全国各地に郷土料理があるように、昔から受け継がれてきた各地の銘菓もいろいろあります。小さい頃から、家族で、地域で親しんできた和菓子には、味だけでなく、いろいろな思い出も詰まっています。
そんなことを感じたのが、知多半島に伝わる「生せんべい」。今までその存在を知らなかかった私ですが、SNSでつぶやいたら、あっという間に「生せんべい」推しの友人たちから、「子どもと一緒にいつも食べていた~」「大好きです!」「子どもの頃からのおやつです」といったコメントが寄せられました。法事などの家族の行事や、日々のおやつ、さらには学校給食にも登場するという人気の和菓子なのだとか。地元の人々の生活に欠かせないほど、熱狂的支持を集めている和菓子がどんなものなのか、興味をひかれた私は、一路、愛知県の半田市へと取材に向かったのです。
添加物なしのシンプルで自然なおいしさ
生せんべいは、その名の通り、焼いていないせんべい。やわらかくもちもちした弾力と噛み応えがクセになるおいしさです。味も4種類で、黒糖、白、抹茶、柚子と素材の味を生かしたシンプルなもの。それが老若男女に愛されてきた理由でもあります。ういろうや八つ橋のルーツとも伝えられるほど長い歴史があり、さらに、この銘菓の由来には、あの有名な戦国武将が関わっていたのです! その話は後半にするとして、まずは、今や半田市で1軒となってしまった総本家田中屋に、生せんべいとは何ぞや? を伺ってきました。
昭和5(1930)年に創業した総本家田中屋は、現在、三代目となる田中純一さんが社長を務めています。店に一歩入るや、一面、四角いパッケージに入った生せんべいがずらり、まさに生せんべい一筋のお店。味もパッケージも創業当時そのままだそう。
「祖父が始めた頃は、この地域にも十数軒の生せんべい屋があったし、そもそも農家の副業として始まったものだと聞いています」と田中さん。
地元の材料を使い、家庭で作られていた和菓子。おはぎや大福のように身近なもので、原材料も国産の純うるち米に、黒糖、上白糖、はちみつをベースに甘味を加え、練って、蒸したもの。食品添加物や保存料は一切使用しておらず、素朴なおいしさにこだわっているそうです。
伝えられた製法を受け継ぎ、最後は人の手で仕上げる
「私にとっては、和菓子というより、駄菓子。日常的に食べるおやつという感覚です。素朴な味だからこそ、良い原材料をそろえるのはもちろん、すべて自社工場で作っています。玄米を精米、それを製粉し、水を加え、蒸したり、練ったり、薄く伸ばしたり、機械と手作業で、細かな工程がいくつもあるんですよ。弾力のあるおいしさは手作業ならではの部分もあると思います」と田中さん。
生せんべいの特徴である弾力は、伸ばした餅を人の手により、3枚に重ねることで空気が入り、うま味がますのだそうです。この3枚重ねという形状も、生せんべいの魅力の一つ。私のSNSにコメントを寄せてくれた人は、薄く剥がした1枚に他の色を合わせて巻いたり、ダンゴを作ったり、とオリジナルな食べ方を楽しんでいました。
日常生活に溶け込んでいる和菓子だから、気軽に食べられるようにと田中屋本店では、工場で出た切り落としの端を集めて、お値打ちな徳用袋も販売しています。形や見た目より、味にこだわる生せんべいならではのお得な商品といえそう。
「長く愛されてきた和菓子ですが、作り方はいたってシンプル。だからこそ、ちょっとしたことで、味の違いも出てしまいます。晴れだったり、雨だったり、温度や湿度の違いでも、餅の固さは変わってしまいます。冬と夏でも違うし、風がある日とない日でも違いますから、蒸す時間や水分量も微妙に変えています。そこは長年の勘というか、経験でやっていますが、一番苦労する点です。お客様もよく知っていて、『今回のは黒糖の色が薄いね』などと言われたり、日頃からよく食べているので、ちょっとした味の変化にも気づかれるんです」と田中さん。
我が家のおやつと言ってもらえる生せんべいだからこそ、その味へのこだわりは、人一倍。私も初めて食べて、その摩訶不思議な美味しさに心をわしづかみにされたのです。
生せんべいの生みの親はあの徳川家康だった?
