Culture
2024.11.12

知らなかった!蔦屋重三郎が「耕書堂」を構えた日本橋通油町に、版元が集中していた理由

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2025年大河ドラマ『べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公として注目を集める「蔦重(つたじゅう)」こと、江戸の版元(はんもと)蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)。ちなみに江戸時代の版元とは、現代の出版社と書店を兼ねた存在です。蔦重は最初、新吉原大門(しんよしわらおおもん)前で書店「耕書堂(こうしょどう)」を営みますが、事業拡大に合わせて日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に進出。「耕書堂」の新店舗をオープンさせ、以後、本拠地としました。日本橋周辺は江戸の商業の中心地ですが、特に通油町一帯には有名版元が軒を連ねており、新興勢力の蔦重はライバルと競いながら、江戸ナンバーワンの版元を目指していくのです。それにしてもなぜ、通油町一帯に有名版元が集中していたのでしょうか。本記事ではその歴史を探り、蔦重が通油町に「耕書堂」を構えた理由を紹介します。

江戸の「目抜き通り」だった本町通り

東京都中央区日本橋大伝馬町(おおでんまちょう)13番地。
ここに、「蔦屋重三郎『耕書堂』跡」の説明板が建っています。付近にはかつて、蔦重が営む店舗「耕書堂」がありました。「耕書堂」は本を売るだけでなく出版をしていますので、書店というより「書肆(しょし)」と呼ぶ方が正確でしょう。また「地本問屋(じほんどんや)」という言い方もします。地本とは、京都などの他の土地でつくられたのではない、江戸の地元で企画出版された本を指しました。

地下鉄馬喰横山(ばくろよこやま)駅から西に徒歩数分のあたりに位置する説明板が面するのは、一方通行の何の変哲もない細い通りです。付近はオフィス街ですが、北を並行して走る江戸通りが現在の主要道路であり、説明板の建つこちらの道は、裏通り感が漂うのは否めません。数年前まで近所で暮らしていた筆者も、その印象から、蔦重の耕書堂があったのは町家が並ぶ目立たない一角であったのだろうと、漠然と思い込んでいました。しかし少し調べてみると、当時の様子はまったく違っていたのです。
「耕書堂」周辺の現況。左は大伝馬町方面、右は横山町方面を望む

大伝馬町という町名は江戸時代からありましたが、蔦重が「耕書堂」を構えた頃、大伝馬町は隣接する西のエリアを指し、この周辺は日本橋通油町と呼ばれていました。「油町」はもともと灯油を商う店が多かったことからついた名で、「通」は本町(ほんちょう)通りに面していることを意味します。現在も通りは「大伝馬本町通り」という名前にはなっていますが、人影もまばらな今の様子とはわけが違いました。
かつての本町通りは、江戸城の東にあった常盤橋(ときわばし)門と、外濠(そとぼり)の最北東の門である浅草橋門を東西に結ぶ道で、江戸の中心地である本町を走る「目抜き通り」でした。また本町通りは、日光や奥州方面に向かう日光街道とも重複しており、将軍が日光参詣の際に用いる「御成道(おなりみち)」でもあったのです。
『江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図』(国立国会図書館デジタルコレクション、部分)
現在の地図。かつての本町通りの一部が「大伝馬本町通り」(国土地理院地図を加工)

「耕書堂」の説明板から通りを400mほど西に向かったところに建つ、「旧日光街道本通り」の標柱がその証。標柱の側面には

「江戸名所図絵や広重(ひろしげ)の錦絵に画かれて著名なこの地は 将軍御成道として繁華な本街道であり 木綿問屋が軒を連ねて殷賑(いんしん)を極めた」

と刻まれています。木綿問屋をはじめ多くの商店が軒を連ね、人々の往来でにぎわい、ときに日光参詣に赴く将軍の行列が通る交通の要衝が、日光街道を兼ねる本町通りだったのです。
「旧日光街道本通り」の標柱

