世界遺産・姫路城。
白鷺城とも称される名城の西の丸に、化粧櫓と呼ばれる建物があるのをご存じだろうか。
この、小規模ながら凛々しい美しさを見せる櫓には、かつて一人の身分ある女性が住んでいた。
名は千姫。1617年に桑名から移封してきた藩主・本多忠政の嫡男・忠刻の妻だ。しかし、彼女は忠刻の妻としてのみ歴史に名を残しているのではない。
乱世に翻弄された女性として、人々に記憶されているのである。
1.18歳で経験した悲劇の別れ
時は元和元年、西暦でいえば1615年のこの年、日本の歴史は大きく動いた。「大坂夏の陣」が勃発したのだ。
一代で半農の足軽から天下人へと成り上がった太閤・豊臣秀吉が没して17年、大黒柱を失った豊臣家は徳川家の権謀術数に耐え切れず、その命運は風前の灯だった。
難攻不落の要塞であるはずの大坂城は、徳川方に堀を埋められ裸城も同然。
城を十重二十重に囲む軍勢は容赦なく大砲を打ち込み、味方の軍は総崩れ。頼みの真田幸村も討ち死し、豊臣方の敗北は火を見るより明らかだった。戦国時代の真の終焉が、間近に迫っていたのである。
そんな中、辺りをはばかるように城から抜け出す小さな輿(身分が高い女性の乗り物)があった。
内にいたのは豊臣秀頼が正妻・千姫。そう、忠刻に嫁す前、彼女は「豊臣家の奥方」だったのである。
夫の危急に妻が城を離れるには、もちろん理由があった。徳川方に直接夫と姑・淀殿の助命嘆願をしようとしたのだ。
では、なぜ彼女がそのような使者に立てられたのか。それは、千姫が今まさに城を落とさんとしている徳川家将軍・秀忠の長女、豊臣に仇なす憎き家康の孫娘だったからだ。
この時、千姫はわずか18歳。だが、嫁いだのは7歳で、「徳川の姫君」より「豊臣の奥方」である時間の方がすでに長かった。
実母とは会うこともなく、実の伯母でもある淀殿(千姫の母は淀殿の妹)の薫陶を受けて育った彼女にとって、実家より婚家の方がよほど馴染み深かったことだろう。いかに護衛がつくとはいえ、戦火をかいくぐり父のいる敵陣まで向かうのはよほどの覚悟がなければできないことだ。
けれども、その覚悟は無駄に終わってしまう。父は娘の願いなど歯牙にもかけず大坂城を総攻撃し、秀頼と淀殿は自害して果てた。大坂城も火の海に呑まれた。数十キロ離れた京都からでも夜空が真っ赤に染まるのが見えたほどの火勢だったという。
故郷同然の城が焼ける。家族や、親しんできた臣下たちもろともに。
千姫の胸中は如何ばかりだったか。戦国の世の習いとはいえ、あまりに無残な現実にうら若き乙女の心がどれほど傷ついたか、想像に難くない。一人だけ死に遅れた身を憂い、出家して豊臣家の菩提を弔う余生を送るつもりだったという。
2.思いがけぬ恋と再婚
だが、姫の年齢と身分が、それを許さなかった。
家康・秀忠親子にとって目の上のたんこぶだった豊臣家は滅んだが、徳川の治世を不動のものにするためには、まだまだあらゆる方策が必要だった。
よく働いた家臣には褒美をやらなくてならない。また、有力な公家や武家との関係を深めるために婚姻は大事な手段である。夫が死んでフリーになった千姫はうってつけの「政治の駒」だったのだ。
半年も経たないうちに、千姫の新たな嫁ぎ先が取り沙汰されるようになった。相手は公家だったとも、夏の陣で大功を立てた臣下だったともいう。
だが、最終的には忠刻への再嫁が決まった。
本多家は徳川にとって最古参の譜代であるし、忠政の妻は千姫と同じ家康の孫娘である熊姫(ゆうひめ)だ。嫁ぎ先としておかしくはない。だが、政治的にもっとも正しい答えでもなかった。徳川家とつながるために千姫を欲しがる家はいくらでもあったからだ。それなのに、なぜ忠刻に決まったのだろか。
それは、千姫の意志が強く働いた結果だったという。実は千姫、大坂から江戸に戻る道中を護衛していた忠刻に一目惚れしていたのだ。忠刻は音に聞こえた好男子だったらしい。傷心中のウブな姫が恋に落ちてもおかしくない。そして、その胸の内を知った家康が、哀れな孫娘のために、身内の反対を押し切って想いを叶えてやったのだとまことしやかに伝わっている。
この経緯に、「夫を亡くしたばかりなのに、もう心変わり?」と思うかもしれない。
実際、千姫の生前からそうした見方は存在し、後に「吉田御殿のご乱行」のような根も葉もない噂が立つ原因になるのだが、大坂での千姫の立場を見るとこの心の動きは別におかしくはないのだ。
先述した通り、姫が大坂に入ったのは7歳の時、秀頼も11歳だった。双方ともにまだ子どもである。しかもいとこ同士というので、二人の仲は夫婦というより兄妹のようなものだったらしい。
