図書館でしか見かけない、あの特徴的な台車。三段の平らな面と車輪のついた、あれ。商品名だとブックトラックというらしい。
それに積まれて運ばれてきた茶色い表紙のスクラップブック。おそらくは長いこと誰も開いたことのないページを慎重に繰りながら、まだ誰も知らない発見があることを願った。
誰もわからない岡長平
「おっしゃる通り、本人は自分の事は残していないようです」
そう記されたメールに、手詰まりを感じた。今年の三月にここに書いた、岡山の郷土史家・岡長平のこと。
その著書に偶然出会って以来、折に触れては、全国でも類を見ない街の綺譚や人物を記録し続けた、この人物のことを書いてきた。
けれども、岡長平がどういう人物なのかはまったくわからなかった。実は岡長平が生前刊行した本には、まだ新刊で入手できるものがある。岡山の出版社・日本文教出版のシリーズ書籍「岡山文庫」に収録されたものが、それである。このシリーズで刊行された『岡山話の散歩』や『岡山味の風土記』は、まだ在庫があるようで新刊で買うことができる。
岡山県を軸として、人物や風土のあまねくテーマを扱う岡山文庫。本当は全巻を自宅の本棚に収めたいところだが、そうもいかない。なにしろ現在も刊行は続いていて318巻に達しているのだ。さすがに無理があるのか最近は「岡山の○○」というタイトルは減っておる。品切れにならない限りは在庫としているのだろうが、中には欲しいけれども品切れとなっているものもある。今年の春頃、その中の一冊である『岡山の奇人変人』がどうしても手元に欲しくて問い合わせた。すると「一冊だけあるのですが、美本ではないので割引き価格でいいです」という。
なんという幸運。
ツイてるついでに、もうひとつ訊ねた。まだ会社には誰か岡長平のことを知っている人物がいるのではないか。
そっちはうまくいかなかった。
そうだろう。岡長平が亡くなったのが1970(昭和40)年。その年に生まれた人ももう半世紀を生きている。もはや、会って話をした人に出会うことは叶うまい。
蔵書が寄贈された図書館を発見
でも、このことがあって再び、岡長平の片鱗でも掴めないかと思った。ちょうど、以前より参加しているマイクロマガジン社のシリーズ書籍の一冊『これでいいのか岡山県』の続編を書く依頼を受けていて、しばし岡山に滞在する予定になっていたからだ。
そうなると、まずあたるのは図書館。
岡長平の資料に出会った岡山県立図書館にレファレンス依頼を出して見るも、これまで見たことのある以上の資料はないというのだ。それでも「おっしゃるとおり」なんて書いてくる担当者である。なにか、本人の人となりを知る手がかりでも持っているのではなかろうか。そう思って直接電話をしてみた。
ちょうど図書館の裏、岡山城のお堀のところにある岡長平の記念碑のことなどを話していると、電話の向こうの担当者は、ふと思い出したように言い出した。
「そう、岡山市立中央図書館に蔵書が寄贈されたと聞いたことがあります」
ちょっと驚いた。今、岡山市内では県庁の向かいにある岡山県立図書館が市内のメインの図書館として市民に利用されている。その利用者の多さたるや貸出率は全国トップクラスといわれている。でも、これはボクが岡山を離れて上京してからのこと。
メモ等も多数含まれている……だって?
