歌舞伎役者と狂言師と邦楽家が流派を越えたコラボレーションを繰り広げる催しが、深まる秋の名古屋で開かれます。平家物語「語る」です。日本古来の伝統芸能である歌舞伎と能狂言と長唄。それぞれの第一人者が互いの垣根を越えて平家物語を語り合う。そのさまは、まさに日本の古典芸能の異種格闘技といえるでしょう。主催する「日本の伝統文化をつなぐ実行委員会」で企画・運営に携わる市川櫻香(いちかわ・おうか)さんに企画の狙いや見どころなどを伺いました。
市川櫻香
古典の邦楽家の家に生まれる。1983年名古屋むすめ歌舞伎を創立(現在はNPO) 。市川宗家より市川姓を許される。2007年に開催した「櫻香の会」で十二世市川團十郎と共演。名古屋市芸術奨励賞、日本演劇協会賞、サントリー地域文化賞などを受賞。古典舞踊家として活躍するかたわら「子どもと伝統芸能」などの活動を通じて後進の育成にも力を注ぐ。甲南女子大学「身体論」講師。
始まりは2007年名古屋能楽堂で開いた「櫻香の会」
伊紅白歌合戦の審査員席に座る十二世市川團十郎さんをYou Tubeで見たことがあります。まだ海老蔵時代の映像なんですが、現在の海老蔵さんと瓜二つ。血を感じました。そんな十二世と櫻香さんはかつて歴史的な競演をなさっていますね。
櫻市川團十郎先生がご著書の『團十郎復活』にお書きくださいましたが、年齢的なこともあり、私がむすめ歌舞伎をそろそろ辞めたいと申し上げたことがあります。2006年ごろのことです。その上で、自身の勉強の場を持ちたいという思いをお話しましたところ、後押しをしてくださるということで「櫻香の会」を立ち上げました。その第1回を名古屋城にほど近い名古屋能楽堂で2007年に開きました。この時は團十郎先生が「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」の大伴黒主役で特別出演してくださいました。私は小町桜の精を演じました。
「お能は私ども歌舞伎の先輩芸能です」
伊歌舞伎の演目を能舞台で男女が演じるのはかなり意欲的、というより挑戦的な試みじゃないですか。
櫻先輩芸能の「能楽」の本拠地である能舞台で歌舞伎を上演させていただくことは、大変な勉強です。まして、女性の芸能者です。歌舞伎の出発点ともいえる出雲阿国(いずものおくに)さんが能舞台で上演している絵などがあります。私は原初回帰などという思いでかねがね、いつかそのような舞台の上での上演を、と考えておりました。團十郎先生も能舞台へのご出演は、あまりされておられません。そこで、お出になっていただけるのか伺いましたところ「お能は私ども歌舞伎の先輩芸能です。拝借して舞台に立つことは初代にさかのぼるようなものでしょうから、大いに意欲が出ます」とおっしゃってくださいました。
伊確かに、出雲阿国は女性で、彼女の始めたかぶき踊りが発展して歌舞伎が生まれたというのが定説ですから、櫻香さんの考えはある種の原初回帰といえるでしょうね。
演目「花の香」(公演名「秋の日」2018年、名古屋能楽堂)
ふだん静かな能楽堂を盛り上げた、観客の大喝采!
伊歌舞伎と能とでは舞台の造りが違うので勝手も違ったんじゃないですか。
櫻そうなんです。ご存じのように、歌舞伎は演目の始まりと終わりで定式幕を使います。「積恋雪関扉」というお芝居は天明期の大曲です。通常はそのまま團十郎先生と私が引っ張りの見得で幕を下ろします。
伊引っ張りの見得は文字通り、登場人物がお互い心理的に引っ張り合うような形で静止する演技で、幕切れの「お約束」のようなものですね。
櫻しかし、能舞台には幕がありません。團十郎先生、どうなさるんだろうと思いましたら、橋懸(はしが)かりを飛び六法で引っ込まれました。
伊橋懸かりといえば、客席正面から見て左手後方に延びる能舞台独特の仕掛けですよね。あの渡り廊下のような通路を一歩ずつ弾むように足を運ぶ、歌舞伎ならではの方法で戻った!まさに、いよっ大統領。
櫻もう、お客さんは大喝采。ふだん静かな能楽堂があんなに沸いたのは嬉しかったですね。歌舞伎座の3分の1にも満たない600席ほどの客席が揺れるようでした。
演目「隅田川」(2014年、名古屋能楽堂)
語りはあらゆる日本の伝統芸能の土台になっている
伊團十郎さんとの共演はそれっきり?
