誰だって、一度はヒーローに憧れる。
絶体絶命の危機にもかかわらず、颯爽と現れて窮地を脱出。どんな敵にも果敢に立ち向かい、決して真似できない芸当で軽くクリア。加えてハッピーエンドというのが相場だから恐れ入る。
そういえば。
下剋上の世を乗り越えてきた戦国武将も、ある意味、ヒーローといえるだろう。
過酷な生存競争に勝ち残ってきた強者たち。退路を断って獅子奮迅の如く立ち回り、土壇場で意地を見せ逆境を覆す。意志が強くて弱音など吐かず、忠義に溢れて実直で……。
でも、それって、どーなんだ。
あまりにもデキすぎるヒーロー、完璧な戦国武将って。
なんだか隙がなさ過ぎて、ちょっと疲れやしないか。
よく考えれば、戦国武将だって同じ人間だ。
時に傷つき、心底心配し、震えるほどにビビることだってあるはずだ。
誰にでもある、脆くて隠したくなるような「影」の部分。
いうなれば。
書家で詩人の相田みつを氏の、あの有名なフレーズ「にんげんだもの」
その言葉がドンピシャと似合う「弱くて人間くさい」一面だってあるはずだ。
ということで。
今回は、そんなヒーロー像を覆すような、人間くさい戦国武将の一面にスポットを当てた。
一体、どの戦国武将に、どのような一面が隠されているのか。
早速、ご紹介しよう。
伊達政宗も娘を思うフツーの父親だった?
まず、ご紹介する1人目はコチラの方。
「遅れてきた戦国大名」ともいわれる仙台藩祖の伊達政宗である。
政宗を表す「遅れてきた」という修飾語。
豊臣秀吉の「小田原攻め」に文字通り遅れたとの意味合いもあるが、じつは、そもそも彼の生誕の時期が遅かったというコトを指す。永禄10(1567)年生まれの政宗は、天下人の秀吉とは30歳ほど、徳川家康とは25歳ほどの年の差がある。カオスだった戦国時代の終焉が見え始めた頃に、ようやくデビュー戦を飾ったくらいなのだ。奥州(東北地方)における勢力拡大から一転、天下人に服従する生き方を選ばざるを得なかったのも、すべては遅れて生まれたせいとの見方もできる。
政宗が生涯なりたくてもなれなかった「天下人」の座。
じつに豊臣秀吉のあとの空席期間は意外にも短く、あっという間に徳川家康がその座を勝ち取ることに。ただ、政宗だって隣で傍観していたワケではない。なんとか時代を先読みし、徳川一強時代を築く家康との縁を持つことに成功する。それが、政宗の長女である「五郎八姫(いろはひめ)」の婚姻だ。
五郎八姫は、政宗の正室の愛姫(めごひめ)との間にできた娘である。ちょうど母親の愛姫が秀吉の人質として京都にいた頃で、五郎八姫は文禄3(1594)年の京都生まれ。愛姫が嫁いでから15年ほど経ってようやくできた子どもというコトになる。なんでも才色兼備なところは母親に似ていたとか。それだけでも政宗の溺愛ぶりが容易に想像できる。
ただ、そんな五郎八姫も、順風満帆な人生とはいえなかったようだ。
滑り出しは上々だった。秀吉が死去した翌年の慶長4(1599)年、茶人の今井宗薫(そうくん)を介して、政宗の長女である五郎八姫は、徳川家康の6男の「松平忠輝(ただてる)」と婚約。当時はまだ10歳にも満たぬ子ども同士の政略結婚の約束であったが、もちろん政宗はご満悦。というのも、実際に両者の婚姻が実現する慶長11(1606)年では、徳川家康の立ち位置が違う。相手は、押しも押されもせぬ天下人となった徳川家康の6男なのだ。政宗は将軍家との太いパイプを手に入れ、伊達家の安泰に一歩近づいたと考えたに違いない。
そんな伊達家の様子が分かるエピソードがある。
五郎八姫の婚姻は慶長11(1606)年12月。その少し前、同年6月に五郎八姫は仙台へと一時帰国。その際に政宗は粋な計らいをしたとか。その様子を一部抜粋しよう。
松平忠輝に嫁す五郎八姫が同十一年六月江戸より仙台へ帰っている。十月まで滞在するが、七月の盂蘭盆に城の楼上から城下を見物したとき、城下の諸士屋敷と町屋は残らず灯籠を掛けこれにこたえたという。
(仙台市博物館編『図説伊達政宗』より一部抜粋)
幻想的な景色に、五郎八姫は何を思っただろう。
お祝いムードを受けて、数ヵ月後に迫る松平忠輝との将来を思い描いたかもしれない。
だが、数年後に状況は一変する。
さすがの政宗も、五郎八姫が離婚するとは夢にも思わなかっただろう。途中までは平穏な生活だった。松平忠輝は何度か所領が変わるも、その都度、石高も増加。その後、慶長19(1614)年には、越後高田城(新潟県上越市)に移され、五郎八姫もそこで共に暮らしていた。
それが、どうして。
家康の死後。元和2(1616)年、江戸幕府より松平忠輝は改易(身分剥奪、所領など没収)。
理由は諸説あるも、表向きは「大坂夏の陣」の戦に遅参したことなどが影響したといわれている。
これぞ、晴天の霹靂。