1999年に丸之内中学校跡地に開館するまで、岡山県立図書館に規模は小さかった。天神山の岡山県立美術館(もともとは岡山県庁があり、その後長らく岡山県警東署があった)の裏手の岡山県立文化センターの一部にあって蔵書の数も少なかった。
市民が利用するのは岡山市立図書館のほう。もとは市内中心部の幸町にあったのが中央図書館。その後、中央図書館は郊外の二日市に新築移転して、元の中央図書館は幸町図書館になった。今の建物になる前の、うっそうと木が茂った中に立っていたリノリウムの床で灰色の壁だった図書館を覚えている者ももう少ないだろう。
ともあれ、今では規模の大きさで勝るのは県立図書館のほう。だから、市立図書館のほうはまったく頭になかった。
さっそくメールで問い合わせると、すぐに返事が来た。
岡山市立図書館では、郷土史家の岡長平氏が所蔵されていた資料を昭和46年に寄贈を受け、「岡長平文庫」としておりました。
メールは簡潔に、これまで知らなかった事実を教えてくれた。当初、岡山市立図書館では寄贈を受けた蔵書を取りまとめて保存していたようだ。ただ、現在では分類の方法がかわって「岡長平文庫」としてではなく、郷土資料の中に所蔵されているという。そうなった経緯はわからない。
メールには、こうも記されていた。
一般に流通している書籍のほかに、岡長平氏の写真帖(アルバム)や岡長平氏の新聞連載の切り抜き集等も含まれており、後者にはご本人のものと思われるメモ等も多数含まれています。
すぐにでも出かけねばならないと思ったが時流がそれを許さなかった。このメールを貰ったのは3月28日。世の中は緊急事態宣言に向けてカウントダウンを始めていた。そして、まったく笑えない話だが4月初めには岡山市立図書館からも新型コロナウイルスの感染があり、しばらく休館となった。肝心の依頼を受けている原稿も、これではしばらく取材にならないだろうと先送りになった。
だいたい岡山のバスはややこしい
早く、その資料をこの目で見てみたいと悶々としながら二ヶ月が過ぎた。
ようやく岡山市立中央図書館にたどり着いた時には6月になっていた。岡山駅から市立図書館のある二十日市町までは、市内の交通に慣れていないと少し不便である。今では多少は改善されたものの、幾つものバス会社が競合する岡山駅前のバスロータリーの行き先表示はややこしい。岡山人でも乗り慣れない路線は「本当に、これで着くんじゃろうか」という具合である。
ならば市電で終点の清輝橋から歩けばよいかとも思ったが、少し離れているのでやめた。いずれにしても、東西南北の方角が合っていれば「このあたりじゃ」というところで、降車ボタンを押せばよかろう。そう思って、やってきた岡電バスに乗った。岡山の定番通り、駅前から出発したバスは天満屋バスターミナルを経由して南へと向かう。大雲寺交差点から清輝橋交差点を過ぎると車窓の風景は次第に郊外の趣きになってくる。とはいえ、今や政令指定都市になった大都会岡山。記憶の中にあるような、うらぶれたロードサイドの雰囲気はない。
目当ての停留所の前で降車ボタンを押して、降りたのは自分だけ。かつて来た時の記憶を頼りに図書館へ向かう。あの頃の記憶は正しい。5分も歩かないうちに図書館の建物が見えて来た。
階段で図書館の2階にあがって、検索用のパソコンで請求番号を確認してカウンターへ。閲覧席に座って書庫から資料が出てくるのを待っていると、カウンターの中にいた男性が声をかけてきた。先日、メールで資料の所在を教えてくれた図書館のSさんだった。
事前に連絡もせずにやってきて、書庫から多くの資料を出してくれと、かなり面倒なことをしているボクに、とても丁寧な挨拶をしてくれた。
ようやく書庫から出てきた資料を前に、どれからページをめくろうかと考えていると「こんなのも所蔵されているんです」と、追加で資料を教えてくれるのだ。
とても一回や、一日ではすべてを念入りに見ることなどできない。それでも、まずなにがあるかを知ろう……。
偲ぶ座談会が開かれる人物
