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2022.07.11

織田信長の兵火をも逃れた「いも観音」。1300年守り継ぐ村人の思い

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これまで何本もの戦国時代の記事を書いてきた。
基本的に書籍や資料をベースにして書くが、もちろん、城跡や戦国武将の墓など実際に「現地」を訪れることもある。

だが、「現地」とはいっても、既に何百年もの時が流れたあとのこと。多くの名だたる戦国武将も、もはや空想上の人物と同じ。彼らは遠い存在であり、現代人の私たちが、彼らが生きた「戦乱の世」を感じ取ることなど難しいに決まっている。そう、勝手に思い込んでいた。

夏草やつわものどもが夢の跡、という松尾芭蕉の有名な句もありますね。

だから、正直、驚いた。
滋賀県長浜市にある「安念寺(あんねんじ)」のお堂に入って。
まさかこんなにも「戦(いくさ)」を身近に感じるとは、私自身、思ってもみなかった。

すべては、お堂に安置されているコチラの仏像を目にしたからだ。
戦国時代、幾度も戦に巻き込まれながら、村人たちが身を挺して守り継いできたという観音様。長浜市西黒田の「安念寺」に伝わる「いも観音さん」だ。

刀の傷があるわけではない。けれど、なぜだかつい見入ってしまう。根が生えたように、この場所から動きたくない。そんな突拍子もない私の感想に、お世話されている藤田氏がこう話してくれた。

「関東から拝観に来てくれる人も、女性が多いんですよ、ものすごく。それで、このお堂に入って『ちょっと離れがたいな』って言うてね。『いつまでも見たい』って言うてくれるんです。私らはずっとお世話してきてるからあんまり分からんけど、これはこれで有難いことやなと思って聞いてるんです」

今回は、離れがたいと感じてしまう、そんな不思議な魅力を持つ「いも観音さん」をご紹介したい。一体、どんな話が聞けるやら。早速、ご紹介していこう。

※本記事の写真は、すべて「安念寺」の承諾を得て撮影しています

「いも観音さん」の名前の由来

滋賀県長浜市にあるJR木ノ本(きのもと)駅。ここから2㎞ほど離れた西黒田の集落の中に、とあるお寺がある。伊香三十三所観音霊場の第十八番札所となる「天王山 安念寺(あんねんじ)」だ。

「この黒田が合戦場になったんでねえ。破損した仏像がいろいろ点在してるんやけど」

こう話すのは、今回の取材を快く引き受けて下さった「藤田道明(みちあき)」氏。住民らで作る「安念寺いも観音保存会」のメンバーの1人だ。

「安念寺いも観音保存会」メンバーの「藤田道明(みちあき)」氏

「黒田」と呼ばれるこの付近一帯は、なんと、あの天才軍師と名高い「黒田孝高(よしたか、黒田官兵衛とも)」の先祖発祥の地だとか。なんだか、戦国時代の逸話がゴロゴロと転がっていそうな雰囲気の場所である。

まずは、「いも観音さん」の由来から訊いた。
「1571年に織田信長が延暦寺を焼いたんで、この時、天台宗の末寺やったんですわ。この安念寺も。ほんで、焼かれる恐れがあるっていうんで、仏像を門前の田の中に埋めたって言われてまして」と藤田氏。

確かに、信長公記の「元亀2(1571)年」の章には、延暦寺についての記述がある。

「比叡山の山上・山下の僧衆は、…(中略)…浅井・朝倉に加担し、勝手気ままな振るまいをしていた。…(中略)…九月十二日、比叡山を攻撃し、根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂・神社、僧坊・経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞の湧き上がるごとく、無残にも一山ことごとく灰燼の地と化した」
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)

想像してみる。
今川義元を破り大金星をあげた「桶狭間の戦い」。人生の転機となった戦いから10年近く経った当時の織田信長は、さぞや勢いがあったことだろう。そんな信長軍が近くに迫ってきているとの知らせが入る。付近の村人たちは戦々恐々としたはずだ。

「信長の兵が来るぞ来るぞ…ってなって、仏像を田んぼに埋めたんですか?」
「うん。ま、その当時はこの西黒田もかなりの人数がいたと思うしねえ」
「当時もお寺は同じ場所に?」
「現在のこの観音堂は昭和8(1933)年に建てられているんで。当時も、まあだいたいはここら辺にあったかと…」

