新型コロナウイルスの猛威が続く中、多くの企業が「リモートワーク」に移行している。私もそのうちの一人だが、リモートワークを続けているうちにあることに気が付いた。
「私の顔、いる?」
やむを得ず外出する際はマスクですっぽり顔を覆い、オンライン会議では一応顔を出すものの、化粧が間に合わなければ「PCの調子が悪い」と嘘をついて画面をオフにしたり、顔を加工できるカメラで繋いだりしている。
リモートワークが進む中、どうも人の顔の価値が揺らいできている気がする。それは顔を見せない文化だった「平安時代」にも通ずるところがあるのではないか……。という私の仮説を書いていきたい。
※こちらの記事は2020年4月30日に公開されたものです。
平安時代、女性は顔を見せなかった
まずは平安時代の「顔」について解説しよう。平安時代、高貴な女性が顔を見せることはほとんどなく、几帳という衝立のようなものに隠れていたり、扇で顔を覆ったりしていた。
源氏物語に登場する「大君(おおいきみ)」という女性は、臨終の時ですら袖で顔を覆って隠していた。それほど顔は滅多なことでは見せられないものなのだ。
その人の価値は教養やセンス、血筋の良さで決まる
滅多なことで顔は見られない。それならどうやって平安時代の男女は恋に落ちたのだろう?
男性が女性に恋をする時、重要なのは「血筋の良さ」「教養」「センス」など、ハッキリと目には見えないものだった。
とりあえず高貴な血筋なら「きっと素晴らしい人に違いない」と思われる。その上できちんと教育を受けた女性なら、さまざまな教養を身に着けており感心される。血筋と教養のベースがあって、さらにその人ならではのセンスがあれば完璧だ。
その教養やセンスを測るのが「手紙」。平安時代の男女は手紙のやり取りを通じて、お互いへの愛情を深めていった。和歌や字がヘタで情緒がなければ、どんなに顔かたちが美しくても幻滅されてしまうのだ。
もちろん見た目が美しいに越したことはなく、平安時代の男性は「垣間見(かいまみ)」という覗き見をして、女性の見た目を確かめていた。でも遠くからの覗き見なので、見えるのはせいぜい着物のセンスの良さ・所作や髪の美しさ・横顔くらいだろう。つまり、センスや所作など、日頃積み重ねた内面の美しさが何より大事なのだ。
「ことば」に意識が向くようになった自粛期間
世の中の女性と同じように、私も自分の顔がもっとこうだったら、ああだったらとあれこれ毎日思い悩んでいた。美容ドリンクを飲んでみたり顔ヨガをやってみたり、新しい化粧品が出れば我先にと試してみたり……。とにかく顔にかけるエネルギーは計り知れない。
しかし、外出自粛の今、毎日顔を合わせるのは家族だけ。写真を撮るようなイベントもないし、本当に顔が必要ないのだ。
今まで顔にかけていたエネルギーは、自ずと自分の内面に向けられた。特に重要なのが「コミュニケーション」である。相手に会えない今、コミュニケーションのメインは「文字」になっている。表情が見えない分、相手を傷つけたり、勘違いさせてしまったりしないような文面を考えなければならない。また、ハッキリ言いづらいことは文章で”匂わせ”なければいけない。語彙力や当意即妙な返しといった「教養」も必要だ。
――あれっ、これって、平安時代の「文(ふみ/手紙のこと)」のやりとりと一緒じゃん。
小さな気遣いや教養が、文字に乗って相手に伝わる。私を判断するのは、今やスマホやパソコンで打った「ことば」だけになりつつある。
しかし、平安時代と違うこともひとつある。この自粛期間はいつか明けるという点だ。再び人と会える日が来た時「太ったね」「老けたね」「ていうか誰?」なんて言われないよう、一応顔の存在は忘れないでおきたい。
アイキャッチ画像:渡辺崋山”Otafuku Holding a Branch of Double White Cherry Blossoms”メトロポリタン美術館蔵
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