女優・アイドル・モデル・レースクイーンや水商売。「若い女性」であることに価値がある職業というものは、今も昔もたくさんあります。
もちろん処世術や教養も必要ですが、「瑞々しい若さ」と「輝ける美貌」があればあるほど、人気も出るのは確かです。
しかし、年齢を重ねて「中年」「高齢者」と呼ばれる年齢になっても、美しさを保つ「美魔女」と呼ばれる方々がいます。
80代の現役モデルのカルメン・デロリフィチェや、ハリウッド女優のジュリア・ロバーツ。日本でも吉永小百合さんや黒木瞳さんなど、枚挙に暇がありません。
けれど彼女たちのような「美魔女」が注目を浴びて人気になるのは、現代だけではありません。
中世の人々も、「老いたからこそ浮彫りになる美しさ」に「あはれ」つまり「エモさ」を感じていました。
枯れ木には枯れ木の美しさがある
鎌倉時代の説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』には、こんな話があります。
とある右大臣の屋敷で年始の宴がありました。そこに現れたのは、歌と舞の名人と名高い白拍子の春日金王(かすがの かなおう)です。
彼女は白髪を靡かせて、歌って舞いました。
「百千鳥 さえずる春は ものごとに 新たまれども 我ぞふりぬる」
この歌を意訳すると、「沢山の小鳥たちがさえずる春がやってきた。去年とは違う新しい年が始まるわ。それを毎年見ている私……ああ、年を取ってしまったわね」という風になります。
毎年新しい子がデビューする白拍子界の中にいて、白髪になってもなお「名人」と謳われ、大臣に呼ばれて屋敷で歌舞を披露する。それがこの歌です。
エッモッ……!
老いていく体を自虐しているように見えて、目まぐるしく変わる若い白拍子人気ランキングに対し、「まぁ、私はこの年まで、変わらずこの地位にいるのよね」という「大御所の余裕」をうっすらと感じます。
これが、ダイレクトな自慢をしない雅な京文化しぐさというものでしょうか……!
これに「あはれ」=「エモさ」を感じて、大臣は涙を流すほど感激します。周りの人が若干引くぐらい泣きました。
きっと春日金王は、この大臣と若い頃から色々あったのでしょうね。
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沙石集
春日金王の若い頃は女スパイ!?
春日金王は沙石集に白髪の白拍子として出て来ます。では若い頃はどんな人物だったかというと、実は鎌倉幕府VS朝廷の大戦、承久の乱を描いた物語『承久記』にもチラリと出ています。
承久の乱が始まる直前、朝廷のトップである後鳥羽院は、京都にいる幕府の重鎮、伊賀光李(いが みつすえ)の屋敷を攻める事を、密かに決定しました。
その前日の夜、伊賀光李は白拍子を屋敷に呼びつけて家来たちと大宴会をします。。その中の1人が春日金王です。
朝になり、皆が泥酔して眠りこけていると、朝廷の軍勢が光李の屋敷を取り囲んで襲撃しました。
鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、「伊賀季光はこの襲撃を、幕府に味方する貴族からこっそり知らされていた」とあります。
しかし、襲撃の事をいつ知ったのかは書かれていません。前日の夜は大酒を飲んでいます。それより前に知っていたのなら、酒を飲むよりもっとやる事があるはずです。白拍子ではなく武具を集めなきゃいけないでしょう。
私は「宴の最中にこっそりと知らされていた」のではないかと考えています。春日金王は歌と舞の名人です。若い頃から貴族のパトロンがいたことでしょう。
貴族から伝えられた襲撃のことを、歌に紛れ込ませて光李に伝えていたのかもしれません。そう、彼女はきっと貴族ご用達の華麗なる女諜報員……。
白髪になった彼女の舞を見て泣いた大臣も、若い頃から彼女の働きに助けられていたと考えると、妄想が色々捗りますね。
