高岳(たかおか)は、江戸幕府の第10代将軍徳川家治(とくがわいえはる)の時代に、大奥の女中たちのトップである「老女」まで上りつめた女性。
2025年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、表の老中に匹敵するといわれた大奥の総取締役を、冨永愛さんが演じます。
奥女中のトップは若くても「老女」
江戸城の本丸御殿は、幕臣たちが政治を行う「表」と、将軍の執務場所兼生活の場所である「中奥」、将軍の妻子が暮らす「大奥」とに分かれていました。
大奥につとめる女中たちは、将軍や御台所(みだいどころ/将軍の正室)に直接目通りできる「御目見(おめみ)え以上」と「御目見え以下」に分類されます。
老女と呼ばれたのは、基本的には御目見え以上のなかでも格上の「上臈御年寄(じょうろうおとしより)」または「御年寄」だけ。
*上臈御年寄と御年寄の間に、小上臈という役職が置かれることもありました。
ちなみに御年寄になるのに年齢は関係なく、若くても御年寄まで出世をすれば老女と呼ばれました。
大名の出世にも口出しできる権力者
上臈御年寄は公家出身で、皇族や公家出身の御台所に付き添って江戸城に入り、話し相手などをつとめていた女性がつくことの多い名誉職のようなもの。実質的に大奥の女中たちを指揮監督していたのは、旗本出身の将軍付き御年寄たちです。
高岳は、浦賀奉行をつとめていた又従弟の林藤五郎忠篤を宿元(身元保証人)として大奥に出仕。宝暦10(1760)年に、筆頭御年寄の松島に次ぐ2番手の御年寄へと出世しました。
仙台藩には、明和元(1764)年に薩摩藩主の島津重豪(しげひで)が従四位の中将に出世したことを受けて、藩主の伊達重村(だてしげむら)が「自分も中将にして欲しい」と幕府の重臣らに根回しをして回ったという記録が残っています。
このときに伊達重村が根回しをした相手として、ときの老中松平武元(まつだいらたけちか)や、御側御用取次(おそばごようとりつぎ)という役目で将軍の近くに仕えていた田沼意次(たぬまおきつぐ)と並び、大奥御年寄・高岳の名前も挙がっています。
閉じられた女の園で暮らしていたはずの大奥の女中が、大名の官位昇進に口添えができるほどの政治力持っていたとは、驚きませんか。
『奥奉公出世双六』著者:国貞改二代豊国 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
主な仕事は大奥の取り締まり
江戸城の大奥につとめる女中たちは、「見聞きしたことの一切を外にもらしません」という誓約書に血判を押して奉公します。
そのため内情を知る手がかりが限られているのですが、明治になってから、かつて大奥につとめていた女性たちに聞き取りをした話によると、「御年寄は部屋に座って煙草盆を前に一歩も動かず、様々な申し立てを裁決し、それぞれを指揮していた」のだそう。
歴代将軍の忌日などに、御台所に代わって霊廟のある江戸城内の紅葉山や、菩提寺の芝・増上寺、上野・寛永寺などにお参りをする「代参」も御年寄の仕事でした。
奥向きの万事を取り仕切っていた御年寄は、表の老中に匹敵するほどの権力者であり、万一のときに将軍の後継ぎを出すために作られた御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(田安、一橋、清水)の正室が大奥を訪れたときでさえも、頭を畳につけることはなかったと伝えられています。
年収は1000万円以上!?
高岳が筆頭御年寄をつとめていた時期の『女中分限帳』を見ると、高岳は武家出身ながら上臈御年寄として奥女中のトップに名を連ね、花園や飛鳥井などの公家に縁の上臈御年寄たちよりも、さらに多くのお給料をもらっています(家治の時代には、大奥の老女はすべて上臈御年寄に統一されていたという説もあります)。
上臈年寄 高岳
切米百石、合力金百両、十五人扶持、薪三十束、炭二十俵……
上臈年寄 花園、飛鳥井、滝川、花島、野村
切米五十石、合力金六十両、十人扶持、薪二十束、炭十五俵……
米や貨幣の価値は時代によっても変わりますが、米一石をおよそ一両、一両を約10万円とすると、高岳の年収は切米(基本給)と合力金(衣装代などの特別手当)だけで約2000万円。その他の御年寄たちも年収1000万円以上になる計算です。
当時の江戸には、年収100万円以下で副業をして暮らしていた下級武士がたくさんいたことを考えると、驚くほどの高給取り。
しかし、当時の基本給は米です。
米は天候によって生産量が左右されるため、価格が安定しません。2024年の米不足で、米がぐんぐん値上がりしたのは、私たちの記憶にも新しいところ。
そこで価格の変わりやすい米に頼らない、貨幣中心の経済にシフトしようと改革を行ったのが、田沼意次でした。
老中選では、賄賂政治家・田沼推し!?
田沼意次は、第9代将軍徳川家重(いえしげ)の小姓から、老中へと異例の大出世をした人物です。おそらく敵も多かったのでしょう、賄賂政治家と批判されることもありますが、仙台藩主伊達重村の出世工作を見ても分かるように、戦で武勲をたてるということができない平和な時代には、誰もが伝手を頼りに出世をしていくしかありませんでした。
「成り上がりの老中」と呼ばれた田沼意次は、子どもを有力な大名の娘や息子と結婚させることで、幕僚たちとの間に強固な人脈を築いています。
そして、倹約令などで贅沢を取り締まられていた大奥には、いわれるままの予算を出して、将軍の側室や御年寄たちをも味方につけていったのです。
ところが、天明6(1786)年に徳川家治が亡くなると、反田沼派の松平定信(まつだいらさだのぶ)が勢いをつけて、次期老中をめぐり幕府の重臣たちも田沼派と定信派に分かれる激しい争いが起こりました。
高岳は松平定信の老中就任に反対派。
しかし大奥では、第11代将軍徳川家斉(いえなり)が幼いころから、側に仕えてきた御年寄の大崎が勢力を伸ばし、松平定信を支持します。
松平定信が次の老中に決定すると、大奥の権力は高岳の手から離れていきました。
江戸城の表と奥は、将軍だけが行き来のできる別の世界と思いきや、とても密な関係にあったようです。
アイキャッチ:『千代田之大奥 園中の雪』著者:楊洲周延 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
参考書籍:
『徳川「大奥」事典』(東京堂出版)
『定本 江戸城大奥』(新人物往来社)
『御殿女中』三田村鳶魚(青蛙房)
『論集 大奥人物研究』(東京堂出版)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)
『伊達家文書のなかの田沼意次–意次像の再検討』藤田 覚(2006)論集きんせい 28