そしてもう一つ、心をわしづかみにされたのが、生せんべいの由来。なんと戦国時代、徳川家康によって誕生したと言い伝えられているのです。
尾張の織田軍と駿河の今川軍が戦った有名な永禄3(1560)年「桶狭間の戦い」。今川軍に加勢していた徳川家康(当時、松平元康)でしたが、織田信長に今川義元が討たれると、母である於大のいる坂部城(知多郡阿久比町)へと逃れてきます。さらに、於大の妹が嫁いだ岩滑(やなべ)城(今の半田市)へと南下した家康が、逃げる最中に農家の軒先に見つけたのが、干してあった焼く前のせんべいだったとか。農家の娘が生であることを伝えると、「そのままで良い」と家康はそれを食べ、あまりのおいしさに、滞在した岩滑城に献上させたというのです。
あくまで言い伝えとしたうえで、「家康といえば三河、岡崎市出身といわれますが、ここ半田市にもゆかりが深い人物でもあるのです」と田中さん。半田市には、家康が立ち寄った寺があると聞き、その真相を求めて、常楽寺へと向かってみました。
和菓子から徳川家ゆかりの寺と、壮大な歴史ロマンが広がる
知多半田駅の次の駅、青山で下車し、少し歩くと広大な敷地にどっしりと構えた山門と木造本堂を構える西山浄土宗 常楽寺があります。
ここには家康が3度訪れ、さらに徳川家の末代まで深く関わったことを証明する遺品があるのだとか。常楽寺の榊原是宏(さかきばらぜこう)住職によれば、
「家康がこの寺を訪れたのは、桶狭間の戦いと、天正10(1582)年の本能寺の変の後の伊賀越えで四日市から船で知多半島に渡った時です。そして3度目は、天正17(1589)年に、秀吉への挨拶に三河から常楽寺に立ち寄り、知多半島経由で京に上がったと伝えられているのです」。
常楽寺には、桶狭間の戦いの時に使用したと伝えられる質素な馬の鐙(あぶみ)や鞍(くら)が残されているのですが、これらは家康公が置いていったものだと伝えられているそうです。義元が信長に討たれ、追手が迫っていたため、於大のいる知多半島経由で岡崎城に帰ろうと知多に逃れてきました。当時の常楽寺住職は、於大の妹の息子の典空顕朗(てんくうけんろう)が、第八世住職を務めていました。また住職の兄も大野の東龍寺の住職で、その方が大高城から逃げ込んできた家康たちを連れて、常楽寺に入ったと伝えられています。
「19歳での初陣で負け戦となった家康にとって、自分の命を助けてくれた場所というのも大きかったのではないでしょうか。その証として、馬の鐙や鞍を置いていかれたのだと思います」と榊原住職。
その後、家康の100回忌に住職が参列したことや、16代と呼ばれた徳川家達(いえさと)※1の書が寄贈されていることなどからも、常楽寺と徳川家には深い関わりがあったと伝えられているのだそうです。寺院の屋根瓦には三つ葉葵の御紋が使われ、家康の位牌の他、尾張藩歴代藩主の位牌も納められているのだとか。
家康に献上した生せんべいが深く愛される理由
生せんべいの言い伝えも、何度か家康が訪れていた地だからこそ、その由来も長く受け継がれてきたように思います。若き日の家康がいろいろな人に助けられたその思いが、地元の銘菓に繋がっていることに、壮大なロマンも感じます。
実は、生せんべい伝説には、続きがあるのです。ボロボロの佇まいの家康に生せんべいを渡した農家の娘は、翌日城へ献上しに行くと、そこには堂々とした、若くて凛々しい家康がいました。その姿に恋心をいだきますが、身分の違いから、所詮叶わぬ恋と悲観し、家康が三河へと帰った後、姿を消してしまったそうです。村人がそれを知り、探していると、昇った朝日に雲母がキラキラと輝いていたそう。そのキラキラ光る様子を雲母(うんも)※2にたとえ、薄く伸ばした餅を1枚1枚と重ね合わせたのだとも伝えられているのだとか。
家康の粘り強さがこの餅の一番の持ち味?
生せんべいにまつわる伝説はいろいろありますが、天下を取った家康がゆかりと聞くと、さらに味わいも深まります。幼少の頃から人質に取られ、妻である瀬名や嫡男の松平信康を自害させるなど、数々の苦難を強いられながら、天下を取った家康。彼の粘り強さと、この餅の弾力さが繋がる?とは言い過ぎかもしれませんが、500年以上も前に生まれた伝説が今も伝えられ、一つの銘菓に宿る。これも日本文化の面白さだな~と生せんべいを味わいながら、しみじみと感じました。ぜひ、愛知に来たら、この生せんべいを味わってみてください。
総本家田中屋
住所:〒475-0866 愛知県半田市清水北町1番地
電話:0569-21-1594
営業時間:8時30分~17時
公式ホームページ
西山浄土宗 天龍山 常楽寺
住所:愛知県半田市東郷町2丁目41番地
電話:0569-21-0268
公式ホームページ