櫻2009年の第2回にもご一緒しました。これは本当に特別な舞台となりました。本来は2008年に開く予定だったんですが、ご病気が見つかって……。実は、團十郎先生がご病気になられる前に、ぜひ「熊谷陣屋(くまがいじんや)」のその後を書いていただきたいとお願いしておりました。團十郎先生は闘病中にもかかわらず、初脚本をお書きくださっていました。歌舞伎の「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」「熊谷陣屋」の後日談を描いた「黒谷」です。團十郎先生は蓮生、私は平敦盛と熊谷小次郎の二役を務めさせていただきました。結果的にこれが團十郎先生の遺作になってしまいました。
伊それが今回の平家物語「語り」につながるわけですね。
櫻團十郎先生に特別にご出演いただきましてから、ただ勉強したいという思いで参りました。私はもともと、家業が邦楽家です。ようやく、家業の「語り」に向き合えるようになりました。語ることは、あらゆる日本の伝統芸能の土台になっています。歌舞伎の世界からは團十郎先生の一番弟子だった市川新蔵さんと私、狂言の世界からは名古屋の狂言共同社の佐藤友彦氏のご長男である佐藤融さん、長唄の世界からは六世吉住小三郎夫人で、お能の現・梅若実師のお姉様でもいらっしゃる吉住流・吉住会副代表の吉住小三代師にご参加していただきます。
ホールの上に能舞台をしつらえる
伊なにやら異種格闘技のにおいが漂ってくる。でも、どんな構成になるのか想像がつきません。
櫻会場は愛知県芸術劇場の小ホールです。
客席正面から見た能舞台の様子(名古屋能楽堂)
その舞台上に四間四方の能舞台をしつらえます。橋懸かりの形を取り入れた舞台です。演者は全員正座。ただし、それぞれの出身芸能の作法に則った動きをつけるのは自由。徳川美術館から借りた合戦図が彩りを添えます。幕開けは「祇園精舎」の群読です。話が進むにつれて、それぞれの演者が数行ずつを語ります。もちろん原書です。その後「殿上闇討」「禿髪」「競」「源氏揃」「宮最期」「都遷」「敦盛最期」「大原御幸」などのくだりを短くまとめます。途中で地唄も入ります。
伊誤解を恐れずに言えば、延々と続く原書朗読を聞かされるのをつらいと感じるお客さんもいるのでは。
櫻その点もご心配なく。ある程度のまとまりごとに、構成をされた歴史小説家の奥山景布子さんが演目を解説します。講談師のように釈台を使いながら筋を追う。伝統芸能の役者や実演を家業にされている方々の、持って生まれた口調や学ばれてきた経験により、お客様に納得いただけるものとなっております。
平家物語「語る」の台本の一部。出演者が数行ずつ自らの芸の流儀で語り継ぐ
平家物語は読むのではなく、語ることで完成する
伊お客様ファーストですね。仕掛け人としては来場した人に何をどう味わってほしいですか。
櫻私には信念があります。平家物語は文字を読むばかりでなく、語ることによって一つの作品として完成するということです。古典芸能を継ぐ人たちが口語表現の高度な技や表現力、体を使うことで平家物語から、より劇的な感動を得られるんじゃないか。この催しでは、そういう楽しみ方を提案したいと思っています。例えば、私が育った邦楽の世界には唄うものと語るものがあります。唄うものの代表は長唄。語るものには義太夫、清元、常磐津などがある。でも、最近は語るものが少しへこみがち。そこで、今回の「語る」がその魅力を知っていただくきっかけになればと考えています。
