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2020.11.07

県外から出かける価値あり。長野県民がこよなく愛する餃子のチェーン店「テンホウ」がくせになるっ!

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ボクには特に用もないのに、何度もフラっと出かけてしまうところが日本のあちこちにある。フラっと出かけるならば、あまり近すぎず、かといって遠すぎず日が暮れてから思いついてもたどり着くことができるところがいい。だから、ボクがよく出かけるのは長野県の伊那と諏訪。伊那との関わりは、少し前に地域の伝統である「ざざ虫漁」で記したとおり。なので、今回は諏訪の話である。

伝統だけではない生きた信仰の根付く土地

いったいいつから足繁く通っているのかと、メモ帳を見直したら2013年頃からだった。確か、ふと思いたって伊那から夕立に見舞われつつ杖突峠を越えて諏訪をめぐったのが最初のはず。そんな諏訪にちょっといってみようかと思ったのが2014年の大晦日である。この諏訪は多くの同人誌が描かれ熱いファンの多いゲーム「東方Project」の「聖地」としても知られている。そんな「聖地」の一角である岡谷市にある洩矢神社。そこは、普段は無人ながら絵馬掛けには同作品のキャラクターである諏訪子のイラストが描かれている絵馬がいくつもぶら下がっている神社。町おこしだとかで話題になっている熱い聖地ではない。ネットを見ても訪れた人の情報も今ほどはなかった。そんな神社に大晦日から日をまたいで元旦初詣の弐年参りをするファンはいるのだろうか。いるとしたら、熱いというより熱すぎるファンに違いない。

新年を迎える諏訪の里宮では地域の人が集まり花火も打ち上がる

どんな様子なのか見てみたい。加えて、信仰心も篤いボクとしては洩矢神社(もりやじんじゃ)の神札も頂きたくってたまらなかった。なにしろ、洩矢神社の祭神である洩矢神は諏訪のもっとも古い神。国譲りの時に天津神と争って出雲から逃れてきた諏訪大社の祭神・建御名方神と争った土着の古い神が洩矢神である。天竜川を挟んで対峙し争った二柱であるが結果、敗れた洩矢神は建御名方神に仕える神となり、その後裔は諏訪上社の神職である神長官を務める守矢家として現在も伝わっている(一方、建御名方神の後裔である上社の大祝が武士として知られる諏訪氏である)。天孫降臨や神武天皇の東征よりもさらに昔の出来事である。実のところ、技術や力を持つ新勢力がやってきたが、いかんせん人数が少ないのでいつまでも争うわけにもいかず、両者でうまいところで話をつけたんだろうという古代の人の知恵をひしひしと感じる歴史のロマンである。ともあれ、そんな古い神様であればさぞや御利益も頂けるに違いない……。そう思って訪ねたところが、洩矢神社に、そして広く諏訪に幾度も足を運ぶようになったのだ。

御柱祭りの魅力は里宮のほうにある

諏訪の魅力は、まず諏訪湖を中心とした盆地に広がる巨大な信仰の世界が生きていることである。諏訪信仰といえば、まず思い出させるのは御柱。迫力がありすぎて、最近はそれ自体をパワースポットと勘違いして柱に抱きついている人もたびたび見られるシロモノである(そんな伝承はどこにもない、念のため)。

まだ開始から1時間も経ってないのに、這々の体で御柱を曳いているボク

諏訪で御柱を新たに造営する御柱祭は7年に一度(慣例の言い方で正確には6年に一度)である。この行事、春におこなわれる上下の諏訪大社の行事だと思われている。でも、そうじゃない。諏訪ではそれぞれの地域の神社がすべて御柱を立てることになっているんだ。それも、路傍の祠のようなところはもちろん、なぜか別系統の信仰であるはずの熊野神社にまで御柱は立っている。むしろ、あちこちの地域で御柱を曳いて立てる秋口のほうが楽しい。勇壮さや迫力は諏訪大社がもっとも大きいだろうけど、神社からちょっと離れたところから御柱を曳いて50メートル間隔くらいで休憩所があって、御神酒を頂きながらちょっとずつ進むとか。4本すべてを人力では大変なので2本は盛大に立てたら、あとはショベルカーで、なんていう土着性はたまらない。それに、この行事は不思議がいっぱいである。

小さな祠でもちゃんと大切にされているのが諏訪である

ロマンが過剰な人は「縄文から続く行事」みたいに勘違いしているが、実際は平安時代くらいから。江戸時代なんて、それぞれの村が殿様から割り当てを決められて仕方なくやってた感すらある。興味深いのはなにかと吹かれるラッパである。これは、どうも昭和の頃に兵隊から帰ってきた人が戯れに吹いたのが面白がられて定着したらしい。そう、単に伝統とか神秘とかロマンで凝り固まっているのではなく、いつも進化していることに祭りの面白さはあるのだ。そんな気になる要素を持ちながらも、観光地化されていない神社がわんさかあるのが諏訪のなによりの魅力である。

