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2020.09.27

「麒麟がくる」再開!京都北部の「光秀ゆかりの地」をディープでマニアックに大特集!

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大河ドラマが放送されると、主人公ゆかりの地は大盛り上がりになるのが常。もちろん今年放送の大河ドラマ「麒麟がくる」も例外ではなく、岐阜・滋賀・京都と明智光秀に縁のあるエリアで注目度が高まっています。旅行でこの地域を訪れる人も増えるため、地元や各種旅行サイトも積極的な誘致活動を行っています。この和樂webでも、「光秀ゆかりの地」に関する記事はすでに出ています。

「麒麟がくる」主人公!明智光秀の足跡を辿れるゆかりの地はここだ!

ただ、これまで歴史ライターとして光秀関係の記事を多く書いてきた私からすると「もっとディープでマニアックな光秀ゆかりの地紹介はないものか」と思ってしまいました。

そこで、今回は京都北部の光秀ゆかりの地を取り上げ、一般的な記事には出てこないような「ディープでマニアック」な情報をお届けします!

福知山城

京都北部の「光秀ゆかりの地」として真っ先に紹介されるのが、天正7(1579)年に丹波地方を平定するべく築き、その後はこの地方の支配拠点とした「福知山城」です。

写真に写るのは、「丹波福知山手づくり甲冑隊」の皆様

現存する天守は昭和61(1986)年の復元にはなりますが、日本中の城から選出される「続日本100名城」に選出されるなど、お城ファンからの評価も高い場所です。

「福知山」という名前や、小高い丘のような場所に位置していることから、かなり標高が高そうに思える福知山城。しかし、実際には海抜40メートルくらいの高さしかなく、付近を流れる由良川の氾濫によって城下町はたびたび水害に見舞われてきたそう。福知山市民の間では「30年に1度は必ず大水害に見舞われる」というのが共通認識になっており、かなり脆弱な土地です。

こうした課題に対し、光秀は河川に「明智藪」という堤防を設置。

水害対策にあたるとともに、今でいうところの固定資産税にあたる「地子銭」を免除したことで、地元では名君と称えられるようになったといいます。以上のような話は、城内の史料展示室でも学ぶことができます。

ただ、私が注目したいのは、福知山を直接支配したのは光秀ではなく城代の明智秀満(あけちひでみつ)だったという点。大まかな方針自体は光秀が決めていたのでしょうが、彼の多忙さを考えると福知山の領地経営に充てられた時間は多くないと思われます。城内でも少し秀満関係の展示はありましたが、個人的にはもっと「明智秀満の功績」にスポットライトが当てられてもよいのではないかと思いました。

明智光秀の家臣は琵琶湖を馬で渡った!?本能寺の変まで時を戻そう

そして、光秀・秀満体制で福知山を支配したのは、山崎の戦いで光秀が敗れるまでのわずか3年足らずであったことも忘れてはなりません。「福知山といえば明智でしょ」という風潮は地元にもあります。しかし、福知山城は光秀の死後270年以上にわたって、丹波国福知山藩の支配拠点として活用されています。その間、摂津有馬氏や稲葉氏、朽木氏などが藩主としてこの城に入っていたことはほとんど知られていません。

3年間という支配期間は、退陣を発表した安倍首相在任期間の2分の1以下。それでも、地元でこれだけ慕われる光秀はさすがというべきですが、江戸時代以降の福知山藩が歩んだ道のりも合わせて知っておきたいものです。

施設名: 福知山城
住所: 620-0035 京都府福知山市内記一丁目5
営業時間: 9:00~17:00
定休日: 2021年1月11日(月曜・祝日)までは年中無休
公式webサイト:  https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/soshiki/7/2014.html

福知山光秀ミュージアム

福知山城のすぐそばにある福知山市出身の日本画家・佐藤太清記念館の2階には、大河ドラマ『麒麟がくる』の放送に合わせて新設された「福知山光秀ミュージアム」があります。