現在も、西黒田の周辺には水田が広がっている。
当時の村人たちは慌てて仏像を運び、田の中へと埋めたのだろう。

JR木ノ本駅から安念寺までの道中には水田が広がっていた

「ほんで、それから12年後に『賤ヶ岳(しずがたけ)合戦』があって。(豊臣)秀吉と(柴田)勝家の合戦で、この山の上から先の10㎞近くが戦場になってるんで。この時も勝家軍に(お堂が)焼かれるっていうんで埋めたと」

織田信長の死後、次期ポストをかけた戦いが勃発。その1つが「賤ケ岳の戦い」である。地理的にみて、もちろん、この周辺も争いに巻き込まれたようだ。だが、それだけではない。藤田氏が教えてくれた。

「もう1つはね、信長が浅井長政の小谷(おだに)を攻めてるんですよ。信長は小谷の山を北側から攻めてるんで。郷土の歴史を研究してる人に言わすと、むしろ、信長の小谷攻めの影響が1番大きかったんじゃないかってね」

天正元(1573)年の小谷城攻めのことだ。つまり、時系列でいうと「比叡山焼き討ち」と「賤ケ岳の戦い」の間に起こった戦いとなる。これら3つの大きな戦いに一番影響を受けたのは、なんといっても合戦となった場所に住んでいた人々だろう。まさしく、この西黒田の住民がそうだ。

山の中にある「安念寺」の観音堂

「埋められて掘り出されたから、仏像は破損が激しいんですか?」
「うん、ほんで、埋めて掘り出した時期とかも色々あって」
「と言いますと?」
「賤ケ岳合戦が終わってから掘り出したという説と、江戸時代中期に掘り出したという説と、江戸時代後期の文政年間に掘り出したという説と。諸説あるんやけどね。専門家が調査に何回も入ってるんやけど、専門家によって言うことが違うんやね」

これは予想外だった。
合戦が終わってすぐに掘り出されたとばかり思っていたが、確実なことは分からないのだという。

「もし江戸後期まで土中にあったら、もっと破損は進んでしまうやろと。だから、かなり早い時期に掘り出したんちゃうかな。せやけど、観音堂が焼かれたりするとすぐに再建できひんやろから、どっかで雨ざらしになったりとかして。それで益々破損が進んだんじゃないかって、そういう見立てになってるんですけどね」
「実際、土の中に埋められたから『いも観音さん』と呼ばれるんですか?」
「そう、合戦が終わって掘り出して、そこの余呉川(よごがわ)で洗ったんで『いも観音』と。あと、もう1つはね、自分らの3代前のじいさんぐらいのときかな。川に持ちだして、背丈1mくらいの仏像を洗ったり、浮き輪代わりにして泳いだりしたって言うんですわ。そういうこともあってね」

土の中に埋めて守ったものを掘り出して洗ったから「いも観音」。いろいろな思いが込められていそうな命名です。

安念寺の近くを流れる余呉川(よごがわ)

当時は、自分たちの命でさえ危うい状況だったに違いない。それにもかかわらず仏像を守る。これは、なかなか簡単にはできることではない。

「自分らの先祖はかなり苦労しながら、この仏さん守ってきたと思うんでね」
その言葉の重みが、ほんの少しだけ分かる気がした。

どうして「身代わり観音」なのか

それでは、ここでようやく「いも観音さん」をご紹介しよう。お堂にズラッと安置された10体の「いも観音さん」は圧巻だ(取材当時、うち1体は「高月観音の里歴史民俗資料館」で展示中)。

左から「菩薩形立像(ぼさつぎょうりゅうぞう)」、「如来形立像(にょらいぎょうりゅうぞう)」、「菩薩形立像(ぼさつぎょうりゅうぞう)」もとは十一面観音だったと考えられる、「如来形立像(にょらいぎょうりゅうぞう)」いずれも平安時代作

肘から下が欠落している躯体

躯体にスポットライトが当たり、黒い木目調のバックが仏像を際立たせる。これは、クラウドファンディングで多くの方に支援されたお陰なのだとか。もともとは昭和初期に建てられた観音堂が劣化したため、その修復のための資金集めだった。

