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2020.01.28

ミステリアスな魅力。くすっと笑えて不思議な「きのこの説話」3選

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全三一巻からなる『今昔物語集』は多くの謎と伝承を秘めている。

この一大説話集には面白おかしい話がたくさん収められているが、全てを紹介することはできないので、今回は「きのこ」の説話に注目したい。
じつは『今昔物語集』の巻二八には、きのこを題材にした話が5つもあるのだ。

なぜ「きのこ」なのか?

それはお話しを読んでみると分かってくる。
まずは、厳選したきのこの説話を3つ紹介しよう。

くすっと笑えて不思議な「きのこの説話」3選

「金峯山の別当、毒茸を食いて酔わざる話」(第十八)

今は昔、金峯山の別当をしていた老僧がいた。
別当とは、大寺で法務をとりしきる最高の地位にある僧のこと。それをひがんだ次席の僧が「あの別当が早く死ねばこのわしが別当になれる」と願うも、別当は元気そのもので、いっこうに死ぬ気配がない。
そこで「毒を食わして殺してやろう」と仏の道の者とは思えない決断をした。

翌朝、次席の僧は「わたり」という食べれば中毒を起こしてぜったいに死ぬというきのこを平茸(ひらたけ)と偽り、別当に食べさせた。
次席の僧は今か今かと待ち構えているのに、別当は平然ときのこを食べている。そのうえ「この老法師は、生まれてこのかた、こんなにみごとに料理させたわたりを食べたことはございませんでした」とさえ言う。

なんと、この別当は長いあいだ「わたり」ばかり食べていたがすこしも毒にあたったことがなかった。
次席の僧はもの一つ言うこともできずに奥へ引っこんでしまった。

「尼ども、山に入り茸を食いて舞う語」(第二十八)

今は昔、京に住む木こりたちが山へ出かけて道に迷ってしまった。すると山の奥のほうから尼さんたちが数人、踊りながら姿を現した。

「尼さんたちが、こんなふうに舞いおどりながらやってきたのは、まさか人間ではあるまい。天狗であろうか、それとも鬼神だろうか」

恐怖にかられながらも木こりたちが尼に舞っている理由を訊ねると、尼たちは説明した。
花を摘みにきて道に迷い、空腹に耐えきれずきのこを採って食べたところ、心ならず舞いだしたという。

さて、この木こりたちも空腹でたまらなかったので、飢え死にするよりはと尼たちが食べ残したきのこを食べた。とたんに、この木こりたちもその気がないのにひとりでに舞いだした。
こうして、尼も木こりも、たがいに舞いながら笑うのであった。

しばらくそうこうしているうちに、まるで酔いが醒めたようになって、めいめい家に帰りついた。
以来、このきのこのことを「舞いたけ」と呼ぶようになった。

「信濃守藤原陳忠、御坂より落ち入る語」(第三十八)

今は昔、信濃守藤原陳忠という人がいた。任国にくだって国をおさめ、任期が終わり上京する途中で御坂峠にさしかかった。
そこで、あろうことか守の乗った馬が足を踏み外し、守は馬に乗ったまま谷底へとまっさかさまに転落した。谷底は計り知れない深さで、もはや生きているとは考えられない。

従者が慌てて下を見下ろすと、声が聞こえてくる。
あわてて旅籠をおろして引き上げると、妙に軽い。乗っているのは本人ではなく、山積みのきのこだった。ふたたび旅籠をおろすと、やっと当人が乗ってくる。しかも、片手一杯にきのこをかかえている。

「谷底に落ちた時、木の枝が受け止めてくれたので一息ついていたところ、その木に平茸がいっぱい生えていたので、そのままにしておくのはもったいない気がして旅籠に入れて引きあげさせたのだ。まだ残りがあるかもしれない。惜しいことをした」

従者たちはそれを聞いてあきれ果て、どっと笑った。

命に代えても手に入れたかった「きのこ」の正体とは?

