丑三つ時(うしみつどき)にろうそくを立てた女が一人。片手には藁人形(わらにんぎょう)、もう片方の手には五寸釘。丑の刻参り(うしのこくまいり)がいつ頃から行われていたのか定かではないが、気が狂わんばかりの「怨念」の原型は「願い」だ。そう、願いは、キラキラ美しいものばかりではない。希望に満ち溢れ、前向きなものもあれば、後ろ向きなものまで。また、対象も千差万別だ。自分に関すること、他人に関すること、それ以外の天気や気候など、あらゆる事象が「願い」の内容となる。
そんな願いを叶える方法は、じつに多くのバリエーションがある。一般的には、善行を積む、もしくは苦行を耐えぬく方法。「どうか神様、(何でもしますから)願いを叶えてください」という、下からの祈願方法だ。しかし、真逆の発想で行われる祈願方法もある。「〇〇してほしければ、願いを叶えろ」という、上からの祈願方法である。これを「強請祈願(きょうせいきがん)」という。
今回は、この「強請祈願」について掘り下げていく。全国の様々な地蔵尊から、私たちの生活に入り込んだ身近にある「強請祈願」まで。驚愕の事実をご紹介しよう。
やっぱり願い事は…下手にでてナンボ?
確実に願いを叶える方法があれば、ここで是非とも記しておきたい。が、やはり本人の努力が一番。残念ながら、他力本願には限界があるようだ。本来ならば「神仏頼みは」は精神的安定のために…くらいの自覚を持つのがちょうどいい。ただ、そうは言いきれないのが人情というもの。何としてでも叶えたいと、人は我が身を削って祈願する。その代表例が、お百度参り(おひゃくどまいり)だろう。
東大阪市にある石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)。珍しい名前は、御祭神の御神威が強固な岩をも切り裂き、貫き通すほど偉大な様をあらわしているのだとか。こちらの神社は、全国的にもお百度参りができる神社として有名である。
三の鳥居と本殿の間に「百度石」が離れて2つ置かれている。この間を行き来する人たち。ただ、この百度石の間を単純に往復して、そのインターバルの達成を目指すわけではない。実際は、本殿前でお参りして、入口に戻って再び本殿前で心新たにお参りする。これを百回繰り返すことが「お百度参り」や「お百度を踏む」といわれる祈願方法だ。
ちなみに回数は関係ないのだという。大切なのは、神様に願いが届くよう一心にお参りする、その気持ちなのだそうだ。一度のお参りでは神様に通じないかもしれない、聞き届けて頂けるように何度も繰り返すのだという。
同じように、自分の好物を断つなど自ら行を強いて我慢する方法もある。一般的には「〇〇断ち」と呼ばれる祈願方法だ。自分の身を削り、殊勝な心掛けで神仏に願い事をする。やはり、下の立場から一心に神仏に祈る方法は「王道」だろう。
まさか、お地蔵様さまを…縛るの?
一方で、神仏が願い事を「叶えなければならない」ような状況を作る場合も。例えば、あえて禁忌を破る、神仏の嫌がることをするなど、半ば脅迫的な祈願方法も存在する。このような方法を「強請祈願」という。
まずは、その代表例から。
東京都葛飾区にある「業平山 南蔵院(なりひらさん なんぞういん)」。平安時代の歌人として有名な在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの寺院だ。創建600年とされる寺の境内には、全国的にも有名なお地蔵さまが安置されている。像高1メートルほどの石の地蔵尊で、元禄14年(1701年)に造立されたのだとか。南蔵院のホームページでは、ことに難病平癒に霊験があるとされているが、他にも、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さるのだという。
その有難いお地蔵さまの名は「しばられ地蔵尊」。まさかとは思うが、本当に名前の通りなのだ。見るに堪えないほどの縄が何重にも巻かれて、どう見てもかなりきつく縛られている。これぞまさしく、強請祈願。どうやら願い事をする際に、お地蔵さまを縄で縛り、成就すればその縄を解くという祈願方法なのだという。
さて、どうしてお地蔵さまを縄で縛るという物騒な方法を始めたのか。その由来は江戸時代の享保年間にまで遡る。
