縄文時代と弥生時代。どっちも「先史時代」だし、どっちもわからないことだらけだし、なんなら歴史の教科書では、両時代合わせて数ページしか割かれないという雑な扱いを受けています。しかし縄文時代と弥生時代は、日本列島の歴史の中で最も長い時代なのであり、だからこそ「2大、日本文化の素となった時代」なのであります。
そこで今回は、縄文時代と弥生時代の生活を推測し、大胆かつ大雑把に比較してみようと思います。狩猟社会(縄文)が農耕社会(弥生)に変わるということは、食文化にとどまらない非常に大きな社会的変化を伴います。連続した時代であるにもかかわらず、時に信じられないほど違うことが多いですが、きっと縄文さんにも、弥生さんにも共感するのではないかと思います。
形質:ほとんど鎖国状態の縄文とダイバーシティの弥生
まず始めに強調しておきたいのは、「縄文人」や「弥生人」という言葉の使用についてです。これは各時代を生きた人、という意味で便宜的にそう呼ばれているだけで、人種の違いを表すものではありません。ただ、縄文時代と弥生時代では出土する人骨の様子が少し違うのも事実です。
縄文時代の人骨を調べると、多少の違いはあっても、日本列島にはだいたい同じような形質の人々が住んでいたのだということがわかります。もちろん、海沿いの人々が周辺国に出かけていったり、逆に外から人が流れ着いたりというようなことはありましたが、他の時代に比べると、それがとても少ないのです。
ところが弥生時代に入ると、出土する人骨が変わります。縄文人と似た形質を持つ「縄文人の子孫」もいれば、同時代の朝鮮半島や大陸の人々によく似た人々も、そのミックスのような人々もいます。これは、この時代に一定数の人が列島へやってきたということ。特に大きな人の移動があったのが、弥生時代中期です。当時の大陸は「春秋戦国時代」ですから、戦火を逃れてきた大量の難民が、平和な島を目指したのかもしれません。その後も、民間レベルでは朝鮮半島南部の人々と交易をしたり、時代が下ると国家レベルで卑弥呼が魏(ぎ)王朝に金印を授かったり、国際交流がとても豊かになります。DNA的にも文化的にも、弥生時代は列島のダイバーシティが進んだ時代なのです。
コミュニティ:弥生社会、人口増えすぎ問題
続いては集落のあり方の違いです。列島全体でいったら、縄文時代は「閉じた系」、弥生時代は「開かれた系」でしたが、集落単位で見ると、むしろ逆。ここからは、縄文村と弥生村にて、(想像)インタビュー形式でお送りします。まず最初の質問は、「獲物が余分に捕れた時(豊作の時)は、余剰分をどうしますか」という質問です。
縄文人「たくさん捕れたら分配します。お世話になってますから」
縄文時代に生きるなら、絶対に入っていないと生き残れないのが、海上および陸上交通でつながった「集落間ネットワーク」です。このネットワークに組み込まれることで、地元ではとれない動植物や鉱物などを互いに融通し、どこに生きても不自由のない生活を実現していました。そしてこの集落間のお付き合いを強固にするため、縄文時代の各集落はとてもオープン。婚姻や祭でしょっちゅう行き来します。縄文ネットワークへの貢献は、縄文人にとっては死活問題だからです。弥生時代に比べて格段に人口の少ない縄文時代は、ネットワークでつながった人々の名前や性格、好みまで熟知していたかもしれません。
弥生人「たくさん穫れたら貯蔵します。いつ飢饉になるかわからないから」
一方、弥生時代には、集落の周りに濠(ほり)を巡らせる「環濠(かんごう)集落」が大ヒットしました。これは縄文時代には見られない大陸由来の集落の形です。弥生時代は、何を隠そう日本列島ではじめて戦争が行われた時代ですから、敵の侵入に備える必要があったのだと考えられています。
弥生時代に、なぜ戦争が始まってしまったのかを一口で言うことはできませんが、「農耕のはじまり」が大きく関係していることは間違いありません。どこの社会でもそうですが、農耕をはじめると人口が爆発的に増えます。農耕とは、自然をコントロールすることで、特定の食糧を継続的に生み出し続ける技術に他ならないからです。人口が増えれば、当然、人間関係の諍いも多くなり、管理体制が必要になります。王や首長のトップダウン体制を備えた各集落は仲間意識を強固にし、排他的になっていきました。さらには、農耕によって得られる穀物は、肉や魚に比べて長期保存が利きます。隣の村が不作だからといって、あげる理由がないのです。私財化した米はやがて富の象徴となり、格差を生むことになりました。
