葛飾北斎(かつしかほくさい)が初めて小布施(おぶせ)を訪問したのは83歳のころで、小布施の豪農商・高井鴻山(たかいこうざん)は当時37歳。ふたりの年齢は祖父と孫ほど離れていたのですが、互いを認め合い、やがて「旦那さん」、「先生」と呼び合うような親密な信頼関係を築いていったことが伝わっています。今回は、そんなふたりの様子を今に伝えてくれる、「北斎館」から目と鼻の先にある「高井鴻山記念館」をご紹介します。
高井鴻山の存在があったからこそ、北斎は小布施へ
「高井鴻山記念館」に掲げられている北斎の自画像。
北斎が訪れた当時の建物である離れは、鴻山が北斎のアトリエとして建てたと考えられていたのですが、絵を描くために設けられたにしては狭すぎる上、建築の年代が合わないなど不自然な点が多々あるため、今も研究が進められている最中だとのこと。
しかし、ここに逗留(とうりゅう)していた北斎は日課として毎朝、獅子の絵を描いており、描き終わるまでは来客があろうと決して応じなかったというエピソードや、鴻山の祖父が建てた「翛然楼(ゆうぜんろう)」の縁側で、いつも鴻山と北斎が腰かけて話していたことは確かで、北斎の小布施での様子も徐々に明らかになってきています。
この「翛然楼」の縁側で、北斎と鴻山は親しく語り合っていた。
「翛然楼」は、信州にありながら京間(きょうま)風の造りになっていることが特徴で、2階に上がると、障子の外に雁田山を望む風景が広がり、まるで京都の町屋から東山を見渡すかのような風情。そこに鴻山の粋な一面を垣間(かいま)見ることができます。
北斎の足跡を想像するのにふさわしい「高井鴻山記念館」の庭。
鴻山は、京都や江戸に遊学し、儒学などの思想や、書、浮世絵などの絵画も修養。そのため、豪農商であることよりもむしろ文化人や趣味人としてその名を知られ、幕末から明治維新にかけて数多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)や志士が来訪した記録が残っています。
その中には北斎を筆頭に、思想家で松代(まつしろ)藩士の佐久間象山(さくましょうざん)、書画家で志士の藤本鉄石(ふじもとてっせき)などがいて、彼らをもてなした「翛然楼」は、さながら文化サロン的な役割を果たしていたようです。
「翛然楼」2階は鴻山が文人墨客をもてなしたサロン。当時の空気を感じることができる。
北斎と鴻山の固い絆の証がそこかしこに
高井鴻山の功績を紹介する記念館を見学すると、書画が数多く展示され、鴻山が得意としていた妖怪画も見られます。
鴻山は実は北斎の門下生でもあって、師弟の合作のほか、北斎の手本を模写したものもあり、中には作者未詳ながら北斎や応為(おうい)の手によるものではないかと思われる作品まであって、そこかしこに北斎の名残が色濃く感じられます。
このような鴻山との文化的なつながりがあったからこそ、北斎は浮世絵師として生きにくくなっていた江戸を離れ、遠路はるばる長旅をすることもいとわず、小布施を目ざしたのでしょう。
「高井鴻山記念館」に展示されていた、北斎の下絵を元にして鴻山が描いた「象と唐人図」。
そして、小布施でようやく自由に作画に取り組む環境を得た北斎は、鴻山の資金的な援助もあって、思うままに筆を進めた……。その結果が、老齢には至難の業(わざ)である巨大な天井画や祭屋台の緻密な天井絵として残っているのだと思われます。
北斎が最後に得た自由な空気と、創作に対する意欲が残っているかのような小布施――。天才絵師・北斎の名残は今もなお、そこかしこに感じられます。
離れの「伝 碧漪軒(へきいけん)」は近年の研究で「翛然楼」の一部であったことがわかってきている。
◆高井鴻山記念館
北斎を小布施へ招いた豪農商・高井鴻山の屋敷を残し、展示室を併設した「高井鴻山記念館」は、北斎と小布施の関係を知るためには欠かせないポイント。北斎に師事し、稀代の天才を大切にもてなした鴻山は、一方で小布施の振興に深くかかわり、多才な人々と交わっていたことがよくわかります。
住所 長野県上高井郡小布施町小布施805-1
公式サイト
「高井鴻山記念館」の展示室。
写真/篠原宏明
あわせて読みたい
・秋の小布施で、北斎の面影と季節の味を堪能!
・90歳まで筆を握り続けた葛飾北斎。謎だらけの人生を追う
・富嶽三十六景だけじゃない! 葛飾北斎が描き続けた富士山
・冨嶽三十六景から始まった「北斎ブルー」の秘密
・北斎肉筆画の傑作、「八方睨み鳳凰図」