銀座4丁目交差点から歌舞伎座前を通って、築地場外市場を右手に眺めつつ左へ進むと、まるでインドにあるような建物が現れてきます。個性的な建築様式で知られる築地本願寺です。
都心にぽっかりと異界がひらけたようなその境内に、引き込まれるように入っていくと、以前訪ねたときとは印象が違いました。
建物前の駐車場が脇に縮小されていて、芝生が一面に広がっていたのです。そして、左側にはおしゃれなカフェの建物が。
カフェはメディアでも頻繁に取り上げられていたので知っていましたが、これだけ緑豊かな場所になっていることに驚きました。
そこは、不思議な「都会のオアシス」だったのです。
ホテルのような宿坊
築地本願寺の宿坊は、本堂に向かって右側にある第一伝道会館にあります。宿坊を紹介するガイドブック等の書籍やウェブサイトはいろいろありますが、なぜか築地本願寺はほとんど取り上げられていません。東京から最も近い宿坊として、前回紹介した御岳山が載っていますが、実はそれよりも近い、というよりか都心の宿坊は、この築地本願寺なのです。
伝道会館は、風呂トイレは共同ですが、部屋はホテル並みの豪華さです。和室13室、洋室3室、計16室。また、伝道会館には、日本料理の紫水があり、精進料理や季節の会席などが各種用意されています。
築地本願寺の宿坊に泊まれば、この寺院建築の夜や朝の雰囲気も独り占めが可能。周辺のホテルに宿泊するのとは、ひと味違った体験ができるのです。
なお、冒頭でも触れたおしゃれなカフェは、インフォメーションセンター内にある築地本願寺カフェ「Tsumugi」。18品の朝ごはんなどのメニューは、ご存知の方もいることでしょう。第一伝道会館にはティーラウンジもありますから、築地本願寺内だけでも、グルメ散策できるほどです。
西本願寺と東本願寺
さて、築地本願寺について話を進める前に、お寺の歴史について触れておきましょう。
築地本願寺の正式名称は「浄土真宗本願寺派築地本願寺」。浄土真宗の宗祖は親鸞聖人です。築地本願寺は会社でいえば“関東支社”にあたり、“本社”にあたる「本山」は、京都の龍谷山本願寺、いわゆる西本願寺です。京都に西本願寺と東本願寺があることは、ご存知のことと思います。では、この違いは?
ここでは五木寛之氏の『百寺巡礼 第五巻関東・信州』(講談社文庫)「第四十三番 築地本願寺」を参考にしながら、ごく簡単に解説することにします。
戦国の世、織田信長は本願寺教団と激しく対立。10年あまりの戦いののち和議を結ぶとき、信長は、本山・石山本願寺の明け渡しを要求します。門徒は賛成と反対に分かれました。その後、豊臣秀吉の時代、賛成した側は秀吉の庇護を受け、反対した側は取りつぶしとなります。しかし、徳川の時代になると、反対した側にも本願寺再建の土地が与えられ、「ここに本願寺は二派に分裂することに」(同書)なりました。明け渡し賛成側が、今の西本願寺、反対したのが東本願寺です。
徳川家康は東本願寺を厚遇し、西本願寺を冷遇したとされます。しかし、冷遇されても徳川に近づかなければ、教団の運営は難しい。そこで西本願寺は徳川幕府への接近を試み、家康の死後まもない1617(元和3)年、浅草に別院「江戸浅草御堂」を建立できました。
しかし、1653(明暦3)年、明暦の大火により別院は焼失。幕府は代替地を指定しますが、それは八丁堀の「海上」でした。そのとき活躍したのが佃島の門徒たち。彼らは江戸開府のとき、摂津国(現在の大阪府北部と兵庫県の南東部のあたり)佃村からやって来たのですが、摂津国の頃から西本願寺の熱心な門徒でした。彼らが中心となって海を埋め立て、1679(延宝7)年に別院「築地御坊」が再建されます。この御坊は1923(大正12)年、関東大震災にともなう火災で焼失し、その後、現在の築地本願寺が建立されることとなります。
伊東忠太と大谷光瑞
現在の築地本願寺の建物が生まれる背景には、二人の人物の出会いがありました。一人は西本願寺第22代門主・鏡如(きょうにょ)上人こと、大谷光瑞(こうずい)。もう一人は、建築家・伊東忠太(ちゅうた)です。
大谷光瑞は、仏教の源流をたどる大谷探検隊を発案した人物。「英語が堪能で、東洋的教養がゆたか、明治生まれには珍しいほどの長身で立派な体格」(『築地』本願寺出版社東京支社・編纂)だったそうです。1902(明治35)年から12年間、断続的に中央アジアを巡っています。
伊東忠太は、「アーキテクチュア」の訳語として「建築」という言葉を当てようとした最初の人。法隆寺に魅せられ、そのルーツ探しに中国、インド、トルコに3年間留学し、欧米を経由して帰国しますが、留学へ出発したのが1902年でした。そして、1903年、大谷光瑞はいませんでしたが、大谷探検隊の一員に中国の奥地で偶然出会い、帰国後、大谷光瑞と出会いを果たすのです。
大谷光瑞と伊東忠太は、門主と建築家という違いはあるものの、日本を飛び出して世界を舞台に発想するというスケールの大きさが共通しています。二人は互いに意気投合し、交流を重ね、やがて築地本願寺建築へとつながっていきます。
仏教のルーツにこだわった寺院