死生観:死は生の一部!な縄文と、生きてこそ!な弥生
戦争といえば、人の死です。もちろん縄文時代にも、人は死んでいましたが、直面する死の形がだいぶ違っていました。そしてこの違いは、両者の死に対する考え方も変えていきます。続いての質問は、「死をどう捉えますか?」です。
縄文人「死は、誰もが経験する命の環の一部です」
人は誰でも、死ぬのは怖いものです。もちろん縄文人だって、できれば死にたくなかったはず。しかし、自然の循環サイクルの中に身をおき、常に動物たちの死に正面から向き合って生きていた縄文人にとって、死は恐れるべきものではありませんでした。その証拠に、彼らの墓は集落の真ん中に掘られることが多くありました。死んだ人間(&動物)と生きている人間が生活を共にするという、彼岸と此岸がとても近い空間です。また、彼らは命は巡り巡って再生するという信念の持ち主でもありました。どうせまた戻ってくるのだから、死は生の一場面にしかすぎない、という考えがあったのかもしれません。
弥生人「死は怖いです。こないだも戦争で友人が亡くなったんですよ」
一方弥生時代になると、墓は集落の外に、特別に設けられるようになります。これは死に対する考え方、あるいは他界観が変化したからだと言われています。弥生時代には、人や動物が狩猟によって日常的に命を落とすということが稀になり、「死は生の一部」だった縄文時代から一転、日常から遠い存在になったのでしょう。また、大量の人が戦争で理不尽に亡くなるようになった弥生時代には、死は悲劇であり、忌むべきものと恐れられるようになったのかもしれません。
夫婦:縄文時代は性的パートナーも平等に分配?!
古代人の墓から推測できることは、死生観以外にもたくさんあります。ここでは、家族関係に注目してみましょう。
縄文人「誰のタネかなんてどうでもいいじゃないですか」
縄文時代の埋葬法の一つに、2人以上の人を一つの墓に葬る合葬という形がありました。この場合、確かなことはわかりませんが、血縁関係を重視し、夫婦が同じ墓に葬られることはなかったのではないかと言われています。つまり夫婦に血縁関係はありませんから、「夫婦」という関係性があまり重要視されていなかったかもしれない、ということです。このことから察すると、縄文時代は、一夫一婦制ではなかったのかもしれません。
そもそも、農耕が始まる前、世界の多くの狩猟社会では平等主義を徹底するのが普通でした。自分の子供だけに目をかけるのではなく、部落の大人たち全てが、全ての子供を「自分の子」のように育てるのです。これは、複数の養い手がいることで、子供が大人になるまで生き残れる確率をあげるという利点があり、また女性が複数の男性と交わることで優秀な精子が選ばれるので、生物学的にも理にかなっているのだそうです。いや、決しておすすめはしませんけども。
弥生人「夫婦って大事ですよね。家族の基盤ですから」
弥生時代に入ると、庶民は引き続き縄文時代のあり方を継承していたものの、一部上流階層においては徐々に夫婦の合葬が見られるようになります。農耕をはじめると、なぜ夫婦関係が大事になるのか? それは、土地の継承という問題が絡んでくるからです。農耕をするためには、土地が必要です。そして私有地化した土地を、次世代につなげていく必要があり、そのためには、まごうことなき「我が子」がわかっている必要があるのです。世界の例を見ても、農耕をはじめると、一夫一婦制、あるいは男性を基準とした一夫多妻制が敷かれるようになるのが普通です。
ペット:犬派の縄文人と猫派の弥生人
弥生時代は、確かに人や動物が狩猟によって日常的に命を落とすということが少なくなりましたが、弥生人がベジタリアンだったわけではありませんし、弥生時代に動物がいなかったわけでもありません。むしろ大陸から様々な動物が導入され、縄文時代にはなかった牧畜もスタートしました。続いての質問は、「お気に入りのペットはいますか?」です。
縄文人「犬は家族です。毎日あのモフモフに癒やされてます(笑)」
「ペット」というと語弊がありますが、縄文人が人間同等に扱った特別な動物に「犬」がいます。狩猟を主な生業の一つとした縄文人にとって、犬は大事なビジネスパートナー。とはいえ、狩猟犬としての役割を果たせなくなっても亡くなるまできちんと世話をし、亡くなると墓も特別に作りました。縄文人にとって犬は、「ビジネス」を超えた家族の一員だったのかもしれません。
