Culture
2020.01.09

懐かしすぎる!公衆電話・レコード・ソックタッチ・ラジカセ…昭和アイテムで歴史を振り返る

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携帯電話が主流となった今、生活はなんと便利になったことでしょう。宅配便のお届けを事前に教えてくれたり、チャージして電子マネーを使えば、財布も必要ではなくなりました。いつ何時でも人と連絡を取ることが可能で、極端なことを言えば、携帯電話1つで外出も可能な世の中です。私自身もその恩恵を受けてはいますが、昭和38年生まれのOVER50。60代が間近に迫ったシニアの入り口に立った身としては、急激な世の中の変化に戸惑う気持もあります。そこで、和楽webライターで結成したシニア倶楽部の面々との会話で思い出した、昭和な懐かしいモノ達で当時を振り返ってみたいと思います。

家の電話は黒電話!

私が物心ついた時に自宅にあったのは、黒電話でした。ダイヤル式で留守電機能なんてもちろん付いていません。ただ電話を掛けたり受けたりするだけのものです。その黒電話が家の中でとても大切に扱われていたような記憶が。母は布製のカバーをかけて汚れないようにと注意をして使っていました。当時、家庭で電話を引くのにはかなり高額な料金が必要だったので、そんなことも関係していたのでしょう。そして思春期になると誰にも訪れるのが、電話の使用を巡っての親との攻防です。ボーイフレンドからの電話を親が取らないようにと、皆時間を決めて掛けてもらったりしたものです。ただ間が悪いことに、トイレや何かでちょっとしたスキに父親が取ってしまうと悲劇が!!「どちら様ですか?」「あ、あの…登貴子さんを」「え!?今いません」ガチャン!!。何とも不自由ではありましたが、今振り返ると当時のティーンエイジャー達は、ちょっとしたロミオとジュリエット気分を恋愛のエッセンスとして楽しめていたのかも!?今なら、きっとラインのやりとりで、こんな苦労をすることなんてないですもんね。

公衆電話は必需品だった!

父親の理不尽さに涙を流しながら、10円玉を握りしめて走ったのは、そう公衆電話でした。10円玉しか入らないタイプで、あっという間になくなってしまいましたね。シニア倶楽部のメンバー、通称・伊藤おじさまは、バリバリの企業戦士として昭和の時代を駆け抜けた方です。新聞記者時代は取材や、お仲間との飲み会と、時任三郎が「24時間戦えますか」と歌った栄養ドリンクのコマーシャルさながらの日々を送っていたそうな。「20代の頃、急ぎの時は10円玉をたくさん放り込んで、ダイヤル式の公衆電話で印刷工場に原稿を口伝してました」と、今だと信じられないようなエピソードを教えてもらいました。昭和ってエネルギーに溢れた時代だったんだなと感じさせられます。

頼れる歴史の専門家、通称『saburo』さんは、出版社勤務で同じく怒涛のような忙しい日々の経験者。「近所のたばこ屋の公衆電話はピンクでした。テレホンカードは今も持っています」。公衆電話はその後プッシュ式に進化して、100円玉とテレホンカードが入るものが多く設置されました。2019年には、公衆電話のみのフィギアの入ったガチャガチャが発売され、SNSなどで話題となっているようです。災害時のインフラとして、公衆電話に触ったことのない子ども達へ向けての啓蒙活動の一環での発売だそう。どんなに時代が進んでも、やはり必要なものってあるんですね。クオリティの高さから子どもだけでなく、中高年にも人気だそうです。

レコードは高級品!

今や音楽は配信サービスからダウンロードする時代。昭和の時代にはとても考えられないような変化です。1980年代はお気に入りのアーティストの音楽を自宅で楽しむのは、もっぱらレコード。雑誌の表紙のように、レコードジャケットに凝るのが当時の流行りで、レコードジャケット目的で買う「ジャケ買い」の強者もいましたね。レコードに針を落とす時の一瞬の緊張感!得も言われぬ至福のひとときでした。当時のシングル盤が700円、LPレコードが2800円ほど。お小遣いに乏しい学生の私には、レコードは高額でした。選びに選んで数か月にLPレコード1枚買うのが精一杯でしたね。

ラジカセでいきなり録音!

