正午ちょうど。
小雨がぱらつく寒空の下、私は神社の境内で立ち尽くしていた。
「康平社(こうへいしゃ) 一名」
「図書明神(ずしょみょうじん)」
石柱に刻まれた文字を、ゆっくりと声に出してみた。
「なんでまた……」
自ずと言葉がこぼれる。
周囲を見渡せば。
1月だからか、初詣を兼ねて参拝する人の姿もちらほら。
訪れたのは長崎市内にある「鎮西大社 諏訪神社」。
長崎県のみならず、全国でも有名なコチラの神社。なんといっても秋季大祭は、国の重要無形民俗文化財に指定された、あの「長崎くんち」である。
そんな諏訪神社に、一体、何の用事があるのかというと。
なんでも境内の一角に、とある人物が祀られているという。それをこの目で確かめようと訪ねたのだ。
長崎駅から市電で10分ほど。馬町交差点から5つの鳥居をくぐり、長坂を進む。
かなり長い階段を上がって諏訪神社の大門を通り、まずは拝殿でご参拝。その拝殿の裏へと回って横に抜けると、玉園稲荷神社に続く階段の前に出る。その横に建つのがお目当てのお社だ。
現在の呼び名は「祖霊社(それいしゃ)」。
諏訪神社を再興させた奉行や氏子祖先の御霊(みたま)が合祀されている。
だが、当初は、1人の男を慰霊するためであったとか。
当初とは、文化5(1808)年。今から400年以上前の話である。
男の名は「松平康英(まつだいらやすひで)」。
「康秀(やすひで)」「康平(やすひら)」「図書頭(ずしょのかみ)」とも称され、文化4(1807)年に長崎奉行に就任した人物だ。
なるほど。
だから石柱には「康平社」であり「図書明神」と刻まれているのか。
ただ、確か、彼のお墓は別の場所にあったはずだ。既に供養されているにもかかわらず、なぜかもう1つ。この諏訪神社に祀られているという。
「なんでまた……」
1人の男に、2つの慰霊所。
立ち尽くす私の前に、さらに新たな謎が浮かび上がる。
境内の説明版によれば、施主となったのは長崎の総町(そうちょう)。このお社は、長崎の町民らで建てられたことになる。
一体、「松平康英」に、何があったのか。
調べていくと。
まさかの日本史に登場する「あの事件」。
長崎の町を騒然とさせ、鎖国時代の日本の外交方針を一変させた「フェートン号事件」に繋がっていたのである。
※本記事の写真は、「諏訪神社」「大音寺」に許可を得て撮影しています
※オランダの国名は、本記事では年代にかかわらず「オランダ」の表記で統一しています
オランダ国旗を掲げた謎の船の正体
フェートン号事件が起こったのは、鎖国時代の文化5(1808)年。
辞書などの説明では、「長崎に侵入したイギリス軍艦による狼藉(ろうぜき)事件」というのが一般的な内容だ。ついで、セットとなるのは、文政8(1825)年発布の「異国船打払令」。近寄る異国船を砲撃し追い払うという強硬な外交政策に舵を切ったのも、このフェートン号事件が契機になったといわれている。
そんなフェートン号事件の詳細をこれ以上知る人は、そう多くない。
なんせ、日本の歴史には膨大な数の重大事件がありすぎる。言い方は悪いが、フェートン号事件にそこまで注視する格別の理由がないともいえる。
ただ、冷静に考えてみれば。
そもそも事件の始まりからして謎である。鎖国時代の日本で、貿易を許されていた国は限定される。その1つがオランダだ。それなのに、どうしてイギリス船が易々と長崎に入港できたのか。また、その後、事件はどのような経緯を経たのか。最終的な事件の結末も、うっすらとしか見えてこない。
じつは、フェートン号事件に関しては、様々な資料がある。
日本側はもちろん、オランダ側、はたまた侵入してきたイギリス側の資料だ。まずは、江戸幕府編纂の近世外交関係史料集『通航一覧』より、侵入前後の様子が分かる部分を抜粋しよう。