弥生人「猫とはいい関係です。あと天上に近い鳥には、憧れますね」
弥生時代に入ると、犬への考え方は大きく変わります。もちろん、弥生時代になっても狩猟を続ける人々はいましたが、生業を農業とした弥生人にとって大切なのは、むしろ猫。大切に育てた米を盗みにくるネズミを退治してくれるからです。では犬は、というと、実は食用になっていました。(!)縄文時代の犬と弥生時代の犬では種類が違うそうで、弥生時代の犬は大陸に由来します。そして犬を食す文化もまた、大陸から入ってきたようです。
また、縄文時代にはなかった動物として、「弥生ブタ」と言われる食用のブタ、またニワトリも導入されています。弥生土器の中には、嘴や羽をつけ、鳥に扮した人物が描かれていることがあるので、弥生人は鳥に対して特別な思いを持っていたと考えられています。神社の「鳥居」の字にも表れるように、神道においてニワトリは神の使者として大切にされますが、もしかしたらこの起源は弥生時代にあるのかもしれません。
建築:縄文人、「環」好きすぎ問題
続いて、両者のものづくりへのこだわりを聞いてみましょう。縄文人は哲学重視、弥生人は使い勝手重視といったところでしょうか。まずは家造りにおいて、「こだわりの形はありますか」と聞いてみました。
縄文人「永遠性を表す円が最高。デッドスペース?・・って何?」
縄文人の「環(円)」好きは、よく知られたところです。縄文人の典型的な集落は「環状」集落といって、各家族単位の竪穴住居がいくつも集まって環を作り、これを一つのムラとします。また、縄文人が膨大な時間をかけて作り上げたマツリの場は、ストーン・サークル(環状列石)やウッド・サークル(環状木柱列)といって、石や木を円形に配置する場合が多いのです。そもそも、彼らの家「竪穴住居」は、円形に土を掘りくぼめ、その上に壁や屋根を作っていくのが一般的なお作法です。なぜ、彼らがこれほどまでに環(円)にこだわったのかはわかりませんが、命の再生(ループ)や中心のない(権力者のいない)ムラ作りを意識していたからではないか、という意見もあります。
弥生人「四角のほうがいいって気づいた時は、世紀の大発見だと思いましたね」
この「円」へのこだわりに意義を唱えたのが、後の時代の弥生人。弥生人も引き続きムラ単位のコミュニティを築き、竪穴住居に暮らしましたが、床の形は円から四角に変化します。これは、技術が進歩することで、丸太だけでなく板材を使うようになったからだと言われます。現代の家もそうですが、住居は丸いよりも四角いほうがデッドスペースがなくて使い勝手がいいですよね。弥生時代の安藤忠雄のような人が「よく考えたら竪穴住居って、四角のほうが使いやすくない?」と言ったかどうかはわかりませんが、そんな人がいたとしたらグッドデザイン賞を受賞したことでしょう。
土器:「装飾的」なのは、むしろ弥生土器!?
両者のこだわりが表れているのは、住居の形だけではありません。古代人のクリエイティビティが表れる場所といえば、土器の造形です。
縄文人「全ての文様に意味があります。え?使い勝手?何を言ってるんですか?」
考古学者がなぜあんなに土器の文様の変遷にこだわるかというと、それが縄文時代の文化圏を表しているからです。たとえば長野県一つとっても、南の八ヶ岳文化圏と、北のほうでは全然違う文様文化を持っていて、お互いにマネしたりしません。土器の文様には、各文化圏の伝統や神話、呪術のあり方が反映されているのです。縄文土器のどう考えても使い勝手の悪いムダな派手さには定評がありますが、あれは決して「装飾」ではなく、それ以外の可能性はない必然的表現なのであり、土地の個性を表すアイデンティティでもあったのです。
弥生人「装飾にはこだわります。シンプルビューティっていうか(照)」
一方、弥生時代に入ると土器に込められた呪術性や物語は消えていき、土器はまごうことなきプロダクトと化していきます。弥生土器のツルッとした洗練された形は、ムダがなくてとても使いやすそうですよね。ところが、スマートで洗練された弥生土器の中にも、絵が書いてあったり、文様が入っていたりするものがあります。よく「縄文土器は派手で、弥生土器はシンプル」なんて表現されますが、文様が装飾ではなく必然的表現であった縄文時代からしてみれば、弥生時代のおしゃれなデザインの土器文様のほうがより「装飾的」、ということになるのかもしれません。
