波乱万丈だった空海の人生
高野山や京都の東寺、四国八十八か所巡礼のほか、「弘法筆を選ばず」などで知られる、弘法大師空海。その名は知っていても、その人生や功績を聞かれると、答えに窮する人は少なくないと思います。そんな人のために、ちょっとだけ詳しくご紹介します。
■意外と聞かれてる!和樂web編集長セバスチャン高木が解説した音声はこちら
神童、讃岐国(現香川県)で産声をあげる
空海が生まれたのは讃岐国(さぬきのくに)多度郡(たどぐん)屛風ヶ浦(びょうぶがうら)。現在の香川県善通寺(ぜんつうじ)市で、生家は四国八十八か所75番札所・善通寺の近くとされます。
幼名は真魚(まお)。父の佐伯直(さえきのあたえ)は国造(くにつくりのみやつこ)でしたが、決して裕福ではなかったようです。
神童と呼ばれるほど聡明であった空海は、15歳のころから母方のおじで、後に桓武天皇の皇子・伊予親王に学問を進講する侍講となる学者・阿刀大足(あとのおおたり)より学問の手ほどきを受けます。
それから3年後、空海は都に上り、当時の最高教育機関であった大学に進みます。順調にエリートへの階段を駆け上がっていた空海に父・佐伯氏は大きな期待をかけていましたが、なんと1年あまりで大学をドロップアウト。勤操(ごんそう)という僧に「人生の真実は仏法の中にある」と説かれたことから、突然出家してしまったのです。
進んだ教育を受けるため海外留学を決意する
出世に背を向け、仏教に生きることを選んだ空海は出家宣言の書ともいわれる『三教指帰(さんごうしいき)』を著した後、奈良の大寺院に出向いて南都六宗の経典を学び、中国語やサンスクリット語を習得しながら修行に明け暮れます。そんな日々の中で出合った密教の根本経典『大日経』によって、僧としての空海の人生は大きく変わっていきます。
空海は、密教は経典から学べるものではなく、修法には密教法具が必要であると知るのですが、師から直接学ぼうにも密教の奥義を知る僧が日本にいないことに気づきます。
そのジレンマを打開すべく、唐に向かうことを決意。折よく、16回目の遣唐使船が出ることを知った空海は自ら願い出て、留学僧(るがくそう)として乗り込むことに成功します。このとき、別の遣唐使船には、朝廷から派遣される還学僧という立場の最澄(さいちょう)が乗っていました。
最高の師に認められ跡継ぎになる
空海が乗った遣唐使船が唐の都・長安に、命からがらたどり着いたのは、九州を出港してから実に4か月半後。留学僧の宿舎であった西明寺に落ち着く間もなく、空海は密教の師として仰ぐにふさわしい名僧を探し始めます。そして、青龍寺の阿闍梨(あじゃり)・恵果(けいか)こそが第一人者であるという情報を得た空海は、さっそく訪問するのです。
初対面にもかかわらず、恵果は空海の才をすでに知悉(ちしつ)していて、「来るのを待っていた」と大歓迎。密教の伝授を快諾し、2か月後には密教の正当な法を伝える阿闍梨のみに許される灌頂(かんじょう=儀式)である伝法(でんぽう)灌頂を、数多くの弟子たちに先んじて空海に受けさせます。
これはすなわち、空海が密教界で恵果に次ぐ地位を与えられたことを意味します。さらに、恵果の師であった不空三蔵(ふくうさんぞう)から授けられた仏舎利や曼荼羅図、袈裟、密教法具などの宝物が恵果より空海に託されたのです。
ついに念願かなった空海は、留学僧に定められた20年の滞在期間を2年で切り上げて帰国。そのため、上陸した九州博多に留め置かれます。それを救ったのが、ひと足先に帰国して平安時代の仏教界でスターとなっていた最澄や、新しい仏教の指導者を求めていた嵯峨天皇でした。
『密教法具』 国宝 中国 唐時代・9世紀 東寺蔵 金剛盤に五鈷鈴(ごこれい)と五鈷杵(ごこしょ)を据えた『密教法具』は「後七日御修法」での大阿闍梨(だいあじゃり)の最重要な道具。恵果より空海が伝授されたとされ、重要な法会に用いられてきた名宝中の名宝。※特別展「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」(東京国立博物館 〜2019年6月2日)にて展示。
真言密教の根本道場・東寺と修行の地・高野山