通油町一帯は江戸随一の「書肆街」だった

蔦重が日本橋通油町の書肆・丸屋小兵衛(まるやこへえ)の店舗と株(営業権)を手に入れ、店舗を「耕書堂」と改めて新たな本拠としたのが、天明3年(1783)9月、蔦重34歳のときのことでした。
その頃、通油町に店を構えていた主な版元には、栄邑堂(えいゆうどう)の村田屋治郎兵衛(むらたやじろべえ)、仙鶴堂(せんかくどう)の鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)、円寿堂(えんじゅどう)の丸屋甚八(まるやじんぱち)、松村弥兵衛(まつむらやへえ)らがおり、また通油町の西隣の日本橋通旅籠町(とおりはたごちょう)には、蔦重と縁の深い鶴鱗堂(かくりんどう)の鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)、榎本屋吉兵衛(えのもとやきちべえ)らが店を構え、また通油町の東、日本橋横山町(よこやまちょう)には栄林堂(えいりんどう)の岩戸屋喜三郎(いわとやきさぶろう)、横山町の北の日本橋馬喰町(ばくろちょう)には永寿堂(えいじゅどう)の西村屋与八(にしむらやよはち)、江見屋吉右衛門(えみやきちえもん)、山口屋忠右衛門(やまぐちやちゅうえもん)など、錚々たる版元が通油町とその周辺に集中していました。
『江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図』(国立国会図書館デジタルコレクション、部分)

江戸には他に、芝神明前(しばしんめいまえ、現在の港区芝大門1丁目)などにも版元が集まる場所がありましたが、一流の店が集中している点で、通油町一帯は江戸随一の「書肆街」を形成していたといわれます。蔦重が通油町に進出した理由も、新吉原に店を構えるローカルな存在から、「耕書堂」を他の一流どころと肩を並べる版元にするためのイメージアップ戦略であったことは、容易に想像できるでしょう。それはともかく、通油町に版元が集中していたのはなぜなのでしょうか。

「大伝馬町一丁目は伊勢店ばかり」

現在、かつての通油町周辺を歩いてみても、一流版元が軒を連ねた江戸の面影はまったく見出せません。ただ通油町の東、横山町から馬喰町にかけては、現在も都内有数の問屋街であり、それは江戸時代からの商業地を継承するものでした。特に衣料品関係の問屋が多い点は、かつて大伝馬町からこの付近にかけて、木綿問屋が多かったことと無関係ではないようにも感じられます。
横山町問屋街

先ほど紹介した「旧日光街道本通り」の標柱に「木綿問屋が軒を連ね」と刻まれているように、江戸時代、木綿を扱う店が大伝馬町周辺に集中していました。その多くは松坂木綿(伊勢木綿)を扱う、伊勢商人であったといわれます(伊勢は現在の三重県東部)。木綿栽培は戦国時代頃に本格化したといわれますが、商品化には高度な染織技術が必要でした。伊勢では古来、伊勢神宮に麻布や絹布(けんぷ)を奉納していたことで、地元に織りの技術が継承されており、また高い染色技術を持った紺屋集団もいたことから、やがて藍(あい)染めを基調とした縞模様の「松坂縞(松坂嶋、まつざかじま)」が生み出されます。伊勢商人は「松坂縞」を主力商品として、京都、大坂、そして江戸に進出。江戸時代初期の寛永12年(1635)には、江戸のメインストリート「本町通り」沿いの大伝馬町で商売を始めました。

やがて「松坂縞」の伊勢木綿は江戸で大人気となり、大伝馬町には伊勢出身の木綿問屋が軒を連ね、貞享3年(1686)には大伝馬町の木綿問屋は70軒以上を数えるまでになります。「一丁目(大伝馬町)は伊勢店ばかり」と揶揄(やゆ)されたといいますから、その繁盛ぶりがうかがえるでしょう。蔦重の時代よりも少し後になりますが、歌川広重(うたがわひろしげ)が描いた「東都大伝馬街繁栄之図」が当時の大伝馬町のにぎわいをよく伝えています。こんな通り沿いに、蔦重の「耕書堂」があったわけです。
歌川広重「東都大伝馬街繁栄之図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