典型的な縄文土器(左)と弥生土器(右)
呪術:土器を小型化する縄文と、銅鐸を巨大化する弥生
土器に込められた呪術性は、弥生時代には消えていきますが、呪術そのものが消えたわけではありません。むしろ、弥生時代のほうが、祭祀道具の種類は豊富かもしれません。縄文時代は、全ての恵みを自然に頼っていましたから、自然界の精霊のようなものに祈るだけでしたが、弥生時代に入って農耕を始めると、自然をコントロールしようとし始めます。すると、祈る対象も豊作をもたらす雨の神、太陽の神、稲の神、など細分化され、その度に違う祭祀道具を使って違う祭をしていたのかもしれません。ここでは、「お気に入りの呪具」を見せてもらいましょう。
縄文人「ミニチュア土器いいでしょう。実用できない?え?何をずっと言ってるんですか?」
縄文人も、呪具をたくさん持っています。代表的なものは、土器、土偶、石棒、石皿など。縄文人は祈りを込めたこれら祈りの道具を、携帯用(かどうかは定かではありませんが)にも作っていました。よくできた土器のミニサイズ、よくできた石棒のミニサイズ、など、手のひらに収まるサイズのミニチュア呪具がたくさん出土しています。もちろん手のひらサイズの土器で煮炊きなどできるはずありませんから、きっと旅や狩猟に持っていく個人的なお守りとして用いたのでしょう。
ミニチュア土器とそのモデル?土器(長野県・尖石縄文考古館)
弥生人「大きいほうがすごそうでしょ?鳴るかどうかは、もはやどうでもいいですね」
弥生時代の祭祀道具は本当に豊富です。土偶や岩偶などの縄文由来のものから、銅鐸(どうたく)と呼ばれる鉄製の鈴や、銅矛(どうほこ)や銅剣などの大陸由来の武器の類、そして木で作った鳥や、楽器まで! 中でも弥生時代を代表するのは銅鐸でしょう。自然界にはない、銅鐸の奏でる神秘的な音をはじめて聞いた弥生人は、さぞかし感動したことでしょう。この神聖な音が、農業の神を喜ばせると思ったかもしれません。縄文人がそうしたように、弥生人もまた、(ムダに)ミニチュアサイズの銅鐸を作っています。ただし弥生時代に特殊なのは、これら祈りの道具が、農耕儀礼という役割を超えて、威信財となっていったというところです。
巨大化した銅鐸(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
銅鐸は、中央にぶら下げられた棒と、内面につけられた出っ張り部分(突帯といいます)が触れ合うことで音がでますが、新しいものになるとこの突帯がなくなってしまったり、鳴らすための棒も薄く装飾が豊かになったりします。サイズも、大きいものだと子供の身長ほどのものが登場したり、とてもじゃないけど鳴らすには不向きなのです。一般的にこの変化は「聞く銅鐸から見る銅鐸へ」と表現され、銅鐸が単なる置物へと化していったことを表わしています。各地域で覇権を巡り熾烈な争いが繰り広げられた弥生時代後期、銅鐸はただの呪具ではなく、各地域の力をデモンストレーションするという役割を担ったのかもしれません。
縄文が弥生になるには、壮絶なドラマがあった
縄文時代と弥生時代。農耕がはじまるだけで、死生観から、家族のあり方やペットの扱いまで、ずいぶんと違ってしまうものですね。縄文時代のイデオロギーは、徹底した平等主義と再生への執着です。縄文時代の「集落間ネットワーク」や、環状集落のあり方には、権力の偏りを生まない巧みな工夫がなされ、墓やものづくりのあり方には、命の再生が強く意識されています。対して弥生時代のイデオロギーは、富の拡大と実利主義。農耕によって生まれた富の不均衡はのちの古墳時代に繋がっていくトップダウンの管理体制を促し、効率性や実利性を求める社会を導きました。
とはいえ、縄文時代と弥生時代には連続性がありますから、平成から令和に変わるように、ある日を堺に突然時代が変わってしまったわけではありません。農耕という異文化を受け入れ、それが広まっていくにつれ、数百年かけながら少しずつ、少しずつ、縄文時代は弥生時代になっていったのです。そしてその時代の変遷期を生きた人々は、伝統と最新文化の狭間で葛藤し、逡巡し、今では「日本の心」とまで言われる米を日本に定着させました。次回は、農耕という異文化を、独特な日本文化へと昇華させるに至った、私達先祖の壮絶なドラマをレポートします。お楽しみに!