1980年はテレビの音楽番組が花盛りの時代。中でも「ザ・ベストテン」は、今だに語り継がれる伝説的な歌番組でした。毎週生放送で、その週のベスト10ソングを紹介して、常に売れっ子が出演する高視聴率のおばけ番組。学校でも、昨日は誰が出ていたとか話題でもちきりでした。レコードの代用としてこの番組をよく録音をしていたのですが、その方法が何ともいい加減な方法で…。テレビの前にラジカセを置いて、そしてカセットテープに録音をするのです!歌だけを録音するために、録音ボタンを押すタイミングがとても難しかった!そして何より、テレビは家族が集うお茶の間に1台しかないので、雑音が入ってしまいます。「静かにしてよ!今録音してるんだから!」と宣言していても、母親の「コロッケできたわよ~」などという気の抜けた声も入ってしまう訳です。そんなひどい録音でも、無いよりはましとありがたがって聞いていた、何とも涙ぐましい時代が懐かしいです。

カセットテープは、取り扱い注意!

私達シニア倶楽部は、緑茶をすすりながら歓談をしている訳ではなく、パソコンやスマホを使って、コミュニケーションツールSlack上で交流をしています。使用しているのは最新のツールでも、長文のやりとりが続き、どこかまったりとした交換ノートのような趣きです。皆、カセットテープは馴染み深い世代。伊藤おじさまはカセットテープの思い出をこんな風に振り返ります。「テレコ(テープレコーダー)に入れるカセットテープ、経年変化でグダグダになり、よれたまま再生すると、宇宙との交信のようなシュールな会話が聞こえてきたものです」saburoさんは「カセットテープを使いすぎると、デッキのヘッドなどにからまって、おじゃんになることもしばしばでした」色々苦労がありましたね。

ソックタッチと改造学ランの思い出

ルーズソックスというのが一世を風靡しましたが、私はその前の世代なので、ソックスはきっちり履いて、しかもぴっちりとゆるみがないのが、おしゃれということになっていました。そんな女子達がいつも携帯していたグッズが、「ソックタッチ」。液体靴下留めの商品名で、スティックのりのような小ぶりの大きさでした。今でも売ってるかなぁと調べて見ると、ありました!メーカーのホームページにしっかりと掲載されているのを見つけて、驚き!!今のは、グリーンアップルの良い香りがするみたい。今の女学生も、制服のタイプによっては重宝しているんでしょうね。女子達は靴下におしゃれ心を表していましたが、男子達が一度は通る道としてはまるのが、学生服の改造。私が通っていたのは、のどかな公立の高校だったのですが、確か夏休み明けに幼馴染の男子の学生服の丈が、長くなっていて笑いました。中学生時代は超真面目で、黒縁メガネを掛けていたのに、どうしたことだろうとは思いましたが。会う度にパンチパーマになり、サングラスになりとアイテムが増えていくのを、面白く観察していました。今、彼はまっとうな社会人となりましたが、卒業写真は当時の若気の至りの姿で写っているので、照れくさくて見たくないそうです。人気漫画『今日から俺は!!』が実写テレビドラマ化されてヒットしましたが、当初はこれほど人気が出るとは予想していなかったと聞きます。若い時にやんちゃをしていた父親と、「ヤンキー(※)って何?」という子ども世代との会話が生まれるきっかけにもなったとか。今ではすっかり見ることが無くなったヤンキー達、昭和という時代ならではの1つの文化と言えるかもしれません。

※ヤンキーとは、不良行為少年のことで、別名はツッパリ

懐かしのディスコは大衆の娯楽だった

昭和を代表する娯楽に、ディスコがありました。音楽を流し、飲料を提供して、お客がダンスを踊るダンスホールのことをこう呼びました。私の記憶では、1978年にジョン・トラボルタ主演の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が日本公開されて大ヒットしたのがきっかけだったような。それまでにもディスコはありましたが、この映画の影響で一般サラリーマンやOLも集う大衆的な楽しみと変化していきました。ここでのダンスは技を見せるというよりは、皆で一緒にステップを踏んで楽しむ雰囲気だったと記憶しています。私はあまりはまりませんでしたが、それでも付き合いで何度かは行きましたね。ディスコはその後ドレスコードなるものが決められて、高級ディスコチェーン「マハラジャ」が人気となり、バブル期を代表する熱狂を生み出します。紅白歌合戦で登美丘高校ダンス部がバブリーダンスを披露して話題になりましたが、本当にあんな服装のお姉さんたちが日夜踊っていたのです。当時のディスコ音楽が再評価されて、今若者にも広がっているようです。昭和の時代は、時を経ても、なお惹きつけるものを生み出すエネルギーに満ちあふれていた。それは間違いないと思います。

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書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。