「ちょうど新型コロナが流行りだした一昨年のことで、そんなに支援もしてもらえへんやろうって。迷いながら、クラウドファンディングに一応踏み切って。目標設定額を150万円にしといたんやけど。40日ぐらいでね、軽く飛び越えて。ほいで、目標額の再設定をして350万円にしたんかな」

目標金額を上げても、さらに200万円上回って約560万円の支援金が集まったという。賛同したのは342人。とてつもない数字である。それも4割が関東の人だったとか。

「当初はこの外回りだけの修復工事をやる予定やったんやけど、結局そうやって目標額以上の金額を支援してもらったんで、この安置の間も修復してね」

バックを黒くするアイデアは、東京の芸術大学で観音展に出陳した際の展示を参考にしたという。

「如来形立像(にょらいぎょうりゅうぞう)」頭上に螺髪(らほつ)を刻む如来様

「菩薩形立像(ぼさつぎょうりゅうぞう)」頭上に髻(もとどり)を結い上げた菩薩様

初めて安念寺に向かう際、ちょうど下からお堂が見えたのだが、じつはそこで我を忘れてしまった。階段を上がるにつれて、うっすらと浮かびあがる『いも観音さん』。この世のものとは思えない幻想的なお姿に、しばし立ち尽くしてしまったのである。だが、こうして近くに寄ると、実物は全く違う印象を抱かせる。

「仏さん、見る角度によって、顔の輪郭とか違うんやわ」と藤田氏。

新聞記事の画像を見ていたので、もっと破損が進んでいると思っていたのだが、そうではなかった。いや、破損はされているのだが、じっとそのお姿を拝すると、いつの間にかお顔立ちがはっきりと見えてくる。そして、不思議なことに、痛々しさは一ミリも感じられない。逆に懐の深い、何もかも受け入れてもらえるような「広さ」や「柔らかさ」を感じるのである。

表面に見えるものだけではない、何かがある?

「毘沙門天って言われたり、大日如来って言われたり。専門家によって色々変わるみたいで。なかなか言い切るのも難しいんやけどね」

なお、ご本尊は聖観世音菩薩様。

一番右側が安念寺のご本尊とされる「菩薩形立像(ぼさつぎょうりゅうぞう)」。頭上に髻(もとどり)が結い上げられた菩薩のお姿である

「この仏さんは『身代わり観音』って言われてますんや。昔は天然痘(てんねんとう、「疱瘡[ほうそう]」とも言う)が流行って、この辺りも疱瘡の患者がかなりいたようで。患者に代わって、この聖観世音菩薩が病気を一身に引き受けてくれると言われてね」
「へえ、そうなんですね」
「だから、御詠歌がね。『伊香三十三所 安念寺 十八番』になるんやけど。『世の中にあらん限りと誓いあれば 頼めも瘡をやむも何かは』となるんやね」
「ああ、『瘡』は疱瘡のことなんですね」
「そう、この御詠歌の意味を色々調べたんやけどね。専門家の人が言うには、この観音様はどんなことでも聞いてくれる観音様でね。天然痘も治るようにお願いしたら、それ以外にも全てこの観音様が治してくれるということで御詠歌になったと。大変な功徳を持った観音様やと」

この観音様にお願いすれば、大概の病気は治ってしまう。
そんなお力があるといわれている。

「藤田」姓が圧倒的に多いナゾ

さて、ずっとお話を伺ってきた藤田道明氏だが、じつはこの西黒田には、同じく「藤田」姓の方が非常に多いのだとか。

なんと10軒中9軒が「藤田」姓。
どうしてなのか。

「由来があって。いい伝えでは、この安念寺の開基が726年で。あの藤原不比等(ふひと)の庶子が、まあこっちの流れのもんで、この地で安念寺を開基したと。この人はのちに『詳厳法師(しょうげんほうし)』と名乗って。不比等の子なんで、藤原氏の一門でもあとからこっちに帰依するもんが出てきて。それでこの界隈は、一時期、七堂伽藍が立ち並ぶほどに栄えたとか…」

聖武天皇の時代、神亀3(726)年に、この安念寺は開基されたという。じつは、詳厳法師は藤原一族の1人として栄職に就いていたこともあったという人物だとか。しかし、無実の汚名を受け、僧になったといわれている。