まずページをめくった『岡長平関係資料』。もう宝の山だと確信した。雑多な資料を閉じたファイルの最初には1969(昭和44)年10月1日に岡山市民会館で行われた市制80年、岡山市・西大寺市合併記念式典の招待状が閉じられていた。岡長平様と自宅と思しき住所が記された封筒と共に。
このファイルだけで、それまでぼんやりとも見えなかった、岡長平の人となりとが霧が晴れるかのようにはっきりとしてきた。
『岡山県大百科事典』(山陽新聞社 1980年)は、岡山の事物を網羅した、岡山を知りたいなら必ずページをめくる事典である。そこでも、岡長平の記述は貧しい。資料を見ても1890年に生まれ1970年に死んだこと。大正時代に慶應義塾の理財科を卒業したあと新聞記者を経て、岡電の重役なんかも務めて戦後は、市議会議員や岡山県文化財専門委員などをやったことが分かる程度である。
せいぜい、慶應義塾にいけるくらいには裕福な生まれだったこととか、地元の名士だったことくらいを想像するしかない。ところが、このファイルには、その人となりを細かく語る資料が二つ。ひとつは1977(昭和45)年12月発行のガリ版刷りの岡山市立図書館の『図書館だより 岡長平先生追悼号』。そして1977(昭和47)年12月発行の『季刊 岡山文庫』。前述の岡山文庫とは別に発行されていた小冊子。こちらには、岡長平を偲ぶ座談会が妙録されている。
芸者を集めて葬式ごっこ
いま、図書館の開架に並べてられていたり古書店で入手できる本を通じて知る岡長平というのは、上手に蘊蓄を語ってくれる博覧強記。岡山の寿司の作り方から、歴史。奇人変人も、岡山初の○○も、とにかく知らないことはない具合。ああ、岡山城が焼けた岡山空襲の事も町丁別に被害とか逃げた先とかを克明に記録している。
でも、こうした資料からわかるのは、まったく別の岡長平の顔。旧制岡山第一中学では、小説家になった内田百閒と同級生だったこと。その百閒との縁は長かったようだ。
岡長平は若い時分に、酒と女遊びの挙げ句今治で干拓事業なんかに手を出して財産を潰したことがあったらしい。それを反省して「一生バタ屋をやる」といったためか、百閒に貰った額には「バタやさんへ」なんて書かれておる。
これは別のスクラップブックにあったのだが、岡長平の語る若い頃の芸者遊びは「粋な遊び」なんてありきたりの言葉では表現しきれない。なにしろ「葬式ごっこ」なんてことをして楽しんだと語っているのだ。
なにかといえば、葬式でもないのに喪服を着て葬式の行列のように町を練り歩くのだ。最後は料亭にいって宴会というわけだが、途中にある商家なんかも、面白がって酒を振る舞い始めたという。これまた別の写真帳には、晩年の岡長平が後楽園の流店(りゅうてん。建物の中にしつらえた水路を流れる水を楽しむ休憩所)で、綺麗どころを隣に座らせて宴会を楽しんでいるものがある。かりにも文化財である。今では万金を積んでも宴会に貸してはもらえまい。その遊びといい博覧強記ぶりといい、とにかく現代からは想像のつかないスケール感がある。
岡山市の図書館を救った人物
岡長平が尊敬されたのは、そんな奇矯さと蘊蓄だけが理由ではない。そのことを記すのは『図書館だより 岡長平先生追悼号』。岡長平が戦後、市会議員を務めたことは僅かな知識でわかっていた。でも、きっと地元の名士ということで名誉職で受けていたのだと思っていた。
それは大きな誤りだった。岡長平は、戦後1955年から市会議員をやっている。その時、取り組んだ大きな課題が市立図書館の建設だった。
幸町にやってくる前の市立図書館は丸の内の山陽放送の本社のところにあった。この図書館を、新しくする時に充実した施設を主張したのが岡長平だった。
前述の図書館便りには、こう記されている。
岡山市の計画にしても不十分なため、戦後道幅をもっともっと広くしておけばよかったものを今にして思えば研究不足「今度新建築の図書館をどうして人口50万都市にふさわしい建物にしなくては、この道路と同じ運命になる」と一日も早くとせきたて委員達を励ましたりなだめたりされた。