文化5戌辰年8月15日朝、白帆船1艘見ゆるよし、所々遠見番より注進あるにより、長崎奉行手附2人、通事及び蘭人出船して旗合せしに、かれ偽りて蘭人の旗を合せ、端船にて走りより、蘭人2人を捕らえて本船に帰る。
(松竹秀雄 著『海の長崎学2 英艦フェートン号事件』より一部抜粋)
長崎半島先端にある「野母崎(のもざき)」といえば、現代は伊勢海老の漁獲で有名だが、当時は長崎に近付く異国船をいち早く発見して報告する遠見番(とおみばん)が置かれていた場所である。
文化5(1808)年8月15日。
朝6時半頃、この野母崎遠見番より長崎奉行所に1つの報告が入る。
西南の方角に白帆船を発見。次第に近付いてくる1艘の船。伊王島付近でようやく掲げた旗は、待ちに待ったオランダの国旗。そう、オランダ船の来航である。
ちょうど事件のあった年は、未だオランダ船が来航していない状況であった。到着する時期はとうに過ぎている。今年は貴重な物品を積んだオランダ船が来ないのだと落胆の色が濃くなる中で、突然の朗報に市中は大いに喜んだとか。
正午を過ぎ、時刻は既に午後3時半頃。
オランダ船は順調に長崎湾へ。出島(でじま)に掲げられたオランダ国旗に向かって進航した。
ちなみに出島とは、長崎市中を流れる中島川下流の洲に造られた扇形の人工島で、オランダ商館の人々が滞在する区域でもあった。
午後5時半頃。
慣例通り「旗合わせ」のために、日本側より3艘の小舟が近付いていく。この「旗合わせ」とは、双方が前年に打ち合わせたオランダ国旗を出して、貿易の許されたオランダ船であることを確認する手続きである。
3艘の小舟には総勢10名ほどが乗っており、この中には出島のオランダ人2名(ホゼマンとスヒンメル)、奉行所の検使2名、そして通詞(通訳者のこと)2名が含まれていた。
通常であれば、日本側が相手方の本船に乗り込み、積み荷や乗組員数などを確認するのだが、今回は本船よりボートが下ろされ、通常の手順と違ったという。
当時のオランダ商館館長ドゥーフはその場にいなかったが、のちに『ドゥーフ日本回想録』でこの事件を振り返っている。一部抜粋しよう。
不思議なる喚声急に起り、水兵らは直ちにかくしたる剣を抜放ちて、わが船に飛込み、暴力を以てオランダ人の派遣員を捕え、これを艇にのせて本船に連れ行きたり。スヒンメルはそのとき帽子を失いたりという。
(同上より一部抜粋)
どうやら、あっという間の出来事だったようだ。
いつもの確認作業と思いきや、突然、相手方の水兵たちが剣を抜き、オランダ人2名を拉致したのである。近くの通詞らは咄嗟に水中へ。他の小舟に泳ぎ着き、奉行所の検使らと慌てて逃げ帰ってきたという。
ここで登場するのが、冒頭でご紹介した「松平康英」だ。
フェートン号事件が起こる前年より長崎奉行に就任した人物で、今回の事件を処理すべく難しい判断を迫られた日本側の現場の指揮官である。
この予想外の出来事に、松平康英は怒り心頭。
オランダ人を拉致されたのも我慢ならないが、何より部下がすごすごと逃げ帰ってきたのが情けない。現代ならば「何よりお前たちが無事でよかった」となるところだが。さすがに、当時は江戸時代後期である。相手はどこの船だか分からないが、自らの命に代えてでも、拉致されたオランダ人を取り返せとなるワケである。
先ほどご紹介したドゥーフだが、別に記した『秘密日記』からは、その後の異国船の動きと、松平康英の断固たる決意がうかがい知れる。
年番大通詞が来て、3艘の武装した小船が湾内にあり、そのうちの1艘はわれわれの島(出島)のすぐ近くにある大黒町に着岸したといって、われわれ一同直ちに出島から退避せねばならぬとの命令をもたらした。…(中略)…奉行所に逃げ込んだが、時ははや7時であった。私は直ちに奉行のもとに案内されたが、見れば奉行は甲冑で身を固めており、そして私に次のように話しかけた。即ち「ご安心ください。ここにいればあなたには何の災難も起こりません。捕らえられたオランダ人たちを、私はあなたにお返しすることを約束します」と。