一般的に、大河ドラマが放送されるとドラマのゆかりのスポットに関連施設が一年限定で作られ、この福知山光秀ミュージアムもそうした関連施設の一つです。

福知山光秀ミュージアムには、大河ドラマのパネル展示、出演者の衣装・小道具などの展示もありますが、一番の特徴はドラマの時代考証を担当する小和田哲男先生に実際に監修をしてもらっている点。先生の全面バックアップのもと、光秀の生涯や功績についての映像やパネル展示を行っています。

さらに、ミュージアムの見所である重要資料特別展示ブースでは、光秀をはじめ織田信長、波多野秀治(はたのひではる)といった関連武将の重要資料を年10回の入れ替え展示を実施しながら展示しています。

また、館内で目を引いたのは、SNSでも話題になった「本能寺の変 原因説50総選挙」の結果が張り出されていたこと。

確かに光秀の生涯におけるハイライトではありますが、ご存知のようにわずか10日程度で秀吉によって討たれてしまいました。この場面をあえてミュージアムの中に配置するところに、「光秀はよく頑張った!」というような福知山市民の思いが感じられます。

施設名: 福知山光秀ミュージアム
住所: 620-0035 京都府福知山市字岡ノ32-64
営業時間: 9:00~17:00(2020年1月11日~2021年1月11日の期間開館)
定休日: 年中無休
公式webサイト: https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/mitsuhidemuseum/

御霊神社

福知山城から少し離れたところにあり、明智光秀を氏神としてまつる「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」。当然ながら「光秀ゆかりの地」として観光ガイドなどにも掲載されています。

しかし、実はもともと光秀をまつる神社ではなく、産業の発展を司る神・宇賀御霊大神(うがのみたまのおおかみ)をまつる小さな祠があっただけと伝わります。それがなぜ光秀をまつる神社になったかといえば、江戸時代に入って約100年が経過した宝永2(1705)年に「光秀公の善政を忘れてはいけない!」という地元の人たちの思いで宇賀御霊大神と合祀されることになったからだとか。もっとも、当時は光秀をまつるような施設が皆無で、街を災厄が襲ったために「光秀をまつらなかったタタリだ」という恐怖も合祀の動機になったよう。

ただ、個人的には「江戸時代の儒教的価値観からすれば、『謀反人』として非難されがちな光秀をまつることがなぜ幕府に許されたのか」は少し気になりました。現地では「福知山の人たちの強い思いがあったからだ」と説明されましたが、もう少し裏の事情があるような気はします。

私の推測ですが、
・タタリを幕府も民衆もかなり恐れていた
・光秀が謀反を起こした相手は江戸時代に評価が低かった織田信長だった
・山崎の戦いで家康最大のライバルである羽柴秀吉と敵対していた
・明智家がすでに大名家としては滅び去っていたので、光秀を持ち上げても統治には支障がないと判断した
このあたりの事情が関係しているのではないかと思います。

施設名: 御霊神社
住所: 620-0038 京都府福知山市西中ノ町238
公式webサイト: http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/19/057/

天寧寺

福知山城や御霊神社と同じく福知山市にあるものの、市街地ではなく山中にひっそりとたたずむのが「天寧寺(てんねいじ)」です。

もともと、貞治4(1365)年に地頭であった大中臣宗泰(おおなかとみむねやす)が自らの氏寺に愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)という僧をを開山として招いてできた寺と伝わります。

天寧寺が隆盛を極めたのは室町時代。室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)をはじめとする足利将軍家の帰依を受け、京都五山に対抗する厳格な禅風を貫く寺だったと伝わります。

足利将軍家の家紋「足利二つ引紋」が今でも確認できます

ところが、皆さんご存知のように戦国時代に入ると足利将軍家は衰退。彼らを最大の庇護者として権勢を誇っていた天寧寺も、その威光に陰りをみせるようになりました。当時の丹波情勢を考えれば、国衆たちは戦いに明け暮れていて天寧寺の庇護どころではなかったでしょう。