なお「旧日光街道本通り」の標柱から100m余り西、大伝馬本町通りと昭和通りがぶつかる付近に、和紙の専門店「小津(おづ)和紙」があります。創業は承応2年(1653)。創業者の小津清左衛門(せいざえもん)はやはり伊勢松坂の出身で、大伝馬町で小津屋紙店を営み、隣に伊勢屋木綿店を開いて、伊勢木綿も扱っていました。つまり小津和紙は、当時の伊勢商人の繁栄の「生き証人」ともいえるのです。ちなみに先ほどの広重が描いた「東都大伝馬街繁栄之図」の、軒を連ねる木綿問屋の右の並びの奥に、小津清左衛門の伊勢屋を見出すこともできます。そして、これら伊勢商人が大伝馬町に集まったことが、のちに版元が周辺に集中することと密接に関係していたのです。

版元と「板木屋」の関係

蔦重が通油町に「耕書堂」を構える120年ほど前の、万治・寛文年間(1658~73)頃、通油町にはすでに次のような書肆があったことが確認できます。「吉田屋」、「伊勢屋」、「志賀屋勘兵衛」、「板木(はんぎ)屋六左衛門」、「ます屋」、「もづや」、「板木屋又左衛門」、「板木屋甚九郎」などです。「伊勢屋」という店名は、伊勢商人の出版への参入を思わせますが、それ以上に目につくのが「板木屋」と名乗る書肆が3店もあることでしょう。板木屋とは、何者なのでしょうか。

板木とは、木版印刷で用いられる板のこと。もともと印刷するという概念のない時代には、書物はすべて人の手で書き写すことで複製しました。たくさんの部数を複製するには当然、膨大な時間と労力がかかります。そこに転機をもたらしたのが、15世紀にドイツのグーテンベルクが発明した活版印刷でした。すなわち活字を組み並べた版をつくり、それにインキを塗って紙に転写するもので、この技術は16世紀に日本にもたらされます。ところが、印刷技術に日本人は大いに触発されたものの、当時の活版印刷は日本では広まりません。なぜならアルファベット26文字のヨーロッパに比べ、日本語はかな文字や漢字の種類が格段に多く、活字を作るのも、それを組むのも大変だからでした。代わりに、一枚の板にさまざまな文字を彫って、それを版とする木版印刷が大いに発達することになります。版となる板が板木であり、板木を彫る精巧な技術を売り物にしていたのが板木屋でした。
十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)が『的中(あたりや)地本問屋』の中で描いた版木屋(国立国会図書館デジタルコレクション)

先ほど紹介した万治・寛文年間の通油町の3店の「板木屋」を名乗る書肆は、元々は版元から依頼されて版木を彫っていた板木屋が、やがて自ら書物を企画出版するようになり、書肆を兼ねたと考えることができます。板木を彫る技術があるので、優れた原稿さえ入手できれば、自前で出版することは十分可能だったのでしょう。ただし、書肆を兼ねず、本来の彫師(ほりし)の仕事に専念する板木屋も多く存在しました。

『近世書林板元総覧』によると、通油町には明暦年間から元禄年間(1655~1704)の間に(蔦重が通油町に耕書堂を開く130年~80年前)、「板木屋市兵衛」、「板木屋彦右衛門」、「板木屋四郎右衛門」ら6人の名前を確認できます。つまり、あまり広いエリアでもない通油町に元々板木屋が複数住んでおり、そこへ仕事を頼みたい版元が次第に集まってきたと考えることができるのです。思えば昭和の頃、都内にも、印刷所、製版所、出版社など出版関係の会社が集まる地域がいくつかありました。出版の各工程に必要な会社が近所に集中していれば、互いに仕事を回すことができ、輸送の手間もなく、何かと融通がきいて好都合なわけです。同様に、板木屋の多い地域に版元も集中するのは、ごく自然な流れだったといえるのかもしれません。とはいえ……。ではなぜ、通油町に板木屋が多かったのでしょうか。

「伊勢暦」と版木屋

伊勢木綿の「松坂縞」が江戸で大人気となったことはすでに紹介しましたが、伊勢といえばもう一つ、全国的に有名なものがあります。それが「暦(こよみ)」でした。伊勢では中世から暦が発行されていましたが、江戸時代初めの寛永8年(1631)に「伊勢暦」が発行されると、これを伊勢神宮の御師(おんし、信者の世話をする神職)が毎年、お札(ふだ)とともに全国の檀家に配ったことで、広く知られることになります。当然ながら伊勢には、暦の版木を彫る技術をもった彫師たちが多数いました。一橋大学の柏崎順子教授は「江戸初期出版界と伊勢」という論文の中で、蒔田稲城(まきたいなぎ)著『京阪書籍商史』の次のような一節を紹介しています。

