散りばめられた神話や昔話の数々 「ヤバい女の子」と語り合いたい
「この夜景、ヤバい!」「今流れてるニュース、ヤバくない?」ーー今ではすっかり定着している「ヤバい」という言葉。元々は「危ない」「不都合な」という意味を持つが、1980年代、「かっこ悪いこと」を指す若者言葉として使われ始めた。当時、日本語の乱れが著しいと、多くの大人たちが眉をひそめていたが、1990年代には、「すごい」の意味を持つようになり、現在では肯定、否定のどちらの表現にも使われるようになった。(参考:語源由来辞典)
最近では受け入れられ、あまり咎められなくなった理由の一つに、「ヤバい」という言葉の中に、「すごい」「きれい」「かっこいい」「怖い」「悲しい」など、さまざまな要素が含まれ、「超きれい」「超怖い」では微妙に軽くなる言い回しが、「ヤバい」の一言に変わることで、より強い肯定、否定の感情を表せるようになったことがあげられるのではないか。
今回紹介する『日本のヤバい女の子』(柏書房)は、昔話や神話に登場する多様な「ヤバい女の子」を取り上げ、「文脈」や「背景」に思いを馳せることで彼女たちに新解釈を与え、とりまく環境に問題提起を投げかけるエッセイ集だ。
本書では、開けると老人になる玉手箱を何の説明もなく送る『浦島太郎』の「乙姫」、腐敗した姿を見られたことに激怒し、夫に襲いかかる『日本神話』の「イザナミ」など、古典の話を現代語訳で取り上げた後、著者の考察が続く。その内容は昔話の、そして現代を生きる女の子たちへの優しい眼差しに満ちていて、不可解だったり「ヤバい」と感じていた「乙姫」や「イザナミ」と、まるで共に語り明かしたかのような感覚に陥る。
本書は、紡ぎ出される昔話の新たな展開である。
ヤバい女の子たちの素顔とは
「八尾比丘尼(やおびくに)」という昔話がある。若狭の国(現在の福井県小浜市)に暮らす若く美しい娘が、父親が持ち帰った人魚の肉を口にし不老不死となるストーリーで、室町時代の『康富記』『臥雲日件録』に記録がある。実際、身近に彼女のような不老不死の人がいたらどうだろう。最初は「いつまでも若くて羨ましい」と思うかもしれない。しかしながら自分や周りの人たちは普通に年老いていくのに、八尾比丘尼ただ一人、不気味なまでに若さを保っているとなると、次第にヤバいくらいに恐ろしくなってくる。だが「なぜ、自分たちがヤバいと感じるまでに至ったのか」と考えた時、ヤバいのはむしろ周りの人間の不甲斐なさではないかと思い至る。
そうたじろいだのが、八尾比丘尼の幼なじみがもし、日記を書いていたらという「想像の回想シーン」だ。もちろんオリジナルにはこのシーンはない。そこでは、幼いころいつも一緒に過ごしてきたのに、自分と違っていつまでも変わらず16歳の容姿のままの八尾比丘尼に対し、次第に「バケモノ」と捉え距離ができたこと、とは言え変わったのは八尾比丘尼ではなく、むしろ自分たちなのではないかという気づきを得る内容になっている。
「少し」異質なものは、単調な毎日を刺激する娯楽となる。だがあまりにも特異で、村人たちにとって脅威となり得る不老不死の八尾比丘尼は、いつしか受け入れられない存在として、不気味がられる。ここで思い出してほしいのは、八尾比丘尼だって、人魚の肉を口にする前は普通の女の子だったということだ。当然幼なじみもいただろう。
この回では、変わってしまったのは自分たちだと語る幼なじみと同じようなことが現代の生活においても、日々繰り返されていると語られる。さまざまな情報がメディア・SNSを通じて入ってくる現代。八尾比丘尼のように人魚の肉を直接、口に入れることはなくても、私たちは日々、いや時々刻々と情報を取り込み、変わっていく。そうして、知ってしまったことは知らなかったことにはできない。「八尾比丘尼の幼なじみの回想」という新ストーリーは、私たちがもしかしたら知らなくてもいいことまで知った後で、周囲の環境や社会をどう捉え生きていけばいいのかを考えさせられるものだ。
怒りの表現はひとつじゃない 静かに抵抗する女の子たち
話は変わるが、女性活躍の時代と言われて久しい。内閣府による「男女共同参画社会に関する世論調査」では、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」と考える人は前回調査と比べて5.6ポイント減の35.0%となり、1992年の調査開始以来、最低となったそうだ。(2019年11月現在)
意識調査の結果が低くなっているから、女性も社会に出て働くべきと言いたいのではない。女性であれ誰であれ、自分がしたいと思ったことを素直に認め、実現できる時代となった。家庭を守りたいのであれば、その道を選択したっていい。この世論調査そのものが時代にそぐわず、ナンセンスと思う人もいるだろう。男女問わず、結婚や出産、育児など、ライフスタイルの変化に応じて働き方を変えることも一般的となってきた。また、今でこそ女性が働くのは当たり前の時代だが、現在のような風潮に至るまでに、「専業主婦vs兼業主婦」といった、不毛な争いが多々あったことも心の片隅にでもとどめておいてほしい。「妻は家庭を守るべき」という世論に左右されることなく、自分たちのやりたいことを静かに、でも強い意志を持って貫いた人々の功績も無視できない。
その姿は先述の作品の続編、『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』(柏書房)に登場する女の子と重なる部分がある。
本書の構成は、基本的には前作同様だが、テーマは「抵抗」だ。例えば、『日本神話』のコノハナサクヤヒメ。アマテラスを祖母にもつニニギノミコトと美しいコノハナサクヤヒメが出会い、結ばれる。だがたった一夜でコノハナサクヤヒメが妊娠したという事態に、ニニギノミコトは疑心暗鬼に陥る。あろうことか「本当に自分の子どもなのか」と問いただす夫に対して、取り乱すでもなく、「炎の中で生んでみせます」と答えるコノハナサクヤヒメ。ドアも窓もない家を建て、僅かな隙間も粘土で塞ぎ、家に火を放つ。燃え盛る炎の中、彼女は無事、3人の子を出産したという。無礼千万な物言いを放った夫に対してコノハナサクヤヒメが突きつけた意思表示は、疑惑をなんとか取り払って信じてもらおうといった、健気なものではなかった。言葉では語ることなく、静かに行動で自分の怒りを表現したのだった。
抵抗することは生きること。静かに、自分を貫く揺るぎのなさもまた、抵抗であり、生きる証を示すものだ。
本書は昔話の登場人物と現代に生きるものを繋ぐ、そんな作品だ。主人公は昔話の、そして現代を生きる女の子たち。生きるために「抵抗」してきた彼女たちの、揺るぎなく、そして静かで激しい生き様に、現代を生き抜くヒントが見えてくる。