他にもあった「老いた美しさ」を表すエピソード
白髪の生える年齢になっても、その感性は衰えないどころか冴えわたっている。中世の人々はそこに「美しさ」を感じていたようです。
春日金王の他にも、老いた女性の美しさを称える、エモいエピソードが残っています。
永遠に語り継がれる友情、檜垣嫗(ひがきのおうな)
檜垣嫗は平安時代中期頃の伝説的な和歌の名人で、『檜垣嫗集』という物語仕立ての歌集があります。
熊本県を流れる白川のほとりに住んでいた老女で、この地に赴任してきた貴族に「水を汲んで来い」と命じられます。
その時に歌ったとされるのがこの歌です。
「年ふれば わが黒髪も 白河の みづはくむまで 老いにけるかも」
「昔は黒髪の美女でチヤホヤされていたのに、白髪になったら白河の水を汲めなんて命令されるほど落ちぶれるなんて……ああ、年を取ったものね」
そこらへんの田舎のお婆さんだと思っていたら、見事な歌でピシャリと返された事に、貴族はさぞびっくりしたのでしょう。それ以来、親交を深めて和歌を送り合う仲となります。
貴族の任期が終わって京都へ帰る時、檜垣嫗は送別の歌を送りました。
「白川の 底の水ひて 塵立たむ 時にぞ君を 思い忘れん」
「この白河の水が干上がって、底の塵が舞ったとしても、アンタの事は忘れないよ」
電車も車もない時代、九州と京都は気軽に旅行できる場所ではありません。しかも檜垣嫗は高齢です。今生の別れと思って見送ったことでしょう。
「たとえ思い出の川の水が枯れても、たとえアタシが死んでも忘れないよ」という友情は、確かに1000年以上経った現代にも色あせずに語り継がれています。なんという……なんというエモさ!
上皇が求めた美声「乙前(おとまえ)」
平安末期の上皇で源平合戦の立役者の1人、後白河上皇は「今様(いまよう)」と呼ばれる当時の流行歌にハマっていました。
そこに乙前という声が美しい今様名人の噂を聞き、その声をどうしても聴きたいと所望します。しかし乙前は名人であるにもかかわらず、弟子をあまりとらず、当時はすでに引退して隠居の身でした。
けれど上皇はコネを駆使して、どうにか居場所をつきとめます。
乙前は一度「私は引退してから、もう何十年も経っています。年をとってしまってかつての美貌も失っております。上皇様の前には立てません」と断ました。
しかし後白河上皇は乙前に懇願して、ようやく対面をして、師弟関係を結びます。もちろん乙前が師匠です。
上皇は噂通りの美声に惚れ込み、この国の最高権力者であるにもかかわらず、乙前を師匠として敬い尊重しました。
この師弟関係は十年以上続きますが、乙前は84歳で亡くなります。
後白河上皇は師匠の死を深く悲しみ、お経を読み上げるのですが、ふと「乙前師匠はお経より今様を喜ぶに違いない」と思い付き、毎年命日には乙前に習った今様の全てを夜通し歌った、というエモの極みのようなエピソードが残っています。
至難至高の能「三老女」
室町時代に確立した芸能「能」は、さまざまな美しさを物語仕立ての舞で表現しています。その中でも特に表現が難しいとされるのが『三老女』と呼ばれる、3人の老女の舞を表現した能です。
3人老女は、先述した『檜垣嫗』と、小野小町の老後を描いた『関寺小町』と『鸚鵡小町』、そして姥捨山の伝承をモチーフにした『姨捨』です。
昔は美女として一世を風靡していたのに、老いた後は落ちぶれてしまった。けれど風流を愛する心を持ち続け、何もかも失っても誇りだけは失わない。その姿を「美しい」「エモい」と感じるのは、昔も現代も変わりませんね。
人は必ず年を取り、老いていきます。私もそろそろ、体力や肌の張りに年齢を感じる歳になってきました。
けれど「美しさ」は若さだけではないはず!
どうせなら春日金王や檜垣嫗のような、エモかっこいいお婆ちゃんを目指して長生きしたいですね。