諏訪の楽しさと共に思い出す味・テンホウの魅力

フラッと訪れる諏訪。そこでは当然お腹もすくものだ。そんな時にいつも訪れたくなる店がある。それがテンホウこと「みんなのテンホウ」である。
諏訪を中心に長野県ならあちこちに。でも、長野県しかないチェーンがテンホウ。この店をなんと説明すればいいのか。餃子の美味しい店。中華レストラン。一人で手早く食べることができる定食屋。豊富なメニューでデザートも美味しい家族連れに便利なファミレス。餃子が美味しいから「中華のチェーンだよ」というのは簡単だけれども、それで納まらないのがテンホウである。
こう書くと「ほほう、美味しい店かな」と思うだろうか。いや、美味しいのだ。でも、その美味しさはいわゆるグルメな人が「こ、これは……」と唸る美味しさじゃないんだ。
ボクも最初に食べたのはいつだったか忘れたが、その時の印象は「まあ、フツーに美味しいね」という程度だった。でも、その自己主張の少なさがクセになる。東京に住んでいると、ふと無性に食べたくなるときがある。決して「ああ、あの美味しかったアレをもう一度」という感情が湧いてくるわけじゃない。浮かび上がるのは、お腹を満たしたあとのホッとする感覚。そのホッとする感覚すらも、訪れるたびに違った形で攻め込んでくる。いつもラーメンや餃子ばっかりじゃねと、ソースカツ丼を注文すれば、これまたラーメンの時とは違う安心感が来る。時々、加わる期間限定やコラボをうたったメニューも、また別格。時にはガツンと美味しくて驚くこともあるが「なんでこうなっちゃたの」みたいな驚きがくることも。そうなんだ、気がつけば客に家の近所にある顔見知りがやっている食堂に来てる気分になってるんだ。
なんなんだ、このチェーン。

わざわざ東京から出かける価値のあった「テンホウに見る諏訪力」

やたらと興味を感じるようになっていた2018年の夏、諏訪の知人から催しの案内をもらった。それは、こんなタイトルのもの。

公開講座「諏訪力講座」
「テンホウに見る諏訪力」

地元有志によって開催されている、講師を招いて諏訪の文化や歴史を語ってもらうという講座。その講座にテンホウ・フーズ代表取締役社長の大石壮太郎さんがやってきて、テンホウの歴史を語ってくれるというのである。こんな面白そうな講座を逃す手はないと、さっそくボクは諏訪へと向かったのだ。
当日、まずは会場にいく前に腹ごしらえと上諏訪駅まで迎えに来てくれた友人のサカマさんとテンホウ城南店へ。日曜日とはいえ、まだ昼前なのに既に駐車場は満車。ここに早くもテンホウの力を感じたのである。

最近リニューアルされた城南店。三世代で来ると割引券が貰えるというサービスもあるのが特徴

せっかくだからと、肉揚げラーメンに餃子、ライスとやりすぎな注文をしてしまい後悔しながらやってきた会場の諏訪青陵高校。ここでまた、テンホウの魅力がひとつ。まだ開会前なのに既にスタンバイしている大石さん。椅子に座って待っていればいいのに、ずっと立っているのだ。長野県では30店舗を超えるチェーンの代表かつ講師なのに、この真っ直ぐな感じがテンホウの安心感とどこかリンクしているように感じられた。
 
そして語られるテンホウの歴史も、もっと世間に広く語られるべきものだった。テンホウの源流は1956年に上諏訪の旅館の一角にできた「天宝鶴の湯 餃子菜館」であった。
戦前、諏訪に移り住んだ大石さんの祖父母は上諏訪の温泉街で「天宝 鶴の湯」という名前の旅館を営んでいた。いま、上諏訪の温泉街は諏訪湖畔が中心になっているが、当時はもっと内陸部にあった。ところが、戦後になると次第に湖畔が開発されたことで内陸部の温泉旅館には陰りがみえるようになっていた。
そんな頃、大石さんの祖母である百代(ももよ)おばあちゃんが、たまたま東京に出かけたのが、テンホウの始まりである。東京にでかけた百代おばあちゃんは、偶然入った歌舞伎町の餃子会館という店で餃子を食べて閃いたのだ。この餃子会館は歌舞伎町の区役所通り、今はバッティングセンターになっているあたりにあったといわれる店。現在でも、餃子発祥の店ともいわれる幻の名店である。なので、そうとう驚きのある味だったのだろう。ここで、百代おばあちゃんは閃きをすぐに行動に移した。その場で「作り方を教えてほしい」と店の人に頼んだのだ。もちろん、教えて貰えるはずなどない。ならばと百代おばあちゃんは無給で3ヶ月あまり働き、ついに作り方を伝授して貰えたのだという。この時、百代おばあちゃんは既に50歳を越えていたというから並々ならぬ情熱である。