仲睦まじいのは間違いないが、それは色恋ではなく家族愛だったのだ。その証拠に、と言えるかどうかはわからないが、千姫は秀頼が側室に産ませた男女二人の子の命乞いをし、下の女の子だけは自分の養女にすることで命を救っている。
いずれにせよ、長年共にあった家族を失い、馴染まぬ実家に帰らねばならない心細さに一人耐えていた18歳の娘が、旅の途中で見知った凛々しい若侍に初恋を感じたからといって、それは非難されるべきような話だろうか。家康もそう思ったからこそ、千姫の意志を尊重したのかもしれない。贖罪の気持ちもあったはずだ。
3.長続きしなかった幸せ
こうして、千姫は翌年9月に桑名に入り、忠刻の妻となった。
そして元和3年(1617)、本多氏が姫路に国替えになったことで、化粧櫓の主になったのである。
ただし入城当時は化粧櫓どころか西の丸の曲輪もなかった。これらは千姫夫婦のために新築されたのだ。財源となったのは千姫が輿入れ時に与えられた化粧料10万石の富である。化粧料とは持参金のことなのだが、これは破格だった。1万石あれば大名と呼ばれるのである。10万石ともなると、親藩である津山藩や福山藩に等しい石高だ。それほどの富をもたらした主筋の嫁のためであれば、新しい曲輪を建設するのは当然。むしろしないわけにはいかなかっただろう。
建築当初の西の丸は今残っているものよりも規模が大きく、7つの櫓がそれぞれ渡り廊下で結ばれており、中央の庭に忠刻の御殿があった。そして、もっとも大きい「化粧櫓」が千姫に与えられた。
西の丸の長い渡り廊下には侍女たちの局(居室)が置かれると同時に、万が一に備えて西側の防御を固める砦としての機能も持たせた。まだ戦国の空気色濃かったことを窺わせる造りだ。
長廊下は一部が今も保存されており、中に入って見学できる。
城に移った翌年、待望の第一子となる長女、さらにまた翌年には嫡子となる長男が生まれた。
将来の城主夫人として数多いる家臣や侍女にかしずかれ、愛する夫とかわいい我が子に囲まれる生活。おそらく、千姫の生涯の中でもっとも幸せだったはこの時期だろう。
だが、それも長くは続かなかった。
元和7年(1621)に長男がわずか3歳のかわいい盛りに死んでしまったのだ。さらに、その死が前夫・豊臣秀頼の祟りと噂され、千姫は恐れ慄いた。乱世の理とはいえ、一人生き残り幸せになってしまった自分を思えば、豊臣家への後ろめたさが沸き立つのは抑えられなかった。そこで、千姫は秀頼の霊が鎮まってくれるよう、城の北西にある男山に天満宮を建立することにした。
千姫はもともと天神を深く信仰していた。頼るなら、この神と思ったのだろう。それに、西の丸から見える場所に建てれば、毎日遥拝することができる。
しかし、千姫の願いも虚しく、一家を次々と不幸が襲う。
寛永元年(1624)には義父・忠政と忠刻が相次いで病に倒れた。この時は幸い二人とも快復したが、その翌々年には忠刻が再び寝付き、そのまま31歳の若さで亡くなってしまった。さらにその二ヶ月後には姑・熊姫まで息子の後を追うように世を去ったのだ。
ようやく得た幸せは、たった10年で崩れ去ってしまったのである。
嫡子・忠刻の死によって、本多家の後継は弟の政朝と決まった。居場所は、なくなった。千姫は娘・勝姫と共に本多家を出て、江戸に移り住むことに決めた。そして、落飾(髪を落として仏門に入ること)し、天樹院となった。この時まだ30歳。
二度夫に死に別れた若き貴婦人は、この後徳川一族の重鎮となっていく。弟・家光とも親しく付き合い、影に日向に支えたようだが、後半生はくわしくはわかっていない。
そのためか、奇妙な巷説がはびこった。江戸の吉田御殿なる屋敷に住む千姫が、毎夜のように通りがかる男を引っ張り込んでは乱行に及んでいるというのだ。男出入りがあまりに頻繁なので「吉田通れば二階から招く、然も鹿の子の振袖で」という俗謡に歌われるほどの噂になり、以後は呼び込んだ男は皆殺しにして外に出さなくなった、と。
殺された男たちは怨霊となって吉田御殿に巣食っていたなどという怪談まで生まれたが、もちろんすべて真っ赤なウソである。
二度も出戻りになった貴婦人を、市井の人々は意地の悪い好奇の目で見ていたのだ。秀頼亡き後一年経たずに再婚したことへの反感もあったのだろう。
だが、実際の千姫は、静かに余生を送った。勝姫の幸せを願い、二人の夫の菩提を弔いながら。
没年は寛文6年(1666)、享年70。江戸での40年は、彼女にとってどのような日々だったのだろうか。大坂、そして姫路での幸せな日々を思い出すことはあっただろうか。
墓は江戸の傳通院、茨城の天樹院弘経寺、そして京都の知恩院にある。