埼玉県にはさまざまな名産品がありますが、中でも興味深い歴史を持っているものとして、北本市石戸のトマトが挙げられます。現在の北本市西部にあたる石戸のトマト生産には、100年近く前の大正時代にさかのぼる、ドラマチックな背景と経緯があるのです。今回は石戸のトマトについてご紹介します。
予備知識 日本へのトマトの渡来
石戸トマトの歴史を紐解く前に、日本のトマトの渡来について振り返ってみましょう。
トマトが最初に日本へ渡来したのは江戸時代初期だと言われており、当時は主に観賞用として扱われていました。トマトは「唐柿(とうがき)」「珊瑚珠茄子(さんごじゅなす)」「唐(とう)なすび」といった名前で広まり、当代の絵師たちにも描かれています。
例えば徳川四代将軍家綱のお抱え絵師だった狩野探幽(かのうたんゆう)は、晩年60歳以降の写生図『草木花写生図鑑』に トマトを「唐なすび」として描いています。また、美濃地方の僧侶、毘留舎耶谷(びるしゃなや)による18世紀前半の動植物図譜『東莠南畝讖(とうゆうなんぼしん)』には、「珊瑚珠茄子」との記載があります。
明治に入ると、政府はトマトを国民に広めようとしましたが、この時期のトマトは酸味が強く、真っ赤な色と青臭さが日本人の食生活に合わずに不人気だったようです。
その後、大正初期から昭和にかけて日本の家庭料理の洋風化が進むと、トマトケチャップなどが家庭に定着していきます。石戸トマトは、このような時代背景の中で広まっていったのです。
石戸のトマト栽培の始まり 種だけではなく果肉を有効活用
石戸のトマト栽培は、大正14(1925)年に始まりました。最初は種を取ってアメリカへ輸出することを想定していましたが、当初の収穫量は予定の5分の1程度で、目論見は外れてしまいます。
初期段階でつまずいたかに思えた石戸トマトですが、地元の農友会(農業の研究のためにつくられた組織で、現代の農協に近い)はここで諦めず、種を採るだけではなく、捨てていた果肉の利用によって体制を立て直そうと考えました。そして県の農事試験場へ相談したところ、製飴(せいたい)機械を利用した低温濃縮法を提案されます。
低温濃縮法は、低温で水分を蒸発させて原液を濃縮する方法で、成分を変質させることなく濃縮を行うことができるという利点があります。種子も果実も残り、トマトの味や香り、ビタミンもそのまま保つことができるのです。この方法によって、トマトを加工品として販売する目途が立ちました。また、当時は日本経済が悪化していたため、国を挙げての副業が奨励されており、トマトに関する加工事業はその一環でもありました。
果肉を活用する方針で栽培されるようになったトマトは、粒の揃った優良なものは箱詰めにして青果市場に出荷され、完熟しないものはピクルスとして売られ、そして粒の揃わないものや傷のあるものは加工品のトマトクリームとして売られました。こうして無駄のないシステムが出来上がっていったのです。
石戸トマトクリーム販売組合の発足
トマトクリーム製作に当たっては、石戸のトマトを、東京市屋久町(現在の東京都北区)で西瓜糖(すいかとう:スイカの果汁を煮詰めて濃縮したもので、当時は薬効を期待された)をつくっている日本製飴会社に持っていき、真空窯で実験を行いました。結果は良好で、製造に着手する運びとなります。
傷みやすいトマトを屋久町などの遠方へ運ぶと、悪くなってしまいます。そこで、地元に加工場をつくろうという話になりました。当時の農友会の方針で、加工場は規模が大きいため、組合をつくることになりました。その結果、昭和2(1927)年には「石戸トマトクリーム販売組合」が発足、今の北本市立西中学校付近に工場が設立されました。
この組合は、出資の方法が工夫されており、現金か、トマトの生果か、作業に伴う賃金で出資するという、誰もが参加できるシステムで運営されました。そのため、農家の7割が組合に参加したといいます。また、石戸村だけではなく馬室村・中丸村・川田谷村・上平村・桶川町にも広がり、一つの町と五つの村が参加したそうです。
当時、トマトクリームと呼ばれたものの詳細は伝わっていませんが、現在「トマトクリーム」と言って想像する、生乳や牛乳や香辛料などが添加されたトマトクリームではなく、トマトソースを煮て濃くしたような、無着色のピューレまたはペーストに近いものだったと推測されます。
評価された石戸トマトクリーム 博覧会への出品から工場の閉鎖まで
石戸のトマトクリームは缶詰にされ、上野精養軒(せいようけん)や千疋屋(せんびきや)、帝国ホテルといった一流の料理店で高く評価されました。
昭和3(1928)年には、カゴメが視察にやってきて、石戸トマトクリーム販売組合の設備を見学していったそうです。その際カゴメは、「新鋭設備を導入してトマトクリームを製造していた」「わが国で初の無着色のトマトピューレーをつくっている」と記録しているので、当時の石戸トマトクリーム販売組合の設備が最先端で画期的だったことが分かります。
