巣ごもり生活でプラモデルが再び注目を集めているという。子供の頃、模型作りに熱中した経験のある人なら、こんな疑問を持ったことがあるはずだ。どうしてプラモデルのメーカーは静岡にばかり集まっているんだろう-。
最新の統計によると、全国のプラモデル出荷額に占める静岡県のシェアは、実に92%にも上っている。2019年の全国の出荷額241億7100万円のうち、静岡県の出荷額は222億5800万円(経済産業省 2020年工業統計表)。静岡市を初めとする静岡県内には、タミヤ(静岡市駿河区)、青島文化教材社(静岡市葵区)、ハセガワ(焼津市)、フジミ模型(静岡市駿河区)など、世界に名の知られたメーカーが集中。日本のプラモデル史上最大のヒット商品といわれる「機動戦士ガンダム」のプラモデル、いわゆる「ガンプラ」の製造元BANDAI SPIRITSも、プラモの製造拠点を静岡に置いている。
なぜ静岡は模型王国となったのか。歴史を遡っていくと、その礎を築いたのは、あの江戸幕府初代将軍・徳川家康だった。
久能山の家康ガンダム
徳川家康をまつる静岡市駿河区の久能山東照宮。1616(元和2)年に死去した家康の遺言に基づき、二代将軍秀忠の命により翌年に創建された。墓所とされる「神廟」の下には、家康の遺体が西向きに座った格好で埋葬されていると伝えられる。
この久能山東照宮に、武者姿の家康を模した機動戦士ガンダムのプラモデルが展示されている。葵のご紋の入った金色の甲冑に身を包んだ姿。家康と静岡の模型産業の深いつながりにちなんで職員が作ったものだという。
戦後になって日本にプラモデルが広まるまでは、模型と言えば木製模型が一般的だった。静岡に集中しているプラモデルメーカーの多くも、元は木製模型キットや木製玩具の製造業者だったのだ。静岡では昔から木工が盛んで、木製玩具や家具、指物、漆塗りなどが地場産業となっている。こうした産業が栄えたきっかけは、徳川家康が駿府(現在の静岡市)に全国から優秀な宮大工や建具職人、彫刻師、漆塗り職人などを集めたことに始まる。
1605(慶弔10)年に将軍職を嫡男・秀忠に譲った家康は、1607(慶弔12)年には駿府に移り、その後も大御所として実権を握り続けた。幼少時にも今川義元の人質としてこの地に滞在しており、愛着のある土地だったのかもしれない。生涯のうち最も長い年月を過ごすことになる駿府で、家康は城や寺社の造営に力を注ぎ、そのために全国から職人を呼び集めた。
こうした職人たちが手がけた建造物について、久能山東照宮の竹上政崇・権禰宜(ごんねぎ)は「駿府城の築城が大きいと思います。その後、今の静岡浅間神社。現在の建物は近代のものですが、以前のものは家康公が造営したと言われています。さらに家康公が亡くなった後、この東照宮が二代将軍・秀忠公によって造営されるのですが、その際も全国から集められた職人さんたちが携わっています」と説明する。
呼び集められた職人たちの多くは、築城や造営の仕事が終わった後も静岡にとどまった。「住みよい場所なので、全国から集められた職人さんもそのまま居着いたといわれています。気候もいいし、食べ物もあるし海も豊か。木工に使う木材も豊かです。東海道のいい所にあって、江戸も近くて。そういった立地面とかいろんな面で恵まれていたのかもしれません」と竹上さん。静岡に根を下ろした職人たちの技術が継承されていった結果が、模型産業の隆盛につながったという。
お茶作りにも徳川家が貢献
家康や徳川家が静岡にもたらしたのは模型産業だけではない。静岡が日本一の茶どころとなったことにも大きく関わっている。
静岡市にある茶町通り。この地名は江戸時代初期、家康が駿府で隠居生活を始めた頃に遡るという。茶町は山のお茶と平地のお茶が集められ、加工される場所だった。
家康は静岡で作られるお茶をことのほか愛好した。収穫されたお茶を、冷涼な井川大日峠(静岡市葵区)に建てた蔵に保存させ、秋になると駿府城まで運ばせて、熟成されたお茶の味わいを楽しんだ。これにちなんで、井川から家康にお茶を届ける「駿府お茶壺道中行列」という行事が今も行われている。
茶畑の開墾にも、徳川将軍家に使えた幕臣たちが貢献していた。もともと駿府は天領だったので、幕臣たちが多くいた。そして最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還の後、駿府で隠居生活を送ったことはよく知られている。昨年の大河ドラマ『青天を衝(つ)け』でも、大政奉還で職を失った駿府の旧幕臣たちが、商人たちと共に新しい産業を興していく様子が描かれていた。
「そういう人たちで、木工の方に進んだ人たちもいれば、茶業に進んだ人もいました。たとえば牧之原台地の開拓・開墾をしたのも、旧幕臣の人たちが多かったと言われています」と竹上さんは語る。静岡を代表するお茶の一大生産地である牧之原台地は、かつては広大な原野だった。それが明治初期、農業経験もない旧幕臣たちによって開拓されたのだ。
久能山で交わる二つの直線の謎
日本一の模型産業とお茶作り。今栄えている静岡の二大産業は、家康や徳川家と深いつながりのあるものだった。そんな家康は、自分が死んだら久能山に墓を建てて埋葬するよう遺言を残した。なぜ、この場所を安息の地として選んだのだろうか。これについては、竹上権禰宜からちょっと不思議な話も聞いた。久能山は、家康と関係の深い場所を結ぶ二つの直線が交わる位置にあるというのだ。
一つは久能山-岡崎-京都を結ぶ直線。久能山からずっと西方に行くと、家康の出生地である愛知県の岡崎がある。久能山と岡崎を結ぶ直線をさらに延長していくと、京都に達する。家康の遺体は西を向いた格好で埋葬されていると伝えられるが、これには、天皇や豊臣方ににらみをきかせるというだけでなく、生まれ故郷を見守りたいという思いもあったのかもしれない。
もう一つの直線は、御前崎-久能山-富士山-日光を結ぶ線だ。久能山の南東約50キロの地点には静岡県の最南端・御前崎がある。その地名の由来については、家康をまつる久能山の「御前」であることから来たという説もある。久能山と御前崎を結ぶ直線を北東方向に伸ばすと、日本一の霊峰・富士山があり、さらに延長していくと、日光東照宮のある栃木県の日光に至る。
家康が自分の遺体を久能山に葬るよう遺言で指示した当時は、もちろん人工衛星も飛行機も存在しなかった。伊能忠敬が日本全国を測量してほぼ正確な地図を完成させたのも、約200年後のことだ。江戸時代初期の測量技術で、二つの直線が交差する久能山の位置を探り当てることができたのかどうかは分からない。それでも、静岡そして久能山が家康にとって大きな意味を持つ場所だったのは間違いない。
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