一度良くなったことが再び元の状態に戻ることを「元の木阿弥(もとのもくあみ)」という。まさしく、誰もが知っている故事成語の一つ。しかし、意外にも、この「木阿弥」の正体はあまり知られていない。「木阿弥」が人の名前だということも。目の見えない僧侶だということも。
そして、じつは「木阿弥」が戦国時代の「影武者」だったということも。
「影武者」、またの名を「影法師(かげぼうし)」や「影名代(かげみょうだい)」という。戦国時代では、この「影武者」が数多く暗躍した。単純に君主の「身代わり役」にとどまらず、戦いにおける一つの戦法として、影武者が積極的に使われたのだとか。それにしても、既に存在からして謎。いうなれば、実体がない黒子(くろこ)のようなイメージだ。そのせいか、影武者に具体的な名前があること自体、正直驚いた。
今回はそんな「影武者」を、じっくりと取り上げてみたい。
一体、誰が影武者になるのか。影武者を使う戦法とはどんなものか。素朴な疑問が頭に浮かぶ。いや、それよりも。そもそも、話の発端の「木阿弥」って誰だっけ?まずは、ここから始めよう。
徳川家康のぶっ飛び影武者説
「元の木阿弥」の由来は、実在した人物の一生をベースにしている。
大和国(奈良県)の戦国武将であった「筒井順昭(つついじゅんしょう)」。彼は病気を患い、わずか2歳の子(のちの筒井順慶)を残して死ななければならなかった。ただ、戦国の世では、周りが敵ばかり。幼子が家督を継いだとなれば、即刻攻められる。そこで、子が成長するまでの時間稼ぎとして、順昭は「影武者」を用意する。それが「木阿弥」であった。
どうやら、木阿弥はその姿や声など、非常に筒井順昭と似ていたのだとか。それゆえ、死んだ順昭の影武者に抜擢され、新しい人生を歩むことに。今までにない贅沢な暮らしが用意され、皆に大事にされるのである。しかし、残念ながら、この話にはオチがある。忘れてならないのは、時間と共に子は成長するということ。立派に成長して家督を継いだ筒井順慶がいれば、順昭の死がバレても何の問題もない。
こうして、影武者は不要となり、木阿弥はお役御免に。贅沢な暮らしから一変、ただの僧侶、「元の木阿弥」に戻ったのである。この話に由来して、「一度良くなったことが元に戻る」ことを表す故事成語ができたのだとか。
影武者の中でも「木阿弥」のようなパターンは珍しいだろう。本人とそっくりな全くの赤の他人を用意するのは至難の業。あまりにも偶然的な要素が強すぎるからだ。それでも、この手の影武者説は、歴史のエピソードとして尽きることはない。
例えば、徳川家康の影武者は、極端すぎて一つの物語仕立てになっている。
「史籍雑纂」では、徳川家康に影武者がいたことが触れられている。実際の影武者については憶測の域を未だ出ないが、そのうちの一つをご紹介しよう。
徳川家康の影武者のなかでも有名なのは「世良田次郎三郎元信」。驚くことに、こちらの影武者説では、家康がまだ「元康(もとやす)」と名乗っていた頃の話。永禄3(1560)年12月、なんと松平元康(のちの徳川家康)が、尾張守山で暗殺されたというのだ。つまり、家康と名乗る前から、既に別人に入れ替わっていたことになる。
というのも、暗殺された時点で、元康の嫡男である信康はわずか3歳。先ほどの「木阿弥」の例と同じく、あまりに幼かった。このような場合、幼子が家督を継いだと周囲に知らせるのは、攻めてくれというようなもの。特に、周りは織田氏や今川氏。そこで元康の家臣団は影武者を立てることを決めたという。ただ、筒井順慶とは異なり、嫡男の信康はのちに切腹を命じられる。つまり、この影武者説では、結果的に江戸幕府を開いたのは家康本人ではなく、影武者の「世良田次郎三郎元信」ということになる。アンビリーバブルな展開だからこそ、歴史小説の題材として人気が高いのかもしれない。
影武者って誰がなるの?
主君の身代わりとなる影武者。可能な限り、その存在自体を隠したいはず。にもかかわらず、影武者として有名だったのが、武田信玄の影武者、「信廉(のぶかど)」である。信廉は武田信玄の弟で、影武者の役割を担っていたといわれている。
影武者となるには、容姿や声などが本人と似ていること。言わずもがな、絶対的な条件の一つであろう。そして、本人と似ている人物といえば、真っ先に思い浮かべるのが「兄弟」だ。
当時は、多くの世継ぎを残すため、正室以外にも側室を持つことが一般的。この一夫多妻制の当然の結果として、腹違いの兄弟も非常に多かったのである。つまり、本人にしてみれば影武者候補者がわんさかといて、その中から選び放題というワケなのだ。
さらに、容姿だけでなく、ある程度の教養があればなおさら。ただ黙って存在さえすれば容姿のみで足りるが、言葉を交わすとなればそうもいかないからだ。この条件が入れば、候補者は限られる。戦国時代では、同じ子であってもその境遇は千差万別。子ども全員に武士としての教育がなされるわけではない。嫡男である長男はもちろんだが、万が一亡くなる可能性を考えて次男、三男にも、主君となるための教育がなされる。ただ四男以下は、寺などに預けられて後継者争いに巻き込まれないような工夫がなされていた。
そういう意味では、信廉は理想の「影武者」だったといえる。容姿は、側近さえも信玄と間違えるほど、瓜二つ。それだけではない。信廉は教養人としても、一般的に認められていたという。一説には、武田信玄が作ったといわれる和歌のうち、幾つかは信廉が作ったとさえいわれているのだとか。完璧すぎる影武者、信廉。恐るべし。
このように、主君との入れ替わりを想定する影武者の場合、外見が似ていることは必須条件。のみならず、内面も一定の基準を超えることは歓迎条件とされていたようだ。
マトリョーシカじゃあるまいし。本物はどこよ?
