Culture
2020.02.06

江戸時代の会いに行けるアイドル⁉︎清楚派美人「笠森お仙」のモテ人生を紹介

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「たまたまカフェで撮られた写真が、ネットで話題になってアイドルに…」そんな女性が、250年以上前の東京にも存在していたのです。彼女の名前は笠森お仙。細身で可憐、あどけなさが残る表情。そのキュートな姿を一目見ようと、彼女が勤めていたお茶屋に客が殺到したというエピソードも残されています。お江戸のアイドルとなった女性とは、一体どんな人物だったのでしょう。

時を戻そう。お仙の幼少期は…?

宝暦1(1751)年に、武蔵国(現在の埼玉県草加市)で生まれたお仙。地元の名主の家に生まれますが、江戸の谷中に暮らす鎰屋(かぎや)五兵衛の養女として引き取られます。(諸説ありますが、父親の借金返済のために売られたという説もあります)

カフェ店員から一躍アイドルへ!

お仙は13歳のころ、鎰屋が営んでいた茶屋「鍵屋」の店頭に出るようになります。現代でいうところのカフェの店員として、あくせくと働くお仙。彼女に転機が訪れたのは、17歳頃のこと。当時の人気絵師・鈴木春信の浮世絵のモデルとなり、一躍、江戸中の注目を集めたのです!

鈴木春信「笠森お仙」中判錦絵 明和2~7年ごろ(18世紀後半)

なぜこの絵に描かれたお仙が注目を集めたのか?

その答えは、そこに描かれたお仙が、高価な衣装に身をまとった華やかな芸能人ではなく、かわいい一般の女の子だったから。

今でこそかわいい女の子たちをネットや雑誌でたくさん見ることができる時代ですが、当時の大衆メディアである浮世絵に描かれていたのは、花魁や歌舞伎役者など、いわゆるスター級の芸能人が中心。これに対して春信がモデルに抜擢したお仙は、芸能界デビューをしていない、町で働く一般女性だったのです!

化粧っ気がなく、質素な木綿の着物をさらりとまとった、清純派美人…。これまでみたこともない、新鮮な「かわいさ」に、江戸の男性たちは騒然とします!

お仙目当てに客が殺到!

鈴木春信の描いた浮世絵がきっかけとなり、お仙の勤めていた茶屋に客が押し寄せるようになりました。

遊廓や歌舞伎では、大金を払わなくては生身の美女を拝むことができなかったのに、たった一杯お茶を飲めば会えるなんて…。当時の男性たちからすれば、まさに会えるアイドルだったのでしょう。以来「会えるアイドル」として町娘たちは大変な人気を博すようになり「あの店の◯◯ちゃんがかわいい!」など娘たちの評判を記録した書籍が、いくつも出版されるほど、江戸の男性たちを熱狂させました。

アイドルの失踪にお江戸は騒然!

美人画や手ぬぐい、絵草紙、すごろくなど「お仙グッズ」も販売されるようになり、ついにはお仙を題材にした狂言や歌舞伎までつくられるようになりました。

ところが人気絶頂の明和7(1770)年、お仙が20歳頃、彼女は忽然と姿を消してしまいます。お仙目当ての男性客たちは、老いた五兵衛しかいない茶屋に訪れて、がっかりしたそう。スーパーアイドルの失踪劇にさまざまな憶測が飛び交いましたが、その後、実は、御庭番の倉地政之助とこっそり結婚していたことがわかっています。アイドルのような生活から、結婚、そして出産。お仙は幸せな暮らしの末、77歳でその人生に幕を下ろしています。

浮世絵に革命を起こした春信の美人画

さて、今回紹介したお仙の描かれた作品は、江戸時代中期の浮世絵。

浮世絵は最初の頃、モノクロの「墨摺(すみずり)絵」から一部を着色したものへと発展し、鈴木春信によって大きな変革を迎えました。それは、極彩色で摺った「錦絵」の誕生です。浮世絵の革命児となった春信は、美人画にその才を発揮し「笠森お仙」のように華奢な少女を描き、現代の宣伝媒体の先駆けとなる作品を多く残しました。

そもそも浮世絵は、江戸時代に成立した絵画様式のひとつ。生活や流行、遊女や役者などをテーマに、時代と共に描かれるモチーフや手法も変化しました。「浮世絵は絵画様式」と書くと、現代の人は高尚なアートのようにとらえがちですが、江戸時代における浮世絵と民衆の距離は、写真やポスター、チラシのように、もっと身近なメディアだったのです。

当時の美人画に革命を起こし、少女の人生にまで大きな影響を与えた、春信の浮世絵。笠森お仙の物語をきっかけに、美人画や春信の浮世絵の世界にも足を踏み入れてみてはいかがでしょう。