コロナウイルス禍は芸能界にも影響を及ぼしているようです。テレビドラマ制作が中断し、その代わりにと過去のヒット作を見る機会が多くなりました。そんな作品の1つ「JIN-仁-」は、外出自粛期間に放映されて大きな反響を呼びました。外科医の主人公がひょんなことから幕末時代にタイムスリップして、現代医療の知識を使って人々を救う姿が感動的でした。この主人公さながらに1人のイギリス人医師が、幕末の激動の中で人命救助に尽くしたことはあまり知られていません。きっと彼にとって幕末の世は、タイムスリップしたぐらいに驚きの連続だったのではないでしょうか。
幕末に日本へとやってきた英国人医師とは?
明治維新がはじまるという激動の時代、文久2(1862)年に、1人のイギリス人が長い船旅の末に日本に到着しました。彼の名はウィリアム・ウィリス。北アイルランド生まれの25歳の青年は、名門エジンバラ大学を卒業した後、ロンドンの病院で医局員として働いていました。それなのに、なぜ遠く離れた異国である日本へやって来たのでしょうか?
それは彼の身に起こった予期せぬ出来事が影響したのではと伝えられています。看護助手との間に男の子が誕生したのですが、結婚を望まなかったウィリスは若くして未婚の父となりました。養育費問題で頭を抱えるウィリスは、海外駐在の外交官の募集を知ります。500ポンド(現在の1000万円以上に相当)の大きな報酬を得るうえに、海外への派遣が冒険心をくすぐり外交官試験を受けて合格、江戸駐在イギリス公使館の補助官兼医官として日本へ旅立つことを決意したのです。生涯憎み続けた暴力的だったウィりスの父親の存在も、家庭生活からの逃避に拍車をかけたのかもしれません。
『ウイリアム・ウイリス伝』 山崎震一著 森田隆二協力 書籍工房早山
来日早々に事件に巻き込まれる!
ウィリスは、江戸高輪東禅寺の公使館に着任してわずか7日後、第2次東禅寺事件(注1)と呼ばれる襲撃事件に遭います。公使館の護衛に当たっていた大名の家臣が、公使館にいるウィリス達イギリス人の命を狙ったのです。暗殺者は、友人が第1次東善寺事件に加わって命を落としたことから、ちょうど1年後の同じ日に起こした計画的なものでした。幸いにウィリスは無事でしたが、「どうやら私達は、四方を敵に囲まれていると言えるでしょう」と率直な思いを兄への手紙で伝えています。立ち向かったイギリス人1人が死亡し、1人は重傷を負い、事件を起こした家臣は切腹という悲惨な結末でした。守られるはずの護衛の人間から命を狙われる恐怖感は、想像を絶するものだったことでしょう。
生涯の友だったアーネスト・サトウ
第2次東善寺事件から2か月後、薩摩藩士にイギリス人が被害を受けるトラブルが発生します。歴史的にも有名な、この生麦事件(注2)にウィリスが対応したことを、盟友アーネスト・サトウが克明に記録しています。「おそらく誰よりも一番先に駆けつけたのは、ドクトルウィリスであった。彼はイギリス人の血のにおいのする刀を持った連中にそって1マイルほど馬を走らせて生麦に向かった」。ウィリスは薩摩藩士に切られ、駆けつけた時には息絶えていたイギリス人の検死を行ったと記されています。
アーネスト・サトウは、通訳官として来日してウィリスと同僚となり、生涯の親友として付き合うようになりました。サトウは回想録で、「ウィリスは事務仕事もよくこなし、前任者が怠っていた書類の整理整頓もきっちり最新式に改めた非常に有能な人物で、心の広い人だった」と絶賛しています。アーネスト・サトウが残した膨大な日記は、萩原延壽(はぎはら・のぶとし)が『遠い崖』として新聞連載し、その後書籍化されました。この名前にピンとくる人も多いことでしょう。
大柄な大男のウィリスと小柄で痩せ型のサトウは、不器用で直情型のウィリスに対してクールで世渡りのうまいサトウという具合に性格も正反対でした。しかし、不思議と馬が合ったようで、異国の地で助け合いながら過ごしました。ウィリスにとっての最大の味方は、医学への道しるべとなった開業医の兄と、このサトウだったようです。
戊辰戦争で、自らの危険も顧みず多くの命を救う
30歳となった慶応3(1867)年、ウィリスは駐日大使の第一補佐官に任命されて大阪へ引っ越します。大政奉還による江戸幕府の終焉後に予定されていた兵庫開港・大阪開市に備える目的でした。翌年に開港・開市が予定通り行われ、その2日後には王政復古の大号令が表明されます。長州・薩摩など有力藩が取り仕切る天皇中心の新政府軍と、旧幕府軍がぶつかり合う戊辰戦争の始まりでした。
慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦い後ウィリスにとって、後の人生に大きく関わる出来事が起こります。ウィリスの評判を聞いた西郷隆盛らに頼まれて、京都の相国寺に設置された薩摩藩の病院で100名を超える負傷兵らを治療したのです。京都入りする前に日本人から「外国人に都を汚させるな」と受けた反発は、ウィリスとサトウが一度は引き返すことを考える程の激しさでした。命の危険を覚悟して赴いた2人は、開国後に朝廷の許可を受けて京都滞在を許された初の外国人になります。