八代将軍、徳川吉宗の時代。日本橋にある呉服問屋の手代が、この南蔵院の境内でうっかりひと眠り。この間に、大事な反物が荷車ごと盗まれるという事件が起こる。事件解決の捜査に当たったのが、大岡裁きで有名な南町奉行大岡越前守忠相(ただすけ)であった。さすが名奉行と呼ばれるだけあって、発想の転換がぶっ飛んでいる。大岡越前守は、なんと、南蔵院に安置されていた「地蔵尊」を捕縛することを命じたのだ。
「寺門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」
こうして、民衆はまさかの光景を目撃する。それは、縄で何重にも縛られ、車に乗せられて、江戸市中を引き廻しされる無残なお姿のお地蔵さまであった。
さてこれからどのようなお裁きが始まるのかと、南町奉行所へ押しかける民衆たち。そこで、大岡越前守忠相は、奉行所の門を閉め、見物に集まった人々に対して、お白州(しらす)に乱入したことを理由に反物一反(いったん)の科料を処する。こうして南町奉行所には町中から反物が集められることに。これを先ほどの手代に調べさせると、盗品の反物の存在が明らかに。これをたどって、芋づる式に背後にいた大盗賊団を捕縛することができ、一件落着したという。
大岡越前守は事件解決に感謝し、立派なお堂を建立して、お地蔵さまの盛大な「縄解き供養」を行ったのだとか。この一件から、お願いするときは地蔵尊を縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれたとされている。実際に、毎年12月31日(大晦日)の夜には、しばられ地蔵尊の縄解き供養が今も行われているのだとか。
このようにお地蔵さまを縛って願いごとを聞き入れさせるような方法は、全国各地で見受けられる。そのバリエーションは豊富で、単に縛るだけのものから、さらに水に入れる、叩くなど。残念ながら、お地蔵さまにとっては「受難」以外のなにものでもないだろう。こうした強請祈願の風習は、各地で確認されている。
水の中に置かれたお地蔵さまが雨を降らせる?
さて、ところかわって、今度は京都。プライドの高い京都であれば、強請祈願など、さもありなんという感じだろうか(すみません、私、京都人なもので。自虐ネタです)。
京都府南部、城陽市にある観音堂(かんのんどう)。こちらは、一風変わっている。雨乞い地蔵さまなのだが、これまでとは微妙に趣きが異なる。まずは見て頂こう。なんと、田んぼの真ん中にぽつんと祠(ほこら)が。なんの変わり映えもない、至って普通の祠だ。つい通り過ぎてしまいそうな佇まいである。
よく見ると祠の中は空洞で、下に水の入った容れ物が。この水がめの中に石のお地蔵さまが眠っているのだとか。そう、じつは、こちらのお地蔵さまは、もともと最初から「水の中」に安置されているのだ。なぜ最初から水の中なのかは由来がない。ただ、昔から地元のお百姓さまに伝わっていることがある。
「水が好きな仏様だから、乾けば雨を降らせるのだ」と。
じつは、この地方では「雨乞い」の場合、お地蔵さまを水の中から出して神事を行う。具体的には、蓮池の横に竹を4本立ててしめ縄を張って祭壇を作り、陸にあげられたお地蔵さまに供物をお供えする。そうして、近くの常楽寺(じょうらくじ)のご住職が「水天竜王(すいてんりゅうおう)に雨を祈る」と墨書した卒塔婆(そとば、立札のこと)を立て、祈祷するのだという。
本当に効果があるのだろうか。
25年ほど前を思い出して頂きたい。平成6年(1194年)に起こった「平成の大渇水」。晴天が続き、夏の雨量が少ないために、全国的に水不足となった年であった。平成6年11月14日の『農業土木学会誌 第63巻 第1号』に、具体的な雨量の数値が掲載されている。7月の京都の雨量は82mm。前年の234.6mmからして、前年比35%の雨量だ。8月ではさらに少なく、40.5mm。前年が142.8mmなので、前年比28%の雨量である。非常に厳しい状況が続いていたようだ。こうして、京都府南部にあるこの城陽市も給水制限に踏み切るほどの渇水に陥った。そのため、平成6年(1994年)8月18日、とうとう雨乞い地蔵さまを水から出し、神事を行ったのである。供物をお供えして祈祷したところ、なんと、そのお祈りの最中に雨が降ったというのだ。実際にその模様がテレビで放映され、当時は話題になったという。