驚いたのは、当の本人の五郎八姫だろう。2人の間に子どもはおらず、これをきっかけに両者は別々の人生を歩むこととなる。20代半ばで配流された忠輝は、伊勢(三重県)や飛騨高山(岐阜県)など預け先が変わり、最後は60年近く信濃諏訪(長野県)で過ごした。享年92。大往生である。
一方の五郎八姫はというと。
ここで心配のあまり出しゃばってきた方が1名。彼女の父親、伊達政宗である。
江戸幕府と掛け合って、五郎八姫をいったん母親の愛姫のいる江戸の下屋敷に引き取るのだが。それでも手元に置くまで心配は尽きないと、江戸幕府の許可を得て、五郎八姫を仙台へと引き取るための準備を着々と進めたのである。
慌ただしい準備のさなか、政宗は1通の手紙を出している。
宛先は、五郎八姫の母親である、正室の愛姫。日付は、元和6(1620)年5月18日。
現代語訳でその一部をご紹介しよう。
(前略)仙台はすでに屋敷を定め、大工を入れて造作にかかっている。思いのほか結構な屋敷だ。準備は万端調っているので、こちらから連絡があり次第すぐに姫(五郎八姫)を仙台に寄越してほしい。(中略)私も今年の末か来春は江戸へ上る予定だが、姫はその前に仙台に呼び寄せたい。遅くとも八月か九月には、こちらへ寄越すように。私が留守の間に下向しては何かと行き届かないだろうから、是非私が仙台に入る間に迎えたいのだ。
(佐藤憲一著『伊達政宗の素顔 筆まめ戦国大名の生涯』より一部抜粋)
手紙の中で、何度も五郎八姫を仙台へ、この手で迎えたいと繰り返し綴った政宗。
当時の五郎八姫は20歳を過ぎたあたりの年齢だろうか。今回の一件で大層傷ついた愛娘。もうこれ以上誰かに傷つけられたくない、利用されたくない、とにかく自分の目の届く範囲にいてほしい、という父親の必死さが伝わってくる。スマートさとは無縁の、溢れ出る気持ちが抑えきれない印象だ。じつに、幾多の戦いに勝利した戦国武将とは思えない文面に驚いた。離婚した娘を気遣うも、気持ちだけが先走って空回りする「親父あるある」の一面が垣間見えたのである。
そんな政宗の想いが通じたのか。
元和6(1620)年。五郎八姫は仙台に帰り、仙台城の西の館に落ち着いた。周囲からは「お西様」「西館殿」などと呼ばれていたとか。晩年は出家し、天麟院(てんりんいん)と名乗っている。享年68。
政宗が築き上げた仙台の地で、一人静かに暮らしたという。
徳川家康だって、格好よく見られたい?
さて、お次の2人目はコチラの方。
やはり、この人抜きにしては、戦国時代の記事も引き締まらない。とにかく、エピソードが多めな御仁、徳川家康である。
いやいや、家康はなんてったって「天下人」だぜい?
それも、盤石な江戸幕府の礎を築いた男なのだ。「にんげんだもの」というフレーズが似合うなんてこたあ……
あっ。
あるんだ。
それも、あらま。
一回りほど年下の戦国武将に対して見栄を張っただって?
まあ、なんとも、コメントしづらい状況だが。それにしても気になるのは、家康ともあろう男が、一体誰に見栄を張ったのかというコトだ。
まずは状況を把握しよう。
この一件が起こった時期は、慶長20(1615)年の「大坂夏の陣」の最中である。
「大坂の陣」とは、簡単にいうと、天下人となった「徳川方」の新勢力と前天下人の「豊臣方」の旧勢力の対立だ。豊臣秀吉が死去した時点では、まだまだ幼く天下人を継げなかった「豊臣秀頼」。そんな彼も、その後、立派に成長していくのだが、時すでに遅し。既に天下人の座は徳川方へと移っていたのである。それも、家康は徳川一強時代を築こうと野心的に動き始めたばかりであった。
結果的に両者の衝突は避けられず。
2回にわたる戦いを経て、「大坂夏の陣」で難攻不落といわれた大坂城はまさかの落城。豊臣氏は滅亡という、徳川方の筋書き通りの結末。一方、豊臣方からすれば、なんとも最悪の結末を迎えるのであった。
この大事な終局を迎える「大坂夏の陣」でのこと。
同年5月7日の朝。
家康は、徳川方についた多くの戦国大名を動かしつつ、各地の戦況の報告を受けていた。そんな彼のいで立ちはというと、まさかの「ノン甲冑」。『徳川実記』によれば、家康は甲冑をつけず、「すそをくくった袴に茶色の羽織」という渋い恰好であったとか。
その姿に、とある戦国武将が目を留める。
それが、コチラの方。
伊勢国(三重県)津藩初代藩主の藤堂高虎(とうどうたかとら)である。
高虎は、家康よりは14歳ほど年下で、築城が得意な武将である。また、主君を何度も変えたことでも有名で、豊臣秀吉の死後にはスムーズに徳川方に属し、武功を認められ加増までされている。
そんな高虎だが、この日は家康の不審な格好に注目。
ストレートに神君(家康のこと)に質問したのである。
「どうして甲冑をお召しにならないのですか?」
まあ、そうなるわな。
いくらなんでも、戦の真っ最中である。
兵力差があったとしても、こういう時は何が起こっても不思議ではない。
なのに、なぜ?