死ぬほどの目にあいながら、我が身よりきのこを優先させた心情は想像を絶する。
この話を聞いた人は、きっとどれほど笑いあったことだろうなと思って調べていたら、面白い記述に出くわした。

なんと、「信濃守藤原陳忠、御坂より落ち入る語」に出てくる「きのこ」は「平茸」ではなく「岩茸」ではないかとの指摘があるのだ。
都の周辺でも手に入る平茸は決して珍しいものではなかったという。
岩茸はその名の通り、断崖絶壁に育ち、成長も遅くて採るのも大変で味も珍味。貴重な代物だった。

しかし、この物語の口調だと、きのこは岩ではなくて木に生えている様子だった。
木に生えるのは平茸で、岩茸ではない。
どういうことか?
どちらでもいいような気もするが、これは結構重要な問題だ。

いずれにしても、『今昔物語集』のきのこの説話から分かるのは、主人公たちがみな揃いもそろって、きのこの魔性にとりつかれていたということ。

きのこには、食べもの以上の何かがあるように思えてならない。

きのことお坊さんの深い関係

きのこの説話をならべてみると分かるように、「きのこ」は僧と縁が深い。

『今昔物語集』にはほかにも、「毒きのこで亡くなった僧と子供を哀れに思い、葬儀の費用をたくさん与えた道長にあやかろうと平茸を食べて、物狂いと笑われる僧(第十七)」や「きのこに当たって中毒になるも説教の教化に取りこんで満座の人びとを笑わせる僧(第十九)」などがあるが、どの話も僧や尼と関係している。

しかも、毒きのこを食べて死んだり、殺しそこなったり、死ぬはずが助かったりと、きのこは生と死を連れてくる道具としての役割を物語で果たしている。

きのこに当たる例は今でもよく聞く話だけれど、どの物語も生と死のきわどさを語っていることや、そこに僧や尼が登場しているのは興味深い。

「きのこ」に秘められた呪いの力

山に親しむ人びとの秋ごとの好話題でもある「きのこ」。
それでなくても、季節を代表する味覚であるきのこが好まれているのは、昔もおそらく今と同じであったろう。
そしてこの美味しい食べ物は時々、毒になることもある。

狂言「くさびら(茸)」は天狗の術で人間を圧倒する大量のきのこが発生し、山伏に茸退治の祈祷を頼むも失敗するという話。

芝居の展開も面白いが、何よりきのこが持っている力が目をひく。
どうやらきのこには、天狗の術などと結びつく、呪力とでも呼ぶほかない神秘的な何かがありそうだ。

「舞茸の話」は、滑稽な笑いが多く収められている『今昔物語集』のなかでもちょっと特異な話だ。
木こりと尼の組み合わせも可笑しいし、きのこを片手に舞い狂うさまにも、なんとも言えない可笑しさがある。

幻覚を起こすきのこは世界中にあって、呪術宗教的に使用されている例もある。神との交信のためにシャーマンが食べることもあるのだ。

非日常の空間できのこに遭遇し、踊りながら、笑いあう。笑うことで生きていることを確認して、ふたたび日常へ戻っていく。
やっぱり、きのこには不思議を引き起こす劇性が秘められているのかもしれない。

おわりに

きのこは菌類であって植物ではない。栄養素からいうと、植物より動物にちかいとも言われている。
動物でもなくて、植物でもない「きのこ」。だからだろうか。
きのこは境界的な存在として扱われることが多い。
これまで見てきたように、呪いの力や僧と関連しているし、各国の神話や民話のなかに登場することがあるのもそのためだろう。
また、その形はどこかエロチックで笑いに結びつく。

ところで、この「今は昔」で始まる千以上の説話を集めた説話集『今昔物語集』に登場する人物はいったいどれほどの数になるのだろうか。その数、全巻におよそ3800人というから驚きだ。

ユーモアに富んだ『今昔物語集』、まだまだ面白い発見がありそうだ。

(参考資料:武石彰夫「今昔物語集 本朝世俗篇(下)全現代語訳」、講談社、2016年 / 小峯和明「説話の森 中世の天狗からイソップまで」、岩波現代文庫、2001年)

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。