(同上より一部抜粋)
オランダ船だと思われた異国船は、オランダ人を拉致するだけではなかった。
夜陰に紛れ、3艘のボートを出して長崎港内を探索したという。これに対して、ドゥーフらは出島から奉行所へと避難。そこにいたのは、甲冑を身に着けた長崎奉行「松平康英」その人。既に臨戦態勢で、必ずやオランダ人を取り戻すと約束したという。
ただ、いかんせん、異国船の目的が分からない。
焦りだけが募り、時は既に深夜となっていた。
そして、日付けが変わったばかりの8月16日午前12時過ぎ頃。
1通の手紙が船より届く。
さらに、日の出と共に明らかになったユニオンジャックの国旗。
まんまとオランダ国旗で長崎に入港し、オランダ人を拉致して、さらには港内までも探索した異国船。
その船の正体は。
なんと、イギリス船だったのである。
幻となった「焼き打ち計画」
手紙の内容は、じつにあっさりしたものだった。
異国船の船長の名がペリューだということ。水と食料が不足しているため、それを提供してほしいというものであった。
ここで、1つ疑問が浮かぶ。
なぜ、いきなり「イギリス」が出てきたのか。
じつは、オランダとの貿易開始から200年ほどが経過した間に、世界情勢は大きく様変わりしていたのである。当時のオランダは、台頭してきたフランスのナポレオンに併合され、国王は亡命。そのフランスと敵対関係にあったイギリスが、今度は世界の海上で強い権力を持つようになっていた。
さらにイギリスは、オランダの植民地を狙い、その貿易の奪取を目論む。実際、この頃のオランダ船はイギリス船から拿捕されることも多かったようだ。日本との貿易を継続するのも、拿捕を回避すべく秘密裏にアメリカ船を雇い入れるなどして、綱渡り状態だった。
さて、このお騒がせなイギリス船に話を戻そう。
資料によれば、この船は大砲48門を装備した「フェートン号」という軍艦で、乗組員は350人ほど。この船を率いていたのは、海軍大佐に進級したばかりの若干19歳の「ペリュー」である。
フェートン号の航海日誌を参考にすると。
長崎港に侵入したのは8月15日。西暦に直せば、10月4日だ。
これまでの航路をみれば、9月18日~25日までの8日間、10月2日を除く9月26日~10月3日までの7日間は、それぞれ同じ海域にいる。記録では天候も問題なく、穏やかな風であったことから、どうやらオランダ船の拿捕を目的にこの海域に留まっていたようだ。だが、オランダ船は一向に現れず。そして、ついに水や食料が不足するに至ったというワケだ。
実際、フェートン号の船長ペリューは、拉致したオランダ人を尋問し、オランダ船の来航の有無を確認。それでもなお疑いを持ち、最後は長崎港内を3艘のボートで探索し、オランダ船の不在を知ったのである。
そんなフェートン号の動きで、大迷惑を被ったのは長崎の町である。
『通航一覧』には、このように記されている。
…市中ハヲロシヤ乱入ト心得、山野へ立退可申ト、男女通路ニ呻吟、海陸トモ一時ニ騒立、人音大涛ノ動揺スルカ如シ、稲佐郷ニテモ婦人ノ乗船被召捕、北瀬崎ニテモ漁師被召捕、深堀ニテモ佐賀ノ足軽被召捕、食物等モ不残奪レ…
(松尾晋一著「フェートン号事件と長崎警備の見直し」(論文)より一部抜粋)
当時の長崎港には、貿易を許されていた唐船も入港していたから、余計に大騒ぎだったようだ。唐人らが異変を知らせる鐘やラッパの音が市中に鳴り響き、山野へと逃れる人が続出。途中、道路で呻いている人たちなど、混乱の極みであった。そのため、稲佐で女性、北瀬崎で漁師、深堀で足軽が連れ去られたというフェイクニュースが一気に広まったという。
また、このような様子も記されている。