「或る人は之に対して、元来伊勢には暦を彫刻するために優秀な技倆を有する彫刻師がゐて、一年に一度の暦彫刻の御用を果した後は、其の閑暇な期間を利用して、書籍版木の彫刻の注文に応じてくれたので、京都大阪の書肆は伊勢参宮を兼ねて、彫刻の注文に伊勢に行ったものである、という説明をしている」

つまり、伊勢暦の版木を彫る優れた職人たちは、その仕事が終われば京都や大坂の書肆の注文に応じて、書物の版木を彫っていたというのです。そんな彼らが伊勢商人の新興都市・江戸への進出に伴って江戸に出府し、伊勢の木綿問屋が軒を連ねる大伝馬町に隣接する通油町で、伊勢暦の版木屋になったと考えられるのです。もちろん伊勢暦の仕事は限られた期間のものですから、それ以外の時期は、江戸の版元の依頼に応じることを想定していたのでしょう。先ほど紹介したように、自ら書肆を兼ねる版木屋もいましたし、特定の版元専属の版木屋になるケースもあったようで、蔦重の耕書堂内にも、雇われた腕利きの彫師がいたであろうといわれます。
伊勢暦(国立国会図書館デジタルコレクション)

通油町の大きな集客要素

伊勢には暦の版木を彫る優れた職人が多数いて、京都や大坂の書肆に依頼されれば書物の版木も彫っていた。やがて伊勢商人が伊勢木綿の「松坂縞」を売り込むため、江戸に進出すると、暦を彫る職人たちも一緒に江戸に出て、伊勢の木綿問屋が並ぶ大伝馬町に隣接する通油町で、版木屋として江戸の版元の注文に応じるようになる。その後、版木屋の多い通油町周辺に版元も集まるようになり、通油町は江戸随一の「書肆街」となっていった……。これまでの話を整理すると、こんな感じになるでしょう。

ところで耕書堂をはじめ、通油町周辺の書肆は、メインストリートの本町通りに向けて店を開いていました。本町通りには大伝馬町の木綿問屋をはじめ、紙、雑貨、食料品などのさまざまな店が並び、行商人なども行きかうにぎやかな通りですから、一定の集客が見込めたのでしょう。そしてもう一つ、大きな集客要素がありました。それは東に隣接する馬喰町が、旅館街であったということです。

通油町の西隣も通旅籠町という名の通り、旅籠の多いエリアでした。本町通りは日光街道でもあり、日光、奥州方面に向かう際の江戸の起点ですから、それも当然です。本町通りの東の端にあたる浅草橋門は、馬喰町のすぐ東にありました。しかし馬喰町が旅館街であったのはそれとは別の理由で、浅草橋門の内側に関東郡代(ぐんだい)屋敷があったからなのです。
『江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図』(国立国会図書館デジタルコレクション、部分)

関東郡代とは、関東の幕府直轄地(天領)における年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理する役職でした。そして領民が民事訴訟(これを「公事(くじ)」と呼ぶ)を起こして郡代に訴えた際、地方から来た訴訟人らが宿泊するのが「公事宿(くじやど)」で、郡代屋敷に近い馬喰町周辺に公事宿が集中していたのです。訴訟人は裁判が終わるまで公事宿に逗留するので、空いた時間には付近を散策し、近所の書肆を訪れて、みやげ代わりに書物や浮世絵を買うこともしばしばありました。書肆が通油町だけでなく、本町通りに面していない馬喰町にもあったのは、このためでしょう。いずれにせよ通油町周辺の書肆にとって、馬喰町の旅館街は貴重な集客要素であり、通油町に店を構える大きなメリットであったのです。

なお、当時の書肆の販売は店頭だけでなく、書物を卸す販路も確保していました。たとえば『吉原細見(よしわらさいけん)』のような吉原遊郭のガイドブックであれば、吉原周辺の書肆だけでなく、吉原内や、吉原に向かう際に客が利用する船宿などでも扱っていたのです。販路開拓も書肆の競争の一つであり、蔦重もまた、こうした販売の工夫を得意としていました。