まだ2店舗しかないのにセントラルキッチンを導入

こうして、旅館の一角で焼いていた餃子は評判となり店舗となって発展していく。さらにチェーンが拡大したのは、大石さんの父である孝三郎さんが後を継いだ1973年のこと。株式会社化したテンホウは、セントラルキッチンの建設を始めたのである。大量の食品を集中的に調理して各店舗へと運ぶセントラルキッチンは外食チェーンには欠かせない心臓部である。多くのチェーンは、セントラルキッチンによって効率的な店舗運営をおこなっている。

ここであの美味しい餃子がつくられているのか

なんとも先見の明があったのか!
ところが、セントラルキッチンができた時のテンホウの店舗数は2店舗。効率化ではなく、ともすればオーバースペックである。でも、この気の早いセントラルキッチンの導入がテンホウを拡大させた理由である。当時、ファミリーレストランはまだ新しい業態であった。その先駆けである、すかいらーくの一号店がオープンしたのは1970年。まだ、外食産業でセントラルキッチンを導入して多店舗展開する仕組み自体、誰も認知していなかった。しかし、まだ海のものとも山のものともつかなかった、この業態が成長したのは、その後の歴史の通りである。

こうして優れた先見の明で成長したテンホウ。でも、多くの外食チェーンが100、200と店舗数を増やして全国へと展開していったのに対して、テンホウはそうはしなかった。もちろん最初から保守的に「うちは長野県だけ」という確固たる信念があったわけではない。「このシステムであれば1000店舗はいける」といわれて、心が動いた時代もある。
長野県外に進出したり、ラーメンチェーンのフランチャイズに参加したりと、歩みを止めたことはない。
でも、結局全国へと店舗を展開することはせずに、踏みとどまることにした。その理由を大石さんは「どうしても手薄になる部分ができてしまうから」だという。

愛される秘訣は美味しくしすぎないこと

テンホウの各店舗には共通した特徴がある。どの店舗もオープンキッチンになっていることである。これは、お客さんのことを考えた工夫である。お店の人が調理している姿が見えることで、今か今かと楽しみながら自分の料理が運ばれてくるのを待つことができるのだ。

店舗の形はひとつの事例にすぎない。
もしも、店舗数が増えれば店員の数も増える。そうなれば、マニュアルを作成して一定水準のサービスを維持することが求められる。どこの店舗でも同程度のサービスを受けられることは心地いいかもしれないが、それ以上にはならない。テンホウは、そうなることをよしとしなかった。「今日はご飯をつくるのが面倒だから、テンホウに行こう」という感じで親しみを持って、気軽に家族や友人同士、あるいは一人でも通ってくれる店舗運営を目指したのである。
こうして、地元民に愛される店となったテンホウ。愛される秘訣のひとつとして大石さんは「あまり美味しくしすぎない」こともあるという。もしも、一口食べて感動するような味にしてしまうと、それですっかり満足してしまい、足繁く通ってくれるようにはならない。それよりも、毎日でも通ってくれるような味がテンホウの目指すところ。ボクが感じた後からジワジワと来る親しみのあるクセになる味は、そこから来ていたのだ。

『マツコの知らない世界』でも取り上げられて話題の野沢菜漬け餃子。3人前は入るね

決して、極上の美食ではないが、安心できる家庭の食卓の延長。それでいて、保守的になるのではなく工夫を凝らしたメニューが登場するのもテンホウの特徴だ。最近も地元の名産を用いた野沢菜漬け餃子(地元の老舗・松尾商店とのコラボ)はメディアにもたびたび登場する新たな名物となっている。
なるほど、「みんなのテンホウ」という店名は伊達ではない。

そんな諏訪もテンホウも今年は遠い。コロナ禍がフラっと旅することを困難にしている。ボクの年中行事に加わっていた、毎年十月の洩矢神社例大祭。これも、今年は遠くから遙拝するしかなくなった。
くせになる諏訪。思い出すテンホウ。再び訪れることができるのはいつの日か!

二つの建物がある城南店は、現存最古の店舗(もとは2号店)。デザートは餃子の皮を使ったアップルパイがおすすめ

▼おすすめアイテム コンクールF

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。