せっかく「影武者」がいるのであれば、それを戦法に使う手はない。いやいや、さらに一歩先に進めて。
「兜かぶってりゃ、本人か偽物かなんて、結局バレないんじゃね?」
あまりにも安直すぎる考えだが、私の頭でさえ浮かぶのだ。当時だって、そう考える武将がいてもおかしくはない。
その最たる例が、あの真田丸で名を馳せた「真田幸村」である。
慶長20(1615)年5月7日。戦国時代の最後を飾る大きな戦い「大坂夏の陣」である。前年の冬の陣では、真田丸に苦しめられた徳川方だったが、外堀などを埋めることに成功し、あとは攻めるのみとなっていた。
一方、今回も豊臣方で出陣した真田幸村は、兵力差を埋めるために奇襲攻撃を画策する。ただ、徳川方の挑発にのって他の隊で軍が乱れ、残念ながら奇襲攻撃は実行不能に。そこで、幸村は3500の兵を率いて(諸説あり)、徳川本陣を目指して一気に攻め込むことを選ぶのであった。
兵力差は明らか。だからこそ、狙うは徳川家康のみ。こうして、幸村は大将一人を狙う作戦に打って出たのである。幸村隊は丸く固まって突き進み、数を減らしながら家康本陣を目指す。数では徳川方が圧倒的に有利であるにもかかわらず、精鋭揃いの幸村隊の激しい攻めに徳川方は押される。
ここで、さらに徳川方に追い打ちをかけたのが、影武者であった。幸村のトレードマークである「六文銭」の旗指物を何本も用意し、同じような甲冑を被った影武者が「われこそは真田信繁(幸村)なり」と現れるという作戦だ。
「マトリョーシカじゃね?」
マトリョーシカとは、ロシアの民芸品の人形のこと。「ロシア版こけし」のような姿形だ。人形は胴体部分で上下に分かれ、中が開けられるような構造となっている。中にはひとまわり小さい人形が入る「入れ子」型。開けても開けても、同じような人形が繰り返し出てくるのが特徴だ。
そう、まさしく、幸村の影武者はマトリョーシカ状態であった。ただでさえ、徳川陣営は大混乱。冬の陣で苦しめられた「あの幸村」がこちらへ向かって一直線に攻めてくるのだから。皆が思ったに違いない。
「おおっ。マジ本物、これが幸村だぜ」
こうして、姿を現した幸村に皆が突進する。
その横で、まさかの一声が。
「われが真田信繁(幸村)なり」
左から六文銭の旗指物、同じ甲冑の幸村がまた出てくるのである。現場はまさに阿鼻叫喚。そうこうしているうちに、後ろから「われこそは真田信繁(幸村)なり」。今度は右から「われは…」以下省略。
この作戦により、徳川本陣の証である馬印は倒され、家臣は逃げ惑い、家康も覚悟を決めたのだとか。ただ、やはり兵力差では勝てず、その後、徳川方は立て直す。結果、幸村隊は敗走し、作戦の考案者である真田幸村も、追われた先で討ち取られるのであった。
戦法として利用される影武者は、「木阿弥」のように、普段の生活で大事にされることなどない。ただ、戦いの中で使い捨てにされる、いわば「捨て駒」のようなもの。それでも、主君のためならと、死を厭わず、本望とさえいわしめる。その源はどこからくるのか。
せめてもの救いが、大坂夏の陣は徳川家康にとって「人生最大の危機」といわれていることだ。脱糞まではしていないが、馬印が倒されたのは、武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来のこと。さすがの家康も切腹を覚悟したともいわれている。全ては、真田幸村の奇想天外なマトリョーシカ作戦が功を奏したといえる。
後日談だが、あまりにも幸村の影武者が多かったため、幸村の首を差し出しても、信じてもらえなかったとか。首実検の際には、多くの「自称幸村」の首が置かれていたという。
それにしても、マトリョーシカ扱いとされた名もなき影武者の皆さん。
改めて、そのご冥福をお祈りしたい。
参考文献
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
別冊太陽『徳川家康没後四百年』 小和田哲男監修 平凡社 2015年4月
『戦国武将の大誤解』 丸茂潤吉著 彩図社 2016年9月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月