一長崎中者、右之混雑にて、只今にも異国人致上陸候儀と申触候に付、旅人者我先と逃行、田舎よりの奉公人も追々逃帰り、此一両日者市中肴類も売行き不申、能売捌候者、蝋燭并草鞋にて御座候
(同上より一部抜粋)
異国人が上陸するという噂で旅人のみならず、奉公人も逃げ帰るという有様。魚は売れず、ろうそくとわらじがよく売れたという。そりゃそうだ。暗い夜道の中を逃げるには必需品である。
市中騒然の状況で、松平康英は、即、行動に移す。
なんといっても、このようなイギリス船の狼藉を許せるワケがない。当然、すべきはイギリス船の焼き打ち、一択である。
そもそも、江戸幕府は寛永18(1641)年に、長崎港の入口手前、最も狭くなる場所に番所(防衛施設)を設置した。長崎天領の「戸町」と、対岸にある大村領の「西泊(にしどまり)」である。石火矢や大筒が装備され、設置当時は1000人ほどが勤番していたことから「千人番所」とも呼ばれていたという。
両番所での長崎港の警備は、筑前福岡(黒田)藩と肥前佐賀(鍋島)藩が1年交代で担当。加えて秋月、唐津、平戸、五島、大村、島原の6藩が支援した。一方で、これら8藩は様々な公役を免除され、参勤交代に関しても江戸滞在期間は100日と短縮。そのため「百日大名」と称された。
そして、フェートン号事件のあった年はというと。
ちょうど肥前佐賀(鍋島)藩の担当であった。
さすがに1000人ほどの兵がいれば、イギリス軍艦といえども、武力行使で人質となっている2名を奪還……いや、奪還はムリでもせめて一矢報いることはできそうなものである。
だが、あろうことか。
実際に両番所に詰めていたのは、僅か百数十名。
一体、何が起こったのか。
残念ながら、両番所が設置されたのは昔のこと。200年ほどが経過した今、オランダ船の来航に、悪い意味で慣れきってしまっていたのである。というのも、その年はオランダ船が来航する時期はとうに過ぎており、オランダ船の来航がないと判断、大半の兵がまさかの国元へと引き揚げたあとであった。
実際に、この場所を訪ねた。
「戸町御番所」は長崎駅からバスで15分ほど。細い坂道を上がって海に面した道にある。バス停から近いのだが、番所跡地がなかなか見つけられない。カメラマンが早速、ウロウロ巡回。一瞬、階段の先にある小高い丘とも思ったが、細い脇道にようやく石柱と石碑を発見。
資料によれば、当初は「小屋」のような粗末な建物であったが、改築されたとのこと。港に面した斜面に5段に分かれ、16棟の建物があったようだ。現在は住宅地となっており、標柱と石碑が残っている。
一方、ちょうど対岸に位置する「西泊御番所」も、同じく斜面に建てられていたという。
長崎駅より浦上川を渡り、バスで15分ほど。コチラは、戸町側の番所付近とはまた違って、造船関連の施設が目立つ。実際に「西泊御番所」の跡地の大半は、現在、三菱重工業長崎造船所の敷地となっているとか。後世に建てられた石柱で、辛うじて分かる程度である。
上まで続く山の斜面からは、どちらの番所も長崎港入口を見下ろせる。
確かに、長崎港へ侵入する異国船を両岸より攻撃することが可能だろう。
ただ、それも人があってのこと。
いかんせん場所を整備しても、勤番の兵らがいなければどうすることもできないのだ。
それでも、松平康英は最後まで孤軍奮闘する。
まずは、異国人の襲撃に備えると共に、焼き打ち準備のために、筑前福岡(黒田)藩と肥前佐賀(鍋島)藩の聞役(ききやく、本藩への伝令役)を招集。万が一、焼き打ちができずとも、そのまま出航させず船を留める方法も考えるように指示している。また大村藩など近隣の藩には出兵を促し、なんとか一矢報いるためにと諦めることはなかった。
しかし、現実は時に残酷だ。
各藩からの兵は、数時間の差で間に合わず。
残念ながら、松平康英の焼き打ち計画は、幻に終わるのである。
松平康英流の幕引きとは?