そんな高虎に向かって家康は余裕の一言。
「あの(豊臣)秀頼のような若輩者を成敗するのに、どうして甲冑などが必要なものか」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝4』より一部抜粋)
確かに確かに。
今や自分が頂点なのだ。そうぶっこいても、なんらおかしくはない。
高虎もその言葉を聞いて退席。もちろん、納得したかまでは定かではない。あくまで推測だが、そういう意図なのかと、さすが神君とか思ってたりなんかして。
その後、家康は彼がいないことを確かめて、側にいた者にこう話したという。
「(藤堂)和泉は上方出身の者なので、腹の底は見せまいと思い先ほどのような答えをしたのだ」
(同上より一部抜粋)
ふむふむ。
そうえいば、藤堂高虎は近江(滋賀県)出身だ。遡れば、もちろん豊臣方だった時期もある。
なるほど。念のために、一応、高虎を警戒したというのか。
ということは。
逆をいえば、何か甲冑をつけない正当な理由があるというコトになる。例えば、戦術的にとか。家康なら驚くような戦術を考え、そのために甲冑が邪魔だと判断した可能性もあるだろう。
一体、何が?
それでは、この先の家康の答えを確認しよう。
ちなみにだが、やはり、家康はやってくれた。
予想外の本音がぽろり。
「本当は年を取ったために下腹が出ているので、甲冑を着ていては馬に乗ったり降りたりすることもできないために着ないのだ」
(同上より一部抜粋)
えっと。
ええっと。
ここまで引っ張って。体型的な理由なの?
だよね。
確かに言いたくないよね。ちょっと下腹出ててさあ、的なコトを、誰だってあえて口になんてしたくない。
そりゃ、弱みも見せたくないし。見栄だって張るよね。にんげんだもの。
天下取ってるとか取ってないとか、そこは関係ないんだな。
それにしても、なんともビミョーな気持ちになるのは、私だけだろうか。
そんな理由だったコトなど露知らず。
藤堂高虎は、この日も大坂夏の陣の戦いに身を投じたのであった。
最後に
今年最後の締めくくりに。
どうしても「にんげんだもの」をテーマにした記事を書きたかった。
「にんげんだもの」とは、書家で詩人の相田みつを氏の言葉である。
独特の書体とシンプルな言葉で、これまで多くの人々が惹きつけられてきた。
私もその一人。
この言葉を初めて知ったとき。
深く心に染み入ったのち、じわじわと奥底で「安堵」が広がったのを覚えている。
ああ、海のようだと。
そして、こんなに優しくて、広くて、すべてを受け止めてくれる言葉があることに、静かに感謝した。情けない自分に免罪符が与えられた気がしたのである。
ちなみに、この「にんげんだもの」というフレーズだが。
その前に他の言葉が添えられている作品も幾つかある。
「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」
「苦しいことだってあるさ 人間だもの」
「いろいろあるんだな にんげんだもの」
こう見ると、励ましの意味のフレーズが多いように感じる。
個人的な見解だが、恐らく「人間の弱さ」が作品の根底にあるのだろう。
だが、「弱さ」は決してマイナスではない。
今回取り上げた戦国武将もそうだが、弱くて人間くさい、そんな一面が見えたときこそ、逆にほんの少しだけ勇気をもらえたような気持ちになる。ひょっとしたら、自分だってやり通せるかもしれない。もう少しだけ頑張ってみようか。そんな淡い期待が小さな原動力となるように思う。
先ほどご紹介した家康の言葉にも、じつは、さらなる続きがある。
体型的な理由もあって、つい見栄を張った家康。
だが、そのあと。
「なにごとも年をとっては、若いときとはすべて違うものだ」
(同上より一部抜粋)
つい、本音が出てしまう。
でも、いいんだよ、それで。
年を取って、若いときと違ってもいいんだよ。
だって、それが、にんげんなんだもの。
さあ、皆さまもご一緒に。
この一年を振り返って、是非とも自分を労わっていただきたい。
目標が達成できなくても
思いっきり失敗しても
何もせずに終わっても
いいんだよ、それで。
だって、それが、にんげんなんだもの。
参考文献
『越後福島城史話』 中沢肇著 北越出版 1982年1月
『図説伊達政宗』 仙台市博物館編 河出書房新社 1986年11月
『現代語訳徳川実紀 家康公伝4』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年10月
『伊達政宗の素顔 筆まめ戦国大名の生涯』 佐藤憲一著 株式会社吉川弘文館 2020年9月