演目「清元 保名」(公演名「秋のむすめ歌舞伎公演」2015年、名古屋能楽堂)
芸に対する真摯な姿勢をファン層の拡大に
伊「語る」は日本の伝統的な芸能の水面(みなも)にどんな一石を投じると思いますか。
櫻お客様には舞台の上の皆さんの芸の力をじっくりと味う機会にしていただきたいですね。これをきっかけにして、歌舞伎や能狂言の舞台に足を運んだ時に「語りで聞いた演目の能がこれなんだ」というふうに気づくことができれば、伝統芸能により親しめるんじゃないでしょうか。
伊古典芸能とか伝統芸能とかいわれるものにさほど興味のない観客を引き込むための工夫は。
櫻皆さんの芸の力を訴えることです。芸に対する真摯な姿勢と言ってもいい。実は皆さん、日々の舞台で平家物語を取材したお芝居をしていますが、なかなか原書を読むことはないそうです。もちろん、原書をお読みになられて舞台を務められる方もいらっしゃいます。私も上演する際には演目の元を調べることから始めます。それにより私たちのさまざまな歴史が芸能とつながっていきます。それは大変、舞台に役立ちます。これまでにない新作を取り上げるんじゃなくて、何百年も受け継がれた題材を演じることは、互いの芸能の原点を見つめることになるはずです。それは、ご覧いただく方にも感じていただけると思います。そういう姿勢が新しいファン層の拡大につながるんだと思います。
芸能への敬意は伝統をつなぐことへの敬意になる
伊今回の異種格闘技では、どんな試合運びを期待されていますか。
櫻格闘技ではありません。先輩芸能への敬意は出演者の誰にとっても伝統をつなぐことへの敬意となります。そこに愛を感じてほしいですね。
伊愛、ですか。
櫻能狂言と歌舞伎は共に同じ日本の伝統芸能です。型を守るということは「心」や「情」「人間性」を大切にすることです。そして、相手に対する信頼を感じ取っていく。例えば、歌舞伎だったら富樫(とがし)と弁慶。敵対しながらも、やがて相手に対する尊敬とか畏敬とかに変わっていくような。それをお客様も感じ取っていただくことです。併せて、芸事の初心を忘れないことです。
演目「花の香」(公演名「秋の日」2018年、名古屋能楽堂)
弱い人への慈(いつく)しみの心を大切にする
伊愛の次は初心。芸の世界に限らず、どちらも人として大切にしたいですね。
櫻この世界のご先祖様たちはきっとハングリーなところから始まっていると思います。ところが、そういう精神をどこかに置き忘れてしまったんじゃないかと思うことがあります。そのキーワードが愛。生きている人たちに活力を与えたり、つらく悲しい時期にいる人たちに寄り添ったりする。そういうことが芸術にはできる気がします。能狂言にしても歌舞伎にしても、平家物語は本来、弱い人に対する慈しみの心を抱かせるものだと思います。
全国で伝統芸能の異種格闘技戦を観られる日が来るかも
伊名古屋だけで上演するのはもったいないと思います。
櫻評判が良ければ、名古屋以外の場所でもやらせていただきたいと考えております。そのためにも今回の公演を必ず成功させたいですね。
公演名:平家物語「語る」
公演日:9月28日(土)
会場:愛知県芸術劇場小ホール
構成:奥山景布子
出演:市川櫻香、市川新蔵、佐藤融、吉住小三代、市川阿朱花、市川舞花、芝川菜月、井上満智子(三弦)、松島弘美(唄)
料金:一般3000円(全自由席)、学生(小中高生)1000円
問合先:株式会社インフォデザイン(E-mail:info@info-de.co.jp)