一言でいえば。
松平康英には、そもそも手持ちの札がない。選択肢がなかったといえる。
結果的に、イギリス船「フェートン号」との交渉は、言われるがまま。オランダ人2名を無事に取り戻すことを優先すべきという、当時のオランダ商館館長ドゥーフの主張を全面的に認める格好となった。
イギリス側の資料、フェートン号の航海日誌より一部抜粋しよう。
一八〇八年一〇月五日水曜日…(中略)…午後、軟風、曇天、
日本人から食用牛四頭、水四樽、薪少量、山羊数匹、野菜若干を受取った。
船荷監督のオランダ人二人を上陸させた。
(法政大学史学会 編 「法政史学 (19)「フェートン号事件が蘭船の長崎入港手続に及ぼしたる影響」(片桐一男)」より一部抜粋)
説明を補足すると。
人質となった2名はすぐに解放されたワケではない。10月5日というのは西暦で、日本の旧暦では8月16日。2日目となる。幾度か手紙のやり取りを経て、ようやく事態が動いたのは午後4時頃。拉致されたホーゼマンが、船長ペリューの文書を持って一時的に帰ってきたのである。
これは、必要とする食料をイギリス船に持ち帰るという、ペリューからの命令を受けてのことだった。当然、ここでも松平康英とドゥーフは意見が対立する。戻ってきた人質をむざむざイギリス船に帰すなど、松平康英からすれば言語道断。だが、ドゥーフは譲らない。残るオランダ人、スヒンメルの命を盾に取られれば、手も足も出ないのである。
こうして、無念にも、1回目の水や薪、食料をイギリス船に補給。
航海日誌に書かれた食料以外にも、じつは鶏や梨など果物も渡している。
これを受けて、人質となっていた2名のオランダ人はようやく解放。
だが、これで終わらない。
オランダ人2名の解放の際に、再び船長のペリューより追加補給の要請があったのだ。
一八〇八年一〇月六日木曜日…(中略)…午前、頃合の軟風、晴天
日本人から水四樽と薪、野菜、果物など少量を受取った。
ボートを全部釣入れた。…(中略)…
十二時、港を離れた。
(同上より一部抜粋)
既に人質は取り戻したのだ。
松平康英は、なぜ無視しなかったのか。
正確には、無視できなかったといえる。というのも、やり取りした手紙の中で、日本船や唐船を焼き払うという脅し文句があったからだ。
この脅し文句に関しては諸説ある。じつはイギリス側ではなく、密かに部下を取り戻したいがために、英語からオランダ語の翻訳に際してドゥーフが追記したという説もあるのだ。
真相は定かではないが。1つ言えるのは、対抗できる兵力を持ち合わせていなかった松平康英の判断に、この脅しは大きな影響を及ぼしたというコトだ。
こうして、3日目となる8月17日。
要求通りに追加補給を行う。航海日誌に書かれた以外にも、いもや梨、タバコなども差し出したという。
同日11時45分。フェートン号は碇を上げ、正午に出航。
大村藩と諫早藩から約800名の兵が到着したのは、その少しあとのことであった。
その夜。
松平康英は、自害。
自害の時間や場所については諸説あるも、その様子を『通航一覧』より一部抜粋する。
切腹は17日夜4ツ(午後10時)過ぎ夜半頃、西役所「居間の先、鎮守の手前、生垣の際に毛氈を敷き、臍下一文字に薄く引き、鍔元まで喉をさし通し、あっぱれのご生害」
