康親王はこの世を去ってしまいました。しかし彰子の思いは、約20年も後になって報われます。長暦元(1037)年、帝の座についた敦良親王(後朱雀天皇)に、敦康親王が遺した娘の嫄子(もとこ)を入内させたのです。嫄子は中宮となって2人の皇女を産みました。「天下第一の母」と称された彰子は、一条天皇と敦康親王の願いを、忘れることはなかったのでしょう。

※4 冷泉天皇の第2皇子。即位後、道長から譲位を迫られる。息子の立太子を条件に譲位した後に死去。その後、息子は皇太子を辞退。
※5 道長が藤原氏一族の栄華を極めた心情を詠んだとされる一首。満月にかけて権威を歌い上げたとされているが、最近は別の解釈もある。
※6 平安後期の歴史物語。作者は赤染衛門(あかぞめえもん)が有力とされるが、諸説ある。

▼彰子と敦康親王の関係を書いたコチラの記事もお読みください!
敦康親王と彰子は『源氏物語』展開になる? 実際の関係を探ってみた

参考書籍:『小右記』藤原実資  倉本一宏編 KADOKAWA、『源氏物語の時代』山本淳子著 朝日新聞出版、『紫式部と源氏物語』福田智弘監修 メディアソフト、『日本大百科全集』小学館、『世界大百科事典』平凡社、『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版

アイキャッチ:『源氏五十四帖 桐壷』尾形月耕画 部分 国立国会図書館デジタルコレクションより

書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。