北斎が描いた「耕書堂」

最後に蔦重の「耕書堂」の様子を紹介しましょう。葛飾北斎(かつしかほくさい)が挿絵を描いた『画本 東都遊(あずまあそび)』に、絵草紙(えぞうし)店として「耕書堂」が描かれています。絵草紙とは、絵入りの娯楽本のこと。見たところ、店自体はそれほど広くはありません。
絵草紙店(耕書堂、『画本 東都遊』所収、画・葛飾北斎、国立国会図書館デジタルコレクション) 

まず絵の上を見ると、看板でしょうか、「堂書耕」と屋号が記されています。また右下には、店の前に置かれた行灯(あんどん)型の箱看板が描かれ、左右どちらの面にも上に「富士山型に蔦の葉」の意匠を見出せます。これが、版元蔦屋重三郎の家標(いえじるし)、つまりマークでした。

家標の下、右の面には「通油町 紅絵(べにえ)問屋 蔦屋重三郎」、左の面は「あぶら町 紅絵問屋 つたや重三郎」とあります。紅絵とは本来、墨で摺(す)った絵に紅色で彩色した初期の浮世絵のことですが、蔦重が活躍した当時は、多色摺りの錦絵も含めて紅絵と呼んでいたので、紅絵問屋と表記しているのでしょう。

行灯の右上、店の壁面には、書名を記した木製の札が4枚、架かっています。売り出し中をアピールするための、広告看板でした。右から「浜のきさこ 狂歌のみかた小冊」、「忠臣大星水滸伝(おおぼしすいこでん) 山東京伝(さんとうきょうでん)作」、「東都名所一覧 狂歌入彩色摺(きょうかいりさいしょくずり)」「狂歌千歳集 高点の歌を集」とあります。

絵の左下、店の前には、従者に荷物を預けて、熱心に浮世絵を物色する武士の客。店内に目を向けると、中央の棚には、上段と中段に平積みされた浮世絵が3品目ずつ、下段には書籍らしきものが積まれています。棚の後ろで武士の客を見ている禿頭(とくとう)の人物は、店の番頭でしょうか。

そして面白いのが棚の右側、3人の店の男たちが作業をしています。右端の男が紙をそろえていますが、これは外折りした紙をページ順にそろえる「丁合(ちょうあい)」という作業でしょう。手前では、そろえた紙を断裁しています。これを「化粧裁(けしょうだ)ち」といいます。そしてその奥では、表紙をつけて、背表紙部分を糸でかがっているのでしょう。これを「綴(つづり)」といい、一連の流れが製本作業でした。なお店の奥は通常、居住空間ですが、そこに版木を彫る職人や、木版を摺る職人の作業スペースもあったと考えられます。

この耕書堂に山東京伝が出入りし、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)が身を寄せ、曲亭馬琴(きょくていばきん)や十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)が番頭として勤めていたこともありました。東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)を世に送り出したのも、ここからです。江戸の出版界を席捲(せっけん)していく蔦重の活躍の拠点が耕書堂であり、通油町界隈の一流版元たちの中でも、ずば抜けた存在となっていきました。現在は、かつての面影を留めていない耕書堂跡周辺ですが、蔦重の耕書堂と、ライバルの版元たちの書肆が通り沿いに軒を連ね、競い合って商売をしていた姿を想像しながら歩くと、少し印象も変わってくるのかもしれません。

参考文献・資料:浜田啓介「小冊子の板行に関する場所的考察 -–洒落本の場合–」(『近世小説・営為と様式に関する私見』所収、京都大学学術出版会)、柏崎順子「江戸初期出版界と伊勢」(『人文・自然科学』6号所収、一橋大学教育研究開発センター)、鈴木俊幸『[新版]蔦屋重三郎』(平凡社)、車浮代『蔦重の教え』(双葉文庫)、車浮代『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫)、長谷川時雨『旧聞日本橋』(岩波文庫)、「葛飾北斎が蔦屋重三郎の店を紹介します」(太田記念美術館)、小津和紙HP 他 

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。