「ほんで、このお陰かなんか…この西黒田のもんは全て藤田姓を名乗ってるんやわ」

つまり、元をたどれば藤原家の一族に繋がるということか。

「いや、それがどこまで事実かはわからんけどね。直系は誰1人おらんやろし、そんなん1300年も経ってるし。うちのじいさんかて、岐阜から来た人やし。まあ、言い伝えによると、そういうことになってるという感じで」

道中に立つ「安念寺」の看板

そんな藤田姓ばかりの集落で、ずっと「いも観音さん」をお守りしてきたという。

「もうずっと集落でお世話されてるんですか?」
「文化財指定にはなってないんやわ。安念寺の仏像は。せやから何の援助もないし、この西黒田で保存していかなあかんってなって」

例年、1月には「観音講」、8月には「千日詣り」を行うという。
「昔はもっと大々的にやったらしいけど。今は年寄りも若いもんも子どもも全部集まって、お経だけ読んで、あとは親睦を図るという感じでね」
「集落の中で、このまま継がれる方は…?」
「それが問題でな、西黒田も若いもんが少なくなってきてるんで。これから仏さんをお守りするのも、どういう形になっていくか分からんけど。色んなとこが一緒になって、色んな人が世話していくとか。これからどう対応していくか、それが課題やね」

ただ、そんな状況でも藤田氏はとても前向きだ。
「クラウドファンディングで皆さんに支援頂いて。自分らではできひんかったけど、コーディネーターとして長浜市の関係者に助けられて、無事成功した。ほんまね、ボケーッとしてたら1年、2年とすぐに済んでしまうけど、こういうことをしたお陰で色んな人と縁ができた。こうして取材に来てくれたりとかね。いろんな人との交流があって、これは確かにありがたいこと」

こうしてあっという間に取材は終了。
小雨の中、安念寺をあとにした。

取材後記

「村にとってどういう存在なんですか? もう生まれたときからずっと『いも観音さん』はいらっしゃるわけですよね…」

こんな私のストレートな問いに、藤田氏はこう答えた。
「開基されてから1300年ずーっと、先祖は何代にもわたってお守りしてる。うちの親父とがじいさんとか、もう2代前までの人が安念寺をお守りしてるっていうのを見てきてるんで。自分らが当然お守りしていくのが筋やと思うんでね」

じつは、関東で開かれた観音展で、拝観に来られた多くの方から「お守りするのは大変でしょ」と言われたという。

「昔、先祖がしてきたことを自分らがしてるというだけで、そんなに苦痛にも思わんのですよ」と藤田氏。

安念寺の観音堂に安置された「いも観音さん」

今回、西黒田の安念寺を訪れて思ったことがある。
確かに、「いも観音さん」のお姿は破損され、なかには肩から先が失われた躯体もある。
だが、「いも観音さん」には、生活の中に息づく信仰が強く感じられた。共に歴史を乗り越え、生活の一部となったと表現すればいいのだろうか。村の人たちからすれば、何かあれば語りかけられる存在。博物館で厳重にガラスケースに収められ、触れることもできない遠い存在の仏像とは全く違う。それも1つの在り方だろうが、ふと、これが本来の仏像のあるべき姿なのかもしれないと思った。

取材の終わりの藤田氏の言葉だ。
「こんなことを言うたら災害の多い地域の人に怒られるかもしれんけどね。割とこの地域は災害が少ないんで。やっぱり、こういう観音さんとか仏さんのお陰で無事に住まわせてもらってるんかなあって。これはみんな1人1人が思ってることで。仏さんが守ってくれてるんじゃないかとね」

西黒田がある長浜市は「観音の里」と呼ばれている。
もちろん観音信仰があるために、仏像の数も多い。だが、「観音の里」という名前は、数の多さが理由ではない。村の人たちが自分たちの手で「村の守り仏」を代々守ってきたことに由来するという。

今もひっそりと息づく観音信仰。
どのような形であれ、この「観音の里」がこれからも続くことを願う。

参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月

基本情報

名称:天王山 安念寺(あんねんじ)
住所:滋賀県長浜市木之本町西黒田

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京都出身のフリーライター。北海道から九州まで日本各地を移住。現在は海と山に囲まれた海鮮が美味しい町で、やはり馬車馬の如く執筆中。歴史(特に戦国史)、社寺参詣、職人インタビューが得意。

この記事に合いの手する人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。