同じく前述の『季刊岡山文庫』で、市立図書館の館長もやった吉岡三平は、こう語っておる。
岡さんは図書館の移転問題ではまず深柢小学校の所、次に公会堂のあったところはどうかといわれていた。金がないのなら俺が考えると、富くじを売って建築費を出そうと運動してくれたのだが、駄目だった。翼賛議員時代に図書館が廃止されそうになったが、図書館の重要性を強調してくれて廃止はまぬがれた。よし、わしが図書館をバカにするやつはやったるといわれていた。図書館がなくて市の文化といえるのかと、何もないのに開館せよといわれた。
市で図書館をつくらねばならぬ。それも立派なものを。後半生の何割かの情熱を図書館に注いだ岡長平の資料を、いま市立中央図書館が保存しているのは必然だった。
とにかく、唯一無二の資料は遊びにも研究にもひたむきだった岡長平の人物像を浮かび上がらせてくれた。とりわけ、岡長平が自らまとめた7冊のスクラップブックがそうだった。新聞や雑誌に掲載された自分の書いた文章や目に付いた記事を丁寧に貼り付けたスクラップブック。そこに手書きで新たに調べた註釈が挟まる。それも、裏紙を使ったものもあれば、他人の名刺の裏に書いたものまで。
挙げ句には、自分の次男の葬式の会葬御礼ハガキまでメモ用紙に使っている。ハガキの日付けは戦時中。いったい、どうして息子に先立たれたのかはわからない。
そんなハガキにまで調べてわかったことを書き込みながら(草書体のため容易には読めない)、一方で岡長平は自分のことは一貫して語らない。派手な遊びやユーモア溢れる文体。なにより、地元では名士。だというのに、前述の座談会なんかでは岡長平を知る人物は「寂しがり屋だった」といっている。
ひとつひとつの資料に、岡長平の人となりとを知る手がかりがあるのは明らかだった。それに対して、ボクの準備はいささか欠けていた。紙が劣化してコピーをとれない資料をページを選んで撮影してはみたものの、これは改めてすべてを確認せねばならないと思った。
もうひとつ、今回の限られた岡山滞在の中でやりたいことを思いついていた。
家の住所にはなんの手がかりもなかった
ようやくわかった岡長平の自宅の住所を訪ねてみようと思ったのだ。実は同時に、岡長平の墓の場所もわかっていた。Sさんが出してくれた資料に内田伝治という人が書いた『岡山県著名人家系図』という資料があった。この著者が何者かはわからないが、その中身は唯一無二。著名人の家系図と、お墓の場所をまとめた手書きの資料なのである。
これを将来、誰かの役に立つと考えて図書館に納本したというのであれば感謝の言葉しかない。その中には岡長平の家系図と墓の場所も記されていた。限られた時間で、どちらに行こうかと思って自宅の住所を訊ねることにした。
いくつかのハガキに記されていた岡長平の住所は「岡山市玉井宮内」と書かれている。玉井宮とは市電の東山停留所の近くにある玉井宮東照宮のこと。岡山市の総鎮守など多くの由来と御利益を持つ市民の馴染みの神社のひとつ。停留所を降りて、少し坂を登って東山公園を通り抜けた先に鳥居がある。「玉井宮内」とあるが、ほかの資料を読むと鳥居の横に自宅を構えていたらしい。
前に来たのはいつだろう。昔は猿山があったな……などと考えつつ東山公園を抜ける。確かに鳥居の前にはいくつかの建物があった。でも、淡い目論見通り「岡」なんて表札を掲げた家はなく、いくつかのマンションが建っているだけだった。
これが、現在のボクの岡長平を探す旅の途中経過である。いまだ、生前の岡長平を知る人や縁者にたどり着くことはできていない。岡山城のお堀のところにある記念碑を建てた時の資料には、寄付をした人の一覧があった。そこに、まだ存命の人を見つけて訪ねてみたのだが、もう遙か昔のことだからだろう。「寄付した覚えがない」という冷たい返事しか帰って来なかった。
果たして縁者にたどり着くことはできるんじゃろうか……と、まだ旅は続く。