築地本願寺は1931(昭和6)年に起工され、1934(昭和9)年に完成しました。
伊東忠太が手がけたほかの主な建物は、平安神宮(1895年)、明治神宮(1920年)、大倉集古館(1927年)、靖国神社遊就館(1931年)、湯島聖堂(1934年)など。いずれも“常識的”な建物であることに驚くかもしれません。
前出『築地』によると、伊東忠太は「仏教はインドのもの」「だから建築もインドのものでなければ」と考えたようです。日本の仏教建築は、実は中国の民家とのこと。中国では僧侶がふつうの民家に住んでいて、そこが寺院という機能を果たすようになりましたが、それがそのまま日本に伝わったのでした。伊東忠太は、かつてのインドの仏殿に戻すべきと考えたのです。
しかし、インドはすでに仏教ではなく、ヒンズー教の国。残っている寺院建築は石窟寺院くらいしかありません。それらを参考にしつつも、伊東忠太は自分の理想、発想を大きく羽ばたかせて、新しい時代のシンボル=築地本願寺を設計したのでした。
神殿を想像させるような壮大な外観、細かな装飾も施された内部天井、ステンドグラスやシャンデリア、そしてパイプオルガンなど、そこにはインドだけではなく、グローバルでとらえきれないような世界が広がっています。かと思えば、階段などにはさまざまな動物のオブジェや彫刻も点在していて、ユーモラスです。
伊東忠太という人
伊東忠太は1867(慶応3)年、山形県米沢市生まれ。夏目漱石と同い年です。6歳のときに東京へ引っ越し番町小学校へ入学。22歳で東京帝国大学工学部造家学科(のちの建築学科)に入学し、東京駅を設計したことでも有名な辰野金吾に師事します。
建築家としての一面だけではなく、戯画風の漫画を数多く描いていたり、綿密な日記を書き続けたり、建築作品の中で奇妙な動物などにこだわったりと、伊東忠太はなかなかおもしろく、不思議な人です。建築の専門書を含め、いくつか関連本がありますが、人物像の全体に触れられるのでおすすめなのは『建築巨人 伊東忠太』(読売新聞社)。また、日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブスには伊東忠太資料があり、さまざまな絵や書簡などを見ることができます。
一流の建築家であり、どこかチャーミングなところのある変わった人だったに違いない伊東忠太。きっと彼が、子どものように無邪気に、自由に、楽しく熱中したのが、築地本願寺だったのではないかと思えてなりません。
最先端の寺院のあり方を実現
「仏教の起原を忘れるなという意味が建築やデザインに込められているのだと思っています」
築地本願寺の副宗務長・東森尚人さんはそう話し、続けて築地本願寺の斬新さを説明してくれました。「お寺の建物は本堂や庫裡(くり。住職の住居)など、別々に建っているのが一般的ですが、築地本願寺ではすべて一体となっています。本堂には土足で入ることができますし、柱にはスチームストーブが設置されていました」
建築やデザインにばかり目を引かれていましたが、「土足で本堂に入ることができる」「イスに座ることができる」「あたたかい」「明るい」といったことは、築地本願寺が初めて実現したことばかりと言えるかもしれないのです。今では、イスが用意されていたり、暖房設備が整っていることなどは、お寺でもごく当たり前のこと。しかし、築地本願寺の完成当時は、斬新、いや常識外れだったのではないでしょうか。
「お寺という場所は、『聖』と『俗』がぶつかり合う場所でもあります。時代が変われば、対応していかなければなりません。仏様の次に大切なのは、参拝される皆様のニーズに応えることですから」(東森さん)
開かれた築地本願寺
東森さんの言葉どおり、築地本願寺は広く開かれた寺院です。インフォメーションセンターにはお坊さんが常駐していて、さまざまな相談に応じてくれます。「築地本願寺GINZAサロン」では「KOKOROアカデミー」「よろず僧談」があり、仏教をベースとした講座や仏事、お墓の相談なども可能(コロナの状況による)。
さらにtwitter、Instagram、YouTube配信など、インターネットでの取り組みにも熱心です。メディアでの発信にも力を入れています。
2020年末、築地本願寺は10代から70代の男女計3600人を対象とした調査の結果をリリースしました。その内容は、18~29歳の約4人に一人が「死にたいと思ったことがある」という憂慮すべき結果に。ほかに女性の約半数が「フィジカル的不安」を持っていることや、男女ともに社会に対して「危うい」と感じているなど、当然のことながら、コロナ禍の不安を反映したものとなっています。
「さまざまな活動をとおして、少しでも皆様に寄り添わせていただくというのが、私たちの務め。まさに今は真価が問われるときです」(東森さん)
2023年は、親鸞聖人生誕850年の年であり、それに向けた活動も築地本願寺では始まっています。
不思議な「都会のオアシス」は、誰にでも開かれた場所です。建築やデザインを楽しんだり、カフェでくつろいだり、宿坊体験をしてみたり。そして、お坊さんに何気ないことでも話しかけてみては、いかがでしょうか。