この城陽市の「雨乞い地蔵さま」も、一種の「強請祈願」といえるだろう。手段としては、まだそこまで過激ではない。水の中から出させて頂くだけで、供物などもお供えして丁重に対応する。水から遠ざけてほんの少しだけ「焦らす(じらす)」以外は、穏やかな方法だ。「しばられ地蔵尊」と比較すれば、半強請祈願くらいであろうか。驚くのは、実際に雨が降ったという結末だろう。あながち強請祈願も無視できない事例の一つである。こういう結末があるからこそ、人は祟りを恐れず、強請祈願に踏み切るのかもしれない。
怖い怖いてるてる坊主の歌
こうしてみると、強請祈願の風習は、日本中の至るところで確認できる。もちろん風化しているような事例もあるが、南蔵院のように、今でも人々が通常の祈願として行っているところもある。思いのほか、強請祈願は私たちの生活の中に入り込んでいるようだ。
そこで、最後にダメ押しの一手を。
それが、「てるてる坊主」である。
てるてる坊主は、大事なイベントが控えているときに、その前日に吊るすものである。「どうか雨が降りませんように」と祈りを込める。
じつは、てるてる坊は江戸時代から既にあったとされている。目鼻を描いて吊るす場合もあれば、のっぺらぼうの状態にしておいて晴れたならば目を入れるなど、達磨(だるま)のような扱いをする地域もあるのだとか。つまり、実際は「強請祈願」ともいえるだろう。特に、祈願に対する上から目線の態度は「てるてる坊主」の歌によく表れている。
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに
晴れたら 金の鈴あげよてるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願いを 聞いたなら
あまいお酒を たんと飲ましょ
そこまで驚く歌詞ではない。どちらかというと、馬の鼻先にニンジンをぶら下げる方式だろう。強請祈願というよりは、金で解決する大人特有のいやらしさを感じなくもない。ただ、好物が「金の鈴」や「甘いお酒」という違いがある。正直、てるてる坊主は一体何者なんだと、素朴な疑問が浮かぶ。
そして3番目の歌詞が、こちら。
てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇って 泣いてたら
そなたの首を チョンと切るぞ
はい。二度見したそこのあなた。私もつい、もう一度読み返してしまったのだから仕方がない。この童謡の3番目の歌詞は、確実に「脅迫」だ。それも「チョンと切る」などど可愛い言い方をしているが、行為は野蛮この上ない。もともとは個人の創作で、浅原鏡村(あさはらきょうそん)が大正10年(1921年)に発表した詩が元になっているのだとか。ただ、作者である浅原氏の地元、信州の北安曇野郡(きたあずみのぐん)では、てるてる坊主を作って「叩くと雨が晴れる」との俗信があるという。そういう意味では、あながち全てが創作とはいえない可能性がある。
こうして様々な強請祈願を知ると、モノの見方が変わってくる。
最初は、なんと罰当たりな祈願方法だと。呆れたという方が、やや正確かもしれない。しかし、よく考えてみると、単純に祈願方法だけをもって評価することなどできない。「良いか悪いか」「上から頼むか下から頼むか」。どうやら白黒はっきりつけることには意味がない。
「お百度参り」「〇〇断ち」など自分の身を削ってまで、心を込めてお願いする。確かに、心情的にはこちらが正式な方法なのかもしれない。ただ、結果的に願いが叶わなくても、「自分の努力が足りなかった」と諦められるという側面もある。成就しない事実に対して、自分を責めるという逃げ道が用意されているのだ。一方で、強請祈願は「罰当たり」「祟り」などの危険と隣り合わせの方法だ。それでも「なりふり構わず叶えたい」「自分に罰が当たっても願いが叶えば本望だ」と、切迫感が強請祈願には感じられる。そこには、自分の身などどうなってもよいという覚悟、ある種の潔さがある。
だからこそ、強請祈願という無茶な方法であったとしても、地蔵尊は願いを聞き入れるのだろう。強請祈願といいながら、その中身は捨て身の究極の祈願方法だからだ。純粋な願いを見捨てない。それが仏様の慈悲深さたるゆえんなのかもしれない。
参考文献
『供養のこころと願掛けのかたち』 田中宣一著 小学館 2006年8月
『京の宝づくし 縁起物』 岩上力著 光村推古書院 2003年1月