NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の舞台となっている江戸の遊郭・吉原は花見の名所でした。毎年3月朔日(1日)を「花びらき」と定め、遠方からも多くの見物客がやって来ました。しかし、吉原の桜はこの時期に合わせて植樹し、花びらきが終わると撤去するという、労力と資金を要するイベントでした。誰が、どのように植樹したのでしょう? また、その費用は?
花びらきは1740年代に始まった
現在の桜の開花は3月末〜4月ですが、旧暦の江戸時代は暦が1カ月ほど早いため、2月末〜3月いっぱいが盛りでした。
吉原の花びらきが始まった時期は、諸説あります。『吉原大全』は寛保元(1741)年、『柳花通誌(りゅうかつうし)』は同3(1743)年、『半日閑話(はんにちかんわ)』『東都歳事記』は寛延2(1749)年と記していますので、いずれにせよ1740年代に成立したとみていいでしょう。
18世紀後半には遠国からわざわざ見物に来る人が出るなど、全国的にも知名度の高い行事に定着します。
仲の町 桜に人を つなぐとこ
明治初期発行の本に掲載された川柳です。作者不明ですが、江戸時代に多くの人でにぎわう様子を、地方から来た見物客が詠んだと思われます。「国許では桜の木に馬をつなぐのに、吉原仲の町は人をつないでいる」という意味です。
明治36(1903)年発行の雑誌『能楽』には、桜の枝を折る男のエピソードも載っています。番人が「この桜はカネがかかっているのだからそんな真似するな」と注意したところ、「オレの国ではよくあること」と言い返されたそうです。今でいうオーバーツーリズムでしょうか。いつの時代も観光地にはトラブルが付き物——そう感じさせます。
夜桜見物には吉原が最適
花びらきは遊郭の外に出ることができない遊女や禿(かむろ)を癒す、心のケアを意図して始まったと記す文献(『吉原春秋二度の景物』/文政年間)があります。しかし、それ以上に商売上の戦略、すなわち集客が目的だったのは明らかで、『江戸歌舞伎と広告』(東峰書房)は以下のような興味深い解説をしています。
花曇 鐘は上野か 浅草か
貞享4(1687)年に松尾芭蕉が詠んだ句で、満開の桜が雲のように広がっている景色を「花雲」と喩(たと)えたものです。この句から1600年代の桜の名所といえば、吉原に近い上野と浅草だったことがわかります。ところが上野は寛永寺の敷地にあるため、夜になると入り口の黒門が閉まり中に入れず、浅草寺も夜は仁王門(雷門)を閉じてしまい、閑散としていました。つまり、「夜桜」の見物には不向きだったのです。
そこで吉原は桜を提灯で照らして「深夜まで見物できる」とアピールし、この企画が見事に当たったというのです。
昨日までない花の咲く面白さ
吉原はすでに花が付いている桜の木を、2月25日頃から遊郭に搬入し、人工的に並木を「造成」していました。そして3月末、散る頃に撤去する——これを毎年繰り返しました。
江戸後期の百科事典『守貞漫稿(もりさだまんこう)』は、こう記しています。
仲の町往来の正中(真ん中)に桜を植えつらね、左右に埒(らち/囲いのこと)を結ぶ。晦日(3月末日)を過ぐれば抜き去り、明年また植える。
この一文を裏付けるように、『東都名所吉原五丁目弥生花盛全図』は仲の町の中央に造られた柵と、そこに植えた桜並木を描いています。
この見事な景観がわずか数日の植樹によって突如出現し、3月末には並木が丸ごと消え去ったのですから、“一瞬の夢”のような出来事だったといえるでしょう。
江戸近隣の植木職人たち総出で木を搬入
桜はどこから運ばれてきたのでしょうか。おおよそは文献史料から見てとれます。
・『洞房語園(どうぼうごえん)』/三河島・安行の植木屋が運んだとある
・小林一茶『真蹟集』/駒込の「染井村」を詠んだ句に「花咲くと 直ちに掘らるる 桜かな」とある
三河島は吉原から半里(約2km)の至近距離にあり、伊藤七郎兵衛という植木屋が有名でした。安行は4里(約16km)。現在の埼玉県川口市で、やはり植木の里として知られていました。
駒込の染井村も植木職人が集住していた場所で、吉原とは1.2里(約5km)。一茶はそこで、今まさに吉原に運ぶ桜を掘って抜いているところに遭遇したわけです。染井は桜の品種「ソメイヨシノ」発祥の地といわれますが、品種改良によってソメイヨシノが誕生するのは幕末ですから、吉原に納めていた頃は八重桜でしょう。
二代歌川広重も『東都三十六景』で、染井の植木屋と思しき男が桜の木を運ぶ途中、本郷通り(文京区)でひと休みする姿を描いています。
三河島・安行・染井などの植木職人たちが、おそらく総出で桜の木を運んだと考えられます。大変な費用がかかったことは、想像にかたくありません。
江戸文化・文学研究家の田中優子氏は総額150両、現在の価値にして1750万円と見積もっています。また、この5分の1を吉原の茶屋、5分の2を遊女、5分の2を見番(料理屋・芸者屋)が負担したといいます(『遊郭と日本人』)。
対するご祝儀は4200万円
一方、妓楼の経営者たちには、ご祝儀が入りました。前述の『能楽』によると、ある年には諸侯(大名屋敷)と商人から、合計360両(約4200万円)の心付けがあったということです。
費用は1750万円、対する祝儀は4200万円。他にも客がおカネを落としていったでしょうから、「カネの成る木」だったといえます。
『べらぼう』第4話で花魁の松の井(久保田紗友さん)が蔦重に、「女郎は打出の小槌ではありんせん」と吐き捨てます。花びらきの際も費用の5分の2を負担させられ、しかし祝儀は妓楼の“親父様”たちが吸い上げる——毎年3月、同じセリフを女郎たちは口にしていたかもしれません。
華やかな“一瞬の夢”の裏には、遊女たちの苦労があったのです。
参考資料:『江戸歌舞伎と広告』(東峰書房)、『遊郭と日本人』(講談社現代新書)、『能楽』(能楽発行所)
アイキャッチ画像:『三体志』(さんたいし)、文政12(1830)年、歌川国貞 国際日本文化研究センター所蔵