(松竹秀雄 著 「海の長崎学2 英艦フェートン号事件」より一部抜粋)
へそ下を一文字に引き、喉を指し通して自害。享年41。
松平康英の亡骸は、長崎市内にある「大音寺」に葬られた。
じつは、松平康英は1通の遺書を残している。
少し長くなるが、その一部を是非ともご紹介したい。
一、オランダ人両人うばい取られ、日本の恥辱に相成り、いまさら公儀の御威光をけがし候段、申し訳これなし。
二、十五日の夜、端艇(ボート)にて、イギリス人、港内へ乗り入り候儀は案外にて、気付き申さず候。
三、肥前(佐賀)の番衆、当年はもはやオランダ船参らぬものと心得、内々にて国許へ引き取り、今更ながら無念のいたりなり。
四、異国人(イギリス人)より法外の横文字さし出し…オランダ屋敷より穏やかなる取り計らひを願い出て候まま、よんどころなく薪水、野菜を与へ、オランダ人よりも牛、豚など相贈り候。
五、大村上総介儀、いま二た時(四時間)ばかりも早く到着候はば焼き討ちつかまつるべく候ところ、間に合い申さず。
右五ヶ条、不調法、不行き届きの段々に今さら後悔におよび候へども、一身の恥辱は差しおき、天下の恥辱を異国へ現はし候。
御断わりのため、切腹つかまつり候。
(志岐隆重 著 「長崎出島四大事件 長崎奉行との緊迫の対決」より一部抜粋)
不調法とは「行き届かず手際が悪い」「あやまち」など様々な意味を持つ言葉だ。遺書の中で何度も使われているのが目を引く。自らを責めても責めてもまだ足りない、そんな松平康英の心情が伝わってくる遺書である。
部下の臆病さと失態、肥前佐賀(鍋島)藩の警備人数不足、商館長ドゥーフの要望の聞き入れ、近隣の藩からの出兵の遅さ。それぞれの事実が不幸にも積み重なったが、松平康英は、すべては自身の管理不足、油断が招いたものと、一切の言い訳はしなかった。
そんな松平康英の自害について、ドゥーフは『秘密日記』の中で触れている。
人々は次のように推測している。…(中略)…彼らの船と乗組員を焼き払うのが命令である。そして奉行はそうするために充分な軍勢を持たなかったため、その機会を見出すことができず、それ故、わずか一握りの軍勢をもって望みのない企てを行って、数えきれないほどの人々を不幸にするよりは、むしろ自らの生命だけを奪いたかったのだ。
(松竹秀雄 著「海の長崎学2 英艦フェートン号事件」より一部抜粋)
確かに、ドゥーフの指摘する通り、下手に焼き打ちに臨んだ挙句、逆に船長ペリューの逆鱗に触れ、長崎の町が火の海になるのは目も当てられない。それなら、いっそ自らを犠牲にする。松平康英の自害は、そんな道を選んだ結果という解釈だ。ドゥーフも、自分がその立場なら同じく焼き打ちの主張をしただろうと振り返っている。
松平康英の自刃を受けて。
その後の江戸幕府の対応についても触れておこう。
まず、江戸幕府は肥前佐賀(鍋島)藩を長崎警備より外した。その上、当時の佐賀藩主鍋島斉直(なりなお)に対しては、江戸にて「逼塞(ひっそく、閉門して謹慎、夜間の出入りは可能)百日」を命じている(刑罰については諸説あり)。もちろん、松平康英のみならず、鍋島の家臣ら数名も引責自刃。
さらに、新たに台場を築くなどして、外国船に対する警備体制を強化した。
最後に。
松平康英が眠る大音寺を訪ねた。