それでも、戦国末期に明智光秀が丹波の平定に成功すると、彼は天寧寺に目を向けました。もともと光秀は足利将軍家に仕えた幕臣であり、まだ丹波の寺社勢力と結びついていなかった平定当初には、その縁が大切だったのでしょう。光秀は天寧寺勢力下での勝手な陣取りや竹林の伐採を禁じる「判物(はんもつ)」という文書を発給しています(中世法の世界では「何かを禁止する命令を出す=その行為がすでに多発し、問題になっている」ことを示しているので、天寧寺がかなり勢力を落としていたのだと推測できます)。

この文書は普段一般公開はしていないものの、団体でかつ事前に天寧寺へ申し入れをすれば見学できる場合もあるとのことでした。

その後、光秀は山崎の戦いに敗れてわずか3年足らずの丹波統治を終えるのですが、天寧寺は江戸時代に再興を果たしたそう。そのおかげで、現代でも静寂の中で禅宗文化を満喫できるのがこの寺の特徴。事前の相談があれば座禅体験も受け入れているので、日常を離れて心身をリフレッシュするのも一興でしょう。

施設名: 天寧寺
住所: 620-0077 京都府福知山市字大呂1474
公式webサイト: https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/soshiki/7/1232.html

山家城跡

福知山市のお隣、綾部市にも光秀ゆかりの地があります。光秀は丹波攻略の際、山家(やまが)の地を治める国衆・和久左衛門佐(わくさえもんのすけ)に降伏を迫りました。光秀の強大な勢力を認めたのか、和久氏は勧告通り降伏を申し出ます。

光秀は降伏の条件として「和久氏の居城・山家城の破棄」を告げました。

和久氏もこれを受け入れたものの、なかなか城を明け渡そうとしませんでした。光秀が「どうしてオレの言うことを聞かないんだ!?」と詰め寄ると、和久氏は「イヤイヤ光秀さん、この城の中には『照福寺』って寺があるでしょ? つまり、ここは城じゃなくて寺なんですよ」と、かなり無理筋な言い訳で城を残そうとしたと伝わります。ただ、城跡には土塁や空堀のあとが当時のまま残っており、中世の常識から考えればここは明らかに「城」。案の定光秀はブチ切れ、和久氏は滅ぼされたとも、命からがら逃げおおせたともいわれています。

その後、山家城の跡地は、豊臣秀吉の命によって谷衛友(たにもりとも)という武将が支配しました。江戸時代以降も山家藩主として谷氏がこの地を支配し、明治維新を迎えることになります。

現在、城跡は「山家城址公園」として整備され、模擬復元された城門の2階は山家資料館になっています(見学には要事前予約)。

また、公園からさらに山を登ると、城跡の土塁や空堀を見学できるようです。なかなか険しいハイキングにはなりますが、お城マニアならぜひチャレンジしてみては?

施設名: 山家城址公園
住所: 629-1256 京都府綾部市広瀬町上ノ町76
公式webサイト: https://www.ayabe-kankou.net/tourism/tourism/yamagajyoshikoen.html

福知山市、綾部市へのアクセスと観光情報

今回紹介した施設がある福知山市、綾部市へのアクセスは、JR京都駅から特急で1時間ちょっと。私も今回の旅では新幹線と特急を利用し、朝に東京を出て昼には福知山に到着しました。東京からのアクセスも良く、土日を利用した1泊2日の小旅行にも最適。

また、今回ご紹介した光秀関連施設以外にも、福知山市・綾部市には多くの観光スポットがあります。以下に関連する観光情報サイトを掲載いたしますので、旅行の際にはぜひチェックしてみてください。

海の京都DMO(福知山市・綾部市・舞鶴市を含む観光情報):https://www.uminokyoto.jp/
森の京都DMO(福知山市・綾部市を含む観光情報):https://morinokyoto.jp/
京都府中丹広域振興局 :http://www.pref.kyoto.jp/chutan/gaiyou.html

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?