『こぶとり爺さん』『さるかに合戦』『一寸法師』『浦島太郎』…「昔昔あるところに」で幕を開ける日本昔話は、日本人なら誰もが知っている馴染み深い作品だろう。昔話を題材にした歌を覚えている人もいるかもしれない。これらは純国産で日本独自のものと思われているところがあるが、実は外国にもよく似た物語がある。
韓国版『こぶとり爺さん』?
顔に大きなこぶのあるお爺さんが鬼たちに踊りを気に入られ、こぶをとってもらうという昔話『こぶとり爺さん』。韓国にも『こぶとり爺さん』とそっくりな話がある。あらすじは日本とほとんど同じだが、ちょっと違うのは「トケビ」という妖怪が登場すること。頬にこぶを持つお爺さんが芝刈りへ行き、木の下でうとうとしているとトケビが現れ宴会を始める。それを見ていたお爺さんは、思わず歌を歌ってしまう。歌に聴き惚れたトケビたちはお爺さんのこぶをとり、宝物まで渡すというお話。その後、それを知った別のお爺さんもトケビのもとへ行くのだけれど、失敗して逆にこぶをつけられてしまうのは日本の昔話と一緒だ。この「トケビ」、「独脚鬼」とも書く。文字通り、脚が一本の悪戯好きの鬼らしい。
『こぶとり爺さん』はヨーロッパにも類話があるが、こちらは主人公がお爺さんとは限らない。踊るのも鬼や妖怪でなく、妖精になる。例えば、ケルト民話の『ノックグラフトンの伝説』では妖精がお返しに男の背中についているこぶを取ってくれるのだ。
グリム版『さるかに合戦』?
母を殺された子ガニが臼、ハチ、クリの協力を得て猿をやっつける『さるかに合戦』によく似た話は、アジアをはじめヨーロッパにも広く伝わっている。例えば、ロバ、犬、猫、雄鳥が家のあちこちに隠れて泥棒を追い出す『ブレーメンの音楽隊』。もう一つそっくりな話がグリム童話の『コルベス』だ。あるとき雌鳥と雄鳥が美しい馬車を作って旅に出る。猫、石臼、卵、鴨、留め針、縫い針がこの一団に加わる。どうやらコルベスと言う人物の家へ向かっているらしい。彼らは家に着くと所定の位置につき、コルベスが帰宅するやいなや次々に襲いかかる。ここに登場するコルベスはどうやら悪い人物のようだが、どうして退治されることになったのか理由がまったく描かれない。ちなみにこの物語、版が古いものほど何を言いたいのか分からない、少し無気味な物語だ。
オデュッセイア的な「一寸法師」?
小指ほどの小さな男の子が都に出て、鬼退治に向かう『一寸法師』。姫君と末永く幸せに暮らすのは日本の昔話だが、世界にはバリエーション豊かな『一寸法師』的物語がある。グリム童話の『親指小僧』も小さな子供が活躍するお話。この親指小僧、二人組の男に買われたり、牡牛や狼に飲まれたり、苦労を積んで両親のもとに帰ってくる。そういえば、一寸法師も鬼に飲み込まれていたし、魚に飲まれてあとから出てくる展開は『ピノキオ』や『旧約聖書』にも見ることができる。ほかにも、ギリシアの伝説的詩人・ホメロスによる叙事詩『オデュッセイア』ではイタカ島の英雄オデュッセウスもまた、一寸法師のように各地を転々とし、多くの苦難を乗り越えて無事帰還するのだ。国や時代が違っても、『一寸法師』と同じ型の物語は世界中にある。小さな者が苦難を克服する姿は、古今東西、人びとの胸を熱くするのかもしれない。
ケルト伝説にもあった『浦島太郎』
アイルランドの『オシーンの伝説』は、フィン・マックール王の息子オシーンが「常若の国(ティル・ナ・ノグ)」の王女ニアヴに恋をして妖精の国へ行く物語。そこで3年過ごすのだが、国が恋しくなり帰らせてほしいと頼む。すると姫が馬を貸してくれる。ただし、降りてはいけないという条件つきで。そして彼の足が地面に触れたとたん、300年の歳月がのしかかり、オシーンは白髪の老人になってしまうというお話。似てるでしょう?『浦島太郎』に。この物語が中国経由で日本に伝わり『浦島太郎』になった、なんて説もあるのだ。ちなみに「常若の国(ティル・ナ・ノグ)」とは妖精たちの棲み家のこと。この国は三通りあるらしい。「生き者の住む島」「勝利者たちの島」そして「水の底の島」である。
昔話は神話のパロディ
昔話は神話や伝説とも深い関係がある。太古から人類は、絵画、造形、物語などの形で自分たちの想いを子孫や異民族に伝えてきた。そうして物語を言葉で継いできたのが、語り部の存在だ。語り部の口承した神秘的な物語には神々が物語の主人公として登場するものもあった。
詩人・日本文学者の藤井貞和は神話と昔話の関係について「神話が、神聖な時間と場所(=祭祀空間)とにおいて特定の祭祀集団によって語られるのにたいして、昔話は、神話のストーリーやその他のストーリーを、時間や場所を変えても語っていいようにしたもので、話順や語りかたもよほど自由になっている。よほど自由になっているけれども、昔話はいってみれば神話をかげとし、母胎としているので、神話の約束ごとを昔話もまた色濃くのこしている。」(『磁場』3、1974年11月)と語っている。つまり昔話は神話のパロディのようなもの、と言えるかもしれない。
語り継がれることで残ってきた昔話
昔話は本来、口伝えのもの。文字で残されたものではないから、最初に語られたのがいつだったのかを知るのは結構むずかしい。そのうえ、声というのはつかの間で、音は瞬時に消えてしまう。紙に書かれたものなら焼けるか朽ちるかしないかぎりいつまでも残るだろうけど、声はそうもいかない。それに、話を聞いた人がつまらないと思えば次に語り継ぐことはされない。語らなければ物語は消えてしまう。当たり前だが、語り継ぐという行為は一人では絶対にできないのだ。だから昔話には化石みたいにあるとき突然発見された、なんて幸運はあり得ないし、忘れていた人が思いだすこともない。だから今、私たちが聞いたり読んだりできる昔話の多くはそうした危険をかいくぐって伝えられてきた作品ということになる。言い換えれば、時代の人々に評価され、次世代に伝える資格をもった優れた物語なのだ。
昔話は時間を超える
昔話というのは人間の根源に触れる話だから、どこの国にも似通った話が生まれたのだという指摘もある。ただ、いろいろ読んでいると『オシーンの伝説』のように放浪し、べつの土地へと伝わってきたという可能性も否定できないのだ。もしそうなら、西端のケルトの伝説が東端の日本へ伝わり語り継がれているというのはちょっとロマンチックな出来事ではないだろうか?昔話は何千年もの時間を平気で超えてしまう。私たちが知っている物語のいくつかは、100年後には残っていないかもしれない。あるいは未来では内容を変えて、新しい物語が生まれているかもしれない。昔話のこれからが楽しみだ。