都に戻った空海は弘仁3(812)年、高雄山寺(現神護寺)で結縁(けちえん)灌頂を行い、最澄と並ぶ平安仏教の双璧と目されるようになります。さらに、弘仁7(816)年、都から遠く離れた紀州高野山を密教修行の道場として賜りたいという上奏が認められ、開山に着手。そのかたわら、讃岐国の満濃池(まんのういけ)の修復などにも力を尽くし多忙を極めていた空海に、嵯峨天皇より官寺であった東寺を下賜するという命が下ります。
空海は帰国後ずっと心に温めていた、密室で師から弟子へ教えを伝える真言密教の「師資相伝」を行う根本道場を東寺に設けることにし、高野山は密教修行の地とします。
東寺の造営に当たって空海は、青龍寺の恵果阿闍梨より受け継いだ仏舎利や曼荼羅図などをすべて移し、講堂に21体の諸尊像を配置した立体曼荼羅をつくるなど、精力的に仕事を進めます。しかし、空海は承和2(835)年に62歳で入定(本来は瞑想に入ることだが、空海の場合は不死の命を得るという意味で使われる)。伽藍や五重塔、灌頂院の完成には間に合わなかったことになります。
東寺 撮影/伊藤 信
空海が天才的スーパースターであった5つの理由
Alamy(PPS通信社)
讃岐国に生まれ、唐に留学して密教を会得し、日本に真言密教を広めた空海は、宗教家としてのみならず、あらゆることに秀でた天才的な能力の持ち主だったとされます。生前はもちろんのこと、入定してからも崇め続けられる空海の類まれなる資質を物語る5つのポイントこそ、空海が天才的なスーパースターの証です。
「三筆」に数えられる名書家だった
「弘法筆を選ばず」という諺があるように、達筆で知られる弘法大師空海は、橘逸勢、嵯峨天皇とともに「三筆」と称されています。唐の王羲之(おうぎし)の行書を学んだとされる空海の書体は、隷書と草書を混ぜたような書風や、空中で波打っているような「飛白体(ひはくたい)」というものまであり、生き生きとしたその筆使いは他に類を見ません。
『風信帖(ふうしんじょう)』 空海筆 国宝 平安時代・9世紀 東寺蔵 空海が延暦寺の最澄にあてた3通の書状を貼り継いだ本書は、通称『風信帖』。平安時代の仏教のあり様を今に伝える貴重な史料でありかつ、空海の代表的筆跡。※特別展「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」(東京国立博物館)にて2019年5月19日まで展示。
3か国語をあやつるトリリンガルだった
空海が唐に滞在した2年間で、ありとあらゆる学問を身につけることができたのは、中国語とサンスクリット語が堪能だったことがあげられます。一緒に唐に渡った橘逸勢は言葉に苦労し、最澄は通訳をつけていたといい、皆一様に言葉には苦労したようです。それに対して空海には言葉の壁などなく、それが異例の短期間で伝法灌頂を受け、留学を終えたことにつながっていたのです。
土木建築技術も身につけていた
唐から戻った空海は、生まれ故郷の讃岐国にある満濃池の修復にいち早く取り組んだことが知られています。空海は実際に監督として満濃池へおもむき、周辺地域に水が行き渡るように尽力したのだとか。日本各地に空海が開湯した温泉が多いことも含め、空海は地質や土木など、理系の知識も人並みはずれていたのです。
現在の満濃池
平安時代に庶民の学校をつくった教育者だった
限られた身分の人しか教育を受けられなかった時代に、空海が東寺のそばに開設した「綜芸種智院」は、日本で初めて開設された庶民のための学校でした。日本の文化国家としての礎は、早くから教育の重要性に気づいていた空海の実行力によって築かれ、今日まで受け継がれてきたと言っても過言ではありません
空海は不死身、今も生きている!
空海は「56億7千万年後に、弥勒菩薩とともに人々を救済するためにこの世に現れる」と言って入定。その体は浄窟に納めら、その上に建てられたのが高野山・奥の院の弘法大師御廟。それから80年後、醍醐天皇より弘法大師の号と檜皮色の衣が贈られたことから現在も半年に1回は衣替えが行われ、1日2回の膳が供えられています。つまり、空海は今も高野山・奥の院で生きているのです。
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空海の生涯
スーパースターである理由
『和樂』2004年5月号、2013年7月号、2019年4・5月号の記事を再編集