この大音寺はミゼリコルディア教会跡地に創建された寺で、長崎三大寺の1つである。
長崎駅より市電で10分ほど。そこから徒歩で坂道を上がっていくと、見晴らしのいい場所に辿り着く。
高台からの眺めは絶妙で、長崎の町をちょうど良い距離で見渡せるからか、この付近には長崎に貢献した人物の墓地が集まっている。
その中の1つが、大音寺の境内にある、松平康英の墓だ。
五輪塔形式の墓で、さらに塀や門があり、格別の扱いを受けていることがわかる。長崎奉行の墓の中でも、唯一の市指定史跡なのだとか。とても静かで穏やかな場所である。
彼の長い遺書の中には、後任の長崎奉行についても触れられていた。
どうか、自分よりも多くの兵力を持つような、そんな身分の者を当ててほしいと。
さぞ無念だったであろう。
そんな彼の気持ちを慮りながら。
そっと手を合わせて、取材を終了した。
取材後記
フェートン号事件に際し、松平康英が取った対応の中で、1つ気になったコトがある。
以下、その部分を論文より抜粋しよう。
松平康英は、地役人に安禅寺と大音寺の御霊前守護を交替で行うように指示している。ここには、歴代の徳川将軍を祀る霊廟があった。松平康英は、長崎の港湾機能を維持するのに重要な場所に人を詰めさせたが、これと同じ意識で、将軍の権威を守る行動をみせたのである。
松平康英は、オランダ人を将軍からの預かりものと捉えていて、長崎を治めるものとして守るべき対象との認識を持っていたのである。
(松尾晋一著「フェートン号事件と長崎警備の見直し」(論文)より一部抜粋)
松平康英は、「長崎奉行」という自分の立場を忘れたことがなかった。
それは「天領(幕府の直轄地)である長崎を治める者」という意識を常に持っていたというコトである。実際に、遺書の中でも幕府の威光をけがす、国辱をさらけ出すコトに対して謝罪しており、だからこそ、自らこの身をもって償うという幕引きを選択したように思う。
だが、一方で。
イギリス船の要求をのみ、服従するという「恥辱」を一身に引き受けたからこそ。長崎の町を守ることができたともいえる。長崎の町民が「図書明神」として彼を祀ったのも、その苦渋の決断を理解したからだろう。
松平康英が長崎の地に赴任した時間は、決して長くはない。
だが、守りたかったのは、この美しき長崎の海。
そして、長崎の町と人。
それは間違いない。
この日、取材の最後に見た戸町番所跡から見える長崎の海。
それは、あまりにも綺麗で。
切なくなるほど、穏やかだった。
撮影:大村健太
参考文献
法政大学史学会 編 「法政史学 (19)」 法政大学史学会 1967年1月
平井聖 著 「日本城郭大系 第17巻」 新人物往来社 1980年11月
松竹秀雄 著 「海の長崎学2 英艦フェートン号事件」 くさの書店 1993年3月
志岐隆重 著 「長崎出島四大事件 長崎奉行との緊迫の対決」 長崎新聞社 2011年12月
本田貞勝 著 「長崎奉行物語 サムライ官僚群像を探す旅」 雄山閣 2015年1月
山本博文 著 「武士はなぜ腹を切るのか」 幻冬舎 2015年5月
松本英治 著 「近世後期の対円外政策と軍事・情報」 吉川弘文館 2016年9月
松尾晋一 著 「フェートン号事件と長崎警備の見直し」 長崎県立大学論集(経営学部・地域創造学部) 第55巻第3号