Culture
2019.08.30

信長に仕えた黒人「弥助」とは何者だったのか。史料に見る実像とその後を探る

この記事を書いた人

戦乱の九州で過ごした2年間

フランシスコ・ザビエル

10万人の信者を獲得していたイエズス会

イエズス会のフランシスコ・ザビエルによって、キリスト教が初めて日本にもたらされたのは、天文18年(1549)のこと。弥助らの日本上陸の、ちょうど30年前であった。ザビエルは日本人について、「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒の間では見出せない。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がない。驚くほど名誉心が強く、他の何ものよりも名誉を重んじる」と語っている。

ザビエル来日から30年の間に、日本におけるキリスト教信者は10万人にのぼっていた。特に九州地方と、京都周辺での布教の成功は目覚ましかったという。天正4年(1576)には、イエズス会によって京都に教会堂が建てられ、「都の南蛮寺」と呼ばれた。

一方、ヴァリニャーノ一行が上陸した九州では、来日の翌年にあたる天正8年(1580)にキリシタン大名の大村純忠(おおむらすみただ)が、なんと長崎の地をイエズス会に寄進している。その背景には、ポルトガルとの交易による利益と軍事力を自領に確保しようとするねらいがあったが、純忠自身が熱心なキリスト教信者であることもまた事実だった。のちに純忠はヴァリニャーノと面会し、「天正遣欧少年使節」の派遣も決定している。

長崎

三勢力鼎立の九州から都へ

ヴァリニャーノ一行は来日してから2年間を、主に九州で過ごした。九州では豊後(現、大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が最有力の大名であり、キリシタン大名でもあったが、薩摩(現、鹿児島県)の島津氏に高城(たかじょう)川の合戦で大敗を喫して以来、失速。代わりに島津氏と肥前佐賀(現、佐賀県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が台頭して、三勢力鼎立(ていりつ)の争いとなっていた。しかしヴァリニャーノ一行に危害が及ぶことはなく、ボディガードの弥助が腕力を振るう機会もなかったろう。ただし、弥助の姿に驚いて、一行のもとに群がる日本人は少なくなかった。

そして天正9年(1581)に入ると、ヴァリニャーノは使節として都を訪問することを決意する。実はヴァリニャーノが日本を去る日が近づいており、その前に日本最大の実力者である織田信長に拝謁して、イエズス会の布教活動の庇護を確かなものにしておきたかったようだ。大友宗麟の献身的な協力を得て、宗麟が仕立てた船に乗ったヴァリニャーノ一行は、瀬戸内海を一路、和泉(いずみ)の堺(現、大阪府)へと向かう。それは弥助にとっても、運命的な旅路であった。

大友宗麟像

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。