NHK大河ドラマ「真田丸」の舞台となった長野県上田市。電車で30分ほど田園風景の続く塩田平を走った終点に別所温泉があります。真田幸村も愛した秘湯の地であり、古代から日本三名泉と称され、鎌倉時代には仏教・学問の中心地として栄えました。小さな温泉地にこれだけの国宝・重文の文化財が集結し、現存しているのは珍しいこと。神聖な気が流れるこの地を探索しましょう。
平安時代から愛された温泉地、別所温泉で静かに、のんびり国宝鑑賞と禅寺巡り
上田市の南西に広がる塩田平。別所温泉があるのはその西端になりますが、地図を見るとここだけで神社および寺院の数が10以上。そのほとんどが、鎌倉時代から室町時代にかけて創建されたものです。
鎌倉時代に塩田平にて花開いた禅宗文化の象徴
国宝 安楽寺八角三重塔。国宝指定日:昭和27(1952)年3月29日 指定番号:建造物00041。別所温泉の中心地から少し上った山の中腹に立つ安楽寺。仏塔は仰ぎ見てこそ美しさがよくわかる
「八角三重塔だけをご覧になってしまうと、なぜこんな山奥に国宝があるのだろう?とお思いになることでしょう。しかし塩田平に密集している文化財を見れば、この三重塔だけがぽつんと存在しているわけではないことがおわかりになると思います」と案内いただいた安楽寺住職の若林恭英さん。
左/野外にあっても、それほど傷みは少ないのは、塩田平が日本で2番目に雨量が少ない地域のため。右/八角三重塔に向かう階段の踊り場には、石地蔵が並ぶ
時をさかのぼれば、聖武天皇が日本各地に国分寺を建立したとき、信濃国の国分寺は上田に置かれました。塩田平はその市街地にあたり、別所には出湯のあったこと、東山道に近かったことなど地理的な条件も重なって、人々の往来があったのでしょう。万葉集や、平安時代の書物に信濃国の中でもこの地に触れた記述が残されているとか。いつしかここが信濃の仏教・学問の中心地となり文化が花開いたというわけです。北条氏の一門である、塩田流北条氏が統治した鎌倉時代にピークを迎え、それ以降は表舞台からこの地は姿を消すことになりました。寂しい話ではありますが、「そうでなければ、今ここに三重塔が現存していなかったかもしれません。寺は軍の駐屯地でもありましたから」という若林さんの言葉に、うなずくばかりです。
日本に唯一現存する唐様の平面八角形の塔が長野にある
左/内部には大日如来像が安置されている(非公開)。右/安楽寺を預かる若林住職
実際に八角三重塔と対面すると、屋根の軒裏の美しさに目が留まります。垂木が放射状に配された(「扇垂木」と呼ぶ技法)その緻密さといったら!これこそが禅宗様建築の特徴なのですが、この技術が鎌倉時代末に完成されていたとは、驚きます。
安楽寺は信濃初の禅宗寺院。中国では五代十国時代(907~960年)以降に数多く建てられた平面八角形の塔。日本に現存するこの様式の塔はここ1基だけ。建立時期は、鎌倉時代末の1290年代であることが年輪年代測定で判明した。
「平面八角形の塔が日本で過去につくられたのは、京都・法勝寺(永保3=1083年)のほか、数例しかないと聞きます。おそらくは京都の次に、ここを目ざして建てられたのだと思っています。時代の最先端を行くものがこの地につくられた当時、地元の人たちはどう反応したのでしょうね」と語る若林さん。国宝を預かる立場になって考えることは、これだけ長く存在してきたことの意味だそう。国宝に認められたから守れたわけではなく、「そこにはこの塔を敬う人々の心があったからなんです」。現在、全面修理は60年に一度、屋根を中心にした部分修理を20年に一度行っています。
八角三重塔の屋根の葺き替えによって古材になった椹板と竹釘は護符となり人の心に寄り添う
実は住職が若林さんになって新しい試みが始まりました。こけら葺きの屋根に使われる椹の木材の、表に出ない部分には、地元の中学生たちの夢や決意が筆で書かれているのだとか。これも子供たちの記憶に残すための知恵。
八角三重塔にたどり着くまでの長い参道は心を穏やかにする
蓮の池を抜け、山門の階段を上れば、本堂が視界の先に入ってくる
「脚が丈夫であるならば、参道から歩いてお参りを」と若林住職。長い道のりを歩くことで、心は日常から切り離されて祈りの態勢が整うそうです。
翌朝、再び八角三重塔を訪ねました。朝靄に包まれた八角三重塔の神々しさは想像以上のものでした。「仏塔は仰ぎ見るもの、それが敬う気持ちの表れです」という若林さんの言葉を2度目の訪問で理解しました。