石戸トマトクリームの品質を保証するものとしては、昭和3(1928)年に、昭和天皇即位大礼を祝する祭典である大礼記念京都大博覧会で優良国産賞を受賞したという記録があります。また、昭和4(1929)年の全国加工食品展覧会や、昭和5(1930)年の国産愛用家庭生活展覧会などでも大変評判が良く、農林省からも外国製品と比べても勝るとも劣らないと高く評価されています。昭和8(1933)年には満州への販路開拓を目指し、満州博覧会へ大々的に出品されました。
そんな石戸トマトも、正確な閉鎖時期は不明ですが、太平洋戦争開始前にはトマトクリーム工場は稼働しなくなっており、昭和17~18(1942~43)年頃には用地が航空会社に売却され、工場は完全になくなります。
石戸トマトに注ぎ込まれたもの 熱いドラマと魅力
大正末期から昭和初期にかけて、短くも濃密な歴史を築いた石戸トマト。日本においてトマトの栽培方法などが定着、一般化しているとは言えないこの時期において、試行錯誤を繰り返しながら導入されており、様々な苦労やドラマがあったことでしょう。
石戸トマトクリーム販売組合の創立やトマト栽培にあたっては、北海道大学から専門家を招聘(しょうへい)し、村の土質を研究し、日本全国の各地を歩いて比較検討を行い、また補助金を申請するなど、入念に計画を練ったそうです。
複数の人でお金を出し合って何かを成立させるというのは、今でいうところのクラウドファンディングのしくみと同じですので、現代に通じる方法で目的を達成させていたことになります。石戸トマトは、村人たちのそうした熱意によって支えられていたのだと思います。
従事者たちの思いに比例して、石戸トマトを彩ったもの、例えばトマトケチャップのラベルや、出荷用トマトの包装紙のデザインなどは、今見ても大変可愛らしく魅力的です。
包装紙には、トマトに関する説明が書かれているのですが、斜めに並べられた赤い文字を拾い読みすると「トマトクミアイ」になるなど、工夫が凝らしてあります。印刷におけるトマトの赤い色味なども味がありますし、フォントも複数使用されているなど、小さい紙の中にたくさんの見どころがあります。こうしたものも、村人や彼らに近しい人々が、外注なども行いつつ、相談しながら創りあげたのでしょう。
最初は失敗から始まったトマト栽培ですが、当時の村人たちが自ら製品開発などを行い、石戸トマトクリーム販売組合をつくりあげるという努力の結果、県や農林省から品質が認められるようになりました。
手がかりや情報が少ない状況から、創意工夫と周囲の協力によって成功に至った石戸トマトのエピソードは、現代に生きる私たちの胸を打つ力があるように思います。
石戸トマトを受け継ぐ心
現在の北本市では、トマト栽培農家が高品質の北本トマトを生産しており、それらを使ったトマトジュースやジャムなどの製品も豊富に揃っています。
また、平成26(2014)年に開催された全国ご当地カレーグランプリで日本一を果たした「北本トマトカレー」や、トマトを使ったユニークな和菓子の「トマト大福」、「とまとルンルン揚げ餃子」といった、トマトを使った特産品や、ご当地グルメの開発も活発に行われています。こうした中にはふるさと納税の返礼品になっているものもあり、北本のトマトは全国各地で親しまれているのです。
北本トマトのブランド化・広報PRに活躍しているのは、北本トマトイメージキャラクターであるとまちゃんです。赤い顔と愛らしい表情のとまちゃんは、さまざまなイベントに参加しており、北本トマトの普及に努めています。
実はとまちゃんは、将来「宇宙に行く」という大きな夢を持っていました。そんな折、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が、小惑星探査機「はやぶさ2」に名前を載せるという企画を行っていることを知り、実在の人物でなくても問題ないか確認した上でエントリーしました。
その結果、平成26(2014)年に打ち上げられた「はやぶさ2」に搭載されたターゲットマーカー(灯台の役割を負う装置で、対象に落とすことで着陸の目印にする)には「北本市 とまちゃん」の名前が刻まれ、再突入カプセル(宇宙飛行の後に地球へ戻る宇宙船の一部)には、「とまちゃん」の名前と画像が記録されることになりました。
こうして夢は叶い、とまちゃんのPR活動は宇宙にも発信されることになったのです。
近年では、歴史の中で途絶えてしまった石戸トマトを受け継ごうという動きも出てきています。
埼玉県北本市と静岡県河津町にあるB.T.Farmは、石戸にトマト栽培の歴史があることを知り、石戸の地で農業を行うことを決意したとのことです。かつてトマトクリーム工場があった場所の近くで、ゆくゆくは昔つくられていた石戸トマトクリームを復刻させるという目標を持っているそうです。
将来的には、石戸の村人たちが熱い思いを込めてつくっていた、あのトマトクリームを味わうことができる日がくるかもしれませんね。
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