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2024.04.29

蔦重が発行して大ヒット! 『吉原細見』には何が書かれていた?

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幕府公認の遊郭、吉原を訪れる人々の案内書となっていたのが『吉原細見(よしわらさいけん)』です。これは、吉原での遊び方案内のようなものでした。妓楼(ぎろう)の名前や場所、遊女の名前、格付け、揚げ代(遊女と遊興するときの値段)、茶屋などが詳細に書かれた今でいうガイドブックのようなものとして販売されていました。現存する最古のものは元禄2(1689)年刊行の《絵入大画図》だといわれています。

あっ!左側奥の男性が凝視しているのは、『吉原細見』ですね!表紙に遊女が描かれています!

広大な吉原はまるで、現在のテーマパーク?

約2万坪の広さがあったといわれる吉原は、遊女をはじめ、妓楼の人々、商人や職人をふくめ、およそ1万人が暮らしていました。大門と呼ばれる一つの出入口しかない閉じられた世界は、一種、テーマパークのようなものでもあり、遊郭に通う客だけでなく、江戸の最先端、吉原を一目見ようと、物見遊山の観光客が押し寄せる場所でもあったのです。

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『吉原の大門』シカゴ美術館より
吉原遊郭のメインストリートには、桜や季節の花が植えられて、華やかさを演出していました。夜桜の花見は、普段立ち入ることができない一般女性にも解放されて、賑わったそうです。

蔦屋重三郎が冊子として出版!

吉原細見を買うのは遊女通いの男たちだけでなく、観光目的で訪れた人々も、吉原土産として購入していました。この人気に目を付けた地本問屋、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)が版元となり、安永4(1775)年には、縦長の冊子として出版されます。まさに今でいうガイドブックの原型でした。吉原では、これらを売る男たちを「細見売り」と呼び、道行く人に売り声をかけていました。専属の販売人がいることからも、いかに人気があったかが想像できます。

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『吉原細見五葉枩』天明3 (1783)年 蔦屋重三郎出版 国立国会図書館デジタルコレクションより

先見の明のあった蔦重は、当時人気のあった戯作者、太田南畝(おおたなんぽ)※1や朱楽漢江(あけらかんこう)※2、山東京伝(さんとうきょうでん)らに序文を執筆させ、その価値を高めていきました。

※1 江戸後期に活躍した文人。狂歌や洒落本,黄表紙などの作者。※2 江戸時代後期の戯作者、狂歌師。

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見せしめに手鎖の刑も。吉原を愛したマルチクリエイター・山東京伝の生涯

『吉原細見五葉枩』天明3 (1783)年 蔦屋重三郎出版 国立国会図書館デジタルコレクションより 吉原の年中行事の記載も見られる。
一般大衆のニーズを知った蔦屋重三郎は、吉原生まれで顔がきくこともあって、「吉原細見」のビジネスで大成功!ここから快進撃が始まったのですね!

アイドルを追いかけるファンのように、遊女たちに憧れた人々も購入し、ベストセラーとなった吉原細見は、毎年、刊行され、出版は明治初年まで続いたといいます。いつの世も閉ざされた世界を覗きたくなる気持ちは同じなのですね!

参考文献:図説 吉原事典 永井義男著 朝日新聞出版、国史大辞典(小学館デジタル)

アイキャッチ:『彩色美津朝』鳥居清長画 国立国会図書館デジタルより 

書いた人

旅行業から編集プロダクションへ転職。その後フリーランスとなり、旅、カルチャー、食などをフィールドに。最近では家庭菜園と城巡りにはまっている。寅さんのように旅をしながら生きられたら最高だと思う、根っからの自由人。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。