当時の日本では外科術に熟練した医師がなく、重傷者は回復せずに亡くなるばかりでした。ウィリスは数人の日本人医師を助手として、石炭酸を使用した手術室の消毒、クロロフォルム麻酔(注3)を使った最新の技術で、四肢切断などの大きな手術から銃弾除去など簡単な手術までの外科的処置を行い、多くの負傷兵を治療回復させたといいます。このなかには首を貫通する銃創を負った西郷隆盛の弟の西郷従道(じゅうどう)もいました。治療の巧妙さに周囲は驚き、ウィリスはたちまち名声を博します。また実弟の命の恩人として、西郷隆盛から大きな信頼を得ることにも成功したのです。
戦闘はますます激しさを増し、ウィリスは戦争従軍医として派遣された先で、大勢の日本人の治療に携わります。救ったのは新政府軍の負傷者だけではなく、捕虜や流れ弾に当たって苦しむ百姓の老女までと、敵味方も身分の差もなく人道主義のポリシーに基づいたものでした。ウィリスの行動は、当時の日本にはなかった赤十字の考え方を広めたと言われています。
西洋医学の父となる夢を阻まれる
戊辰戦争での働きを認められたウィリスは明治天皇に謁見を賜り政府から感謝状、天皇からは感謝の品を与えられます。また、新政府の要請で外交官の身分を持ったまま、東京医学校兼病院(東京大学医学部前身)の院長に任命されることに。赴任直後の高揚する気持ちが、兄嫁への手紙に記されています。「私は2,300人の医師を相手に講義しましたが、もう2.3日したら教師としても板についてくるでしょう。日本政府は新しい病院を設立する計画のようです。そうなれば私は日本における”西洋医学の父”の1人となるかもしれませんね」。
しかし、ウィリスのこの望みは残念ながら叶うことはありませんでした。立ちふさがったのは、蘭方医達との軋轢でした。彼らは自分達が学んだ医学と同じ系統の、ドイツ医学を中心にする改革を進めたのです。明治政府は、ドイツ医学を医学教育に採用することに決定し、居場所を失ったウィリスは1人去ることになります。
西郷隆盛に導かれて鹿児島へ
失意のウィリスに手を差し伸べたのは、西郷隆盛でした。彼は弟を救ってもらった恩義を忘れていなかったのです。鹿児島につくられた西洋医学院、鹿児島医学校(現在の鹿児島大学医学部)の医学校長兼病院長として迎えられたのです。就任してからの生活は多忙を極めました。32歳のウィリスは5か月間で3,000人以上の患者を治療しながら、医学生達の教育にも力を入れました。
彼はイギリス独特の臨床実証医学を重んじ、ベッドサイドティーチングを頻繁に行ったと記録されています。「熟練した医師は病気に対して、いつ積極的に手を下すべきか、そしていつ自然の経過に委ねるべきか、この区別を知っている」。この患者主体の考えを、医学生達に伝えました。また治療だけでなく良質な食事、正常な空気と水、身体を清潔に保つこと、適当な運動と、当時はまだ注目されていなかった予防の重要性についても熱心に訴えました。
ウィリスのおかげで鹿児島は西日本での医学の中心地となり、他県からも生徒が集まってきて、その生徒数は600人にもなりました。ウィリスの門下生には、日本最初の医学博士であり、東京慈恵会医科大学の創始者でもある高木兼寛(たかき・かねひろ)がいます。彼は、かつて国民病だった脚気の原因が栄養欠乏だと突き止めた「ビタミンの父」としても知られている人物です。
続かなかった穏やかな家庭の幸せ
鹿児島でウィリスは家庭を持ちます。聡明で熱心なクリスチャンだった妻の八重との夫婦仲はとても良かったそうです。男の子も誕生し、異国で孤独な日々を過ごしていたウィリスに、やっと訪れた穏やかな幸せでした。
ウィリスは家族3人鹿児島での永住を望んでいたようですが、それは西郷隆盛を中心とした西南戦争によって打ち砕かれます。ウィリス達一家は急いで横浜まで避難する事態に。頼りにしていた西郷隆盛は、今や日本政府に刃向かう賊軍の大将の扱いに変わりました。その為、西郷と関係の深いウィリスの立場は、緊張を伴うものとなってしまったのです。
明治10(1877)年、40歳のウィリスは妻子を置いて1人イギリスへ帰ることとなります。その後、再び日本での仕事を模索しますが、実現しませんでした。日本への深い失望感がそうさせたのか、八重との縁はこの帰国がきっかけで全く途絶えてしまうのです。息子のアルバートはその後、イギリスに留学しますが、激動の時代のせいなのか、母八重の消息が掴めなくなります。幸せだった家族は、予期せぬ形でばらばらになってしまいました。
ウィリスはその後、アーネスト・サトウが総領事を務めていたタイ国バンコク駐在の英国総領事館付医官として着任。ここでも医療の発展に貢献しますが、病気のためにイギリスへ帰国して57歳の生涯を終えます。ウィリスが残した遺書には、八重とアルバートへ遺産を渡して欲しいと記されていました。後年、偶然が重なってアルバートと八重は日本で再会を果たします。ウィリスが亡くなって10年以上が経過していましたが、門下生達は声を掛け合い、2人を鹿児島へ招いて温かくもてなしました。苦難の生活を送っていた親子にとって、どれほどの喜びだったことでしょう。
受け継がれるウィリスのスピリット
歴史に翻弄されながらも、医師として人命を救うことに一生を捧げたウィリアム・ウィリス。教え子の高木兼寛が創設した東京慈恵会医科大学の建学の精神は、「病気を診ずして病人を診よ」。ウィリスの患者に寄り添う考え方が、今も指導に活かされています。平成30(2018)年に鹿児島大学医学部と東京慈恵会医科大学が、教育研究連携協定を締結しました。ウィリスと一番弟子だった高木との医療が結ぶ縁は、現代も生き続けています。
参考文献:「ウイリアム・ウイリス伝」 山崎震一著 書籍工房早山