落語家は「聞く仕事」
「日本の落語には思いやりがあります。落語家が一方的に喋ってるだけじゃないんですよ」
三輝は、筆者に対してそう強調した。
「落語家の仕事は“聞くこと”です。喋るのは当たり前、それをしながらお客様の表情や仕草、雰囲気を見て聞くことが重要です。文枝師匠のところで修行していた頃は、師匠が“お茶をくれ”と言う前にこちらからお茶を出さないといけませんでした。それはつまり、お客様の心理を把握する練習です。落語家は常にインプットし続けなければならないのです」
その時々の観客の様子を鑑みて、話し方を微妙に変える。文章で書けば簡単だが、いざ実行するには観客に対する「思いやり」が必要不可欠だ。インターネットが整備され、誰しもがSNSを利用するようになった現代。我々は、いつでも自分の考えを世に発信することができる。しかし中には己の主張をひたすら発信し続けるがあまり、承認欲求の暴走を止められなくなって意見の異なる他人を誹謗中傷する者も現れる。自分が真実と思う見方を断定口調で述べ続けることこそが発信者の役割である、と胸を張る者もいる。
そこに「思いやり」を見出すことはできない。論敵は抹殺しなければならない相手なのだから。
だが、一方的な発信しかできない者を誰が支持するのだろうか? SNSでの「いいね!」の数は、まったくアテにはならない。誰かがそれをするのに、いちいち金がかかっているわけではないからだ。
明日は自分に食ってかかるかもしれない蛇のような発信者に、気前よく銭を投げるフォロワーはまず存在しない。
文枝が弟子入り間もない三輝に対して与えた課題、即ち正しい敬語を覚えさせることや指示をせずとも茶を出させることは、落語家がその話術故に暴走することを防ぐための措置ではないか。
だとしたら、我々現代人は落語家からその姿勢や謙虚さを見習わなければならない。
地球上では様々な人が肩を寄せ合って生きている。三輝が語った「思いやり」とは、人間社会が本来持つ多様性を前提にした気遣いの作法であり、三千世界の住人全員が楽しく生きるために我々の先祖が開発したテクニックなのだ。
そしてこの記事を書いているまさに今、「思いやりの伝統芸能」が世界中の人々を虜にする「Rakugo」として新たな歴史を刻もうとしている。
【参考】