これ以上、「金沢」に驚くことはない。
そう、思っていた。
年に数回、取材や旅行で金沢を訪れるのだが、じつは、帰りの道中、私はいつも複雑な気持ちになる。滞在中に新しく開拓したお店、出会った人、信じられない体験。思い出すだけでいつも心が満たされる。が、その反面、さすがに次は……。次こそは、もう新しい発見がないだろうと、寂しい気持ちが押し寄せるのだ。
だが、今回の金沢滞在でも、嬉しいことに新しい出会いがあった。
そして、またしても心が震えたのである。
少し前から、噂には聞いていた。金沢には数多くの寺院が存在するが、その中でも「ひるね寺」と呼ばれ、金沢市民に親しまれているお寺があると。それだけではない。なんでも、境内には1,000体もの石仏群もあるのだとか。
その名も「竜宝山 如来寺(りゅうほうざん にょらいじ)」。
浄土宗のお寺である。
今回は、こちらの如来寺を訪れて、ご住職にお話をうかがった。
なぜ、「ひるね寺」と呼ばれているのか。
取材を通して明らかになった2つの思い。
市民に寄り添うことを選んだご住職の思い。そして、境内にある1,000体もの石仏群に込められた思い。
それでは、早速、ご紹介していこう。
「ひるね寺」の由来
「ゴールデンウイークぐらいになると牡丹(ぼたん)が咲いてね。先代住職の古稀のお祝いで、皆さんからいただいたんですよ。春の時期になると、桜、牡丹、ツツジって順番に咲いて、お花がスゴいんです」
こう話すのは、如来寺34代住職の吉田隆一(よしだりゅういち)氏だ。
訪れたのは、既に初夏に差しかかった頃。
花こそなかったが、境内の見事な桜の大木に圧倒された。春の時期は、さぞかし目が喜ぶ華やいだ景色となるのだろう。
こちらの如来寺、JR金沢駅から市バスに乗って10分ほど、最寄りの停留所からは歩いてすぐの場所にある。じつは、兼六園からも1.5kmほどの距離と近く、有名な観光地からも徒歩圏内だ。元々、富山県の増山(ますやま、現在はこの地名がない)にあったようだが、400年以上前にこの地に移されたという。
「この辺りって文教地区で学校が多かったりするんですね。金沢大学医学部や金沢美術工芸大学があったりとか。あとは、前田家ゆかりのお寺がいくつかありますんで、エリア的には非常に緑が多いんです。お庭には、タヌキやアナグマも出ます」
なんでも、お寺が建っている場所は小立野(こだつの)という台地。そばに犀川(さいがわ)と浅野川が流れており、意外と山も近い。山から川沿いをつたって、クマまで下りてくるという。
そんな如来寺の始まりは江戸時代。
「お寺の成り立ちとしましては、前田家5代藩主の前田綱紀(つなのり)公が、お母様の清泰院(せいたいいん、徳川光圀の姉)様が亡くなられる時に、お母様の菩提を弔うお寺を建てたいということでして」と吉田住職。
確かに、お堂には前田家の家紋「梅鉢」の他に、徳川家の家紋「三つ葉葵」まで。不思議に思っていたが、如来寺の由来を聞いて、道理でと納得した。
「大通りから来られて、角を曲がったらうちのお寺が見えたと思うんですけど。信号の向こう側ぐらいまで寺領があったんです。そこで1回火事にあって、本堂が燃えまして。12代藩主の斉広(なりなが)公の時に、仮のお堂として建てられたのが、現在残っているこのお堂です」
前田家の懐事情もあって、結果的に本来のお堂は再建されず。「仮」のままで、気付けば200年の時が過ぎたというワケである。現在、こちらのお堂は、金沢市有形文化財に指定されている。
さて、そろそろ本題へ。
なんでも、夏になるとこのお堂が、市民に開放されるという。
一体、いつ頃から始められたのだろうか。
「もう10年以上経ちますね。私の父親の33代(住職)の時です。先代住職は、檀家さんに限らず、たくさんの方にお寺に来ていただけるようにと、非常に力を入れてまして。その1つとして、暑い最中、お昼寝にと、お寺を市民に開放したいと」
なるほど。お寺で「お昼寝」ができることから、「ひるね寺」と呼ばれるようになったのか。
ちなみに、住職曰く、大樹の下で昼寝するような感覚が味わえるとのこと。日差しの強い外から堂内に入ると、少し薄暗く感じる。戸をすべて開ければ、風がうまい具合に抜けて、ちょうど木陰で一休みする感じなのだとか。もちろん、エアコンほど涼しいワケではないが、人工的ではない「自然の涼しさ」を満喫できる。
「ご近所の方とか隣の保育園の園児さんとか。好きな時に来て、好きな時間に帰ると。8月の午後、12時から15時まで開けてます。お昼寝していても、15時になったら鐘が入りますので、嫌でも起きるんです」
実際に私も拝見したが、思わず感嘆の声が漏れてしまうほど。本当にスケールが違う。100畳以上はゆうにあり、ゆっくりと寝転がることができそうだ。替えたばかりのいぐさの香りが非常に心地よく、懐かしいやら落ち着くやらで、古き日本を肌で感じた。
本堂の広さにも驚いたが、加えて、つい目が釘付けとなったのが立派な内陣だ。
「正面が阿弥陀如来様。是非ともうちでお会いしていただきたいご本尊さんです。そして、向かって右側が観音菩薩様。阿弥陀様のお慈悲の心を表しており、左側が勢至菩薩(せいしぼさつ)様。知恵、賢さを表しています」
「浄土宗の阿弥陀如来さんは、すべて光背(こうはい、仏像の背後で仏身から発する光明を表現したもの)がお舟の形をしています。我々というものは罪深いものでね、その罪で石みたいに重たいと。お彼岸ってありますよね。お浄土なんですよね。現世との間に海があって、重たい罪を抱えてる我々は渡ろうと思っても沈んじゃいますよね。でも、舟の上だったら、そのまま行けるじゃないですか。だから、阿弥陀様の光背は舟なんですよ」
「じゃあ浄土宗って、すべて光背が一緒なんですか?」
「そうです。『舟形光背(ふながたこうはい)』って言います。そして、ちょっと前屈みになってましてね、座ってるよりも立ってる方が、亡くなるあなたのところにすぐ行きますよとなるワケで。だから、うちのご本尊は立像です」
さらにご住職の話は続く。
「亡くなられた方の御霊を乗せてお浄土にお連れする。49日後に蓮の花がぽんと開いて、そこから亡くなった方がお浄土に生まれると。そこで、今度は菩薩行、仏となるための行を積むわけで。こういう建物、楼閣がいっぱいあってね。風が吹いてチリンチリンとこの鈴が鳴ると、その音を聞くだけでも功徳があって、修行が進みやすくなる。そういうものを全部模したのが、お寺の本堂なんですよ。これ(内陣)です」
ははあ、と見事な内陣を見上げる。
もう、ため息しか出ない。つまり、浄土には内陣のような建物がたくさんあって、お寺に足を運ぶのはその場所を疑似体験するようなものというコトか。
それにしても、と我に返った。
よく考えれば、こんなご立派なご本尊の前で寝るだなんて。それはそれで緊張するに違いない。いや、疑似体験だとドンと構えていればいいのか。どちらにしろ、本堂のインパクトで目は冴えそうだ。
石仏に込められた思いとは?
「お盆ってね、一般的には8月ですけど、金沢は7月なんです。それが終わって7月の連休の『海の日』あたりから、10月の連休の『体育の日』まで、皆さん、お寺に来られて彫られるので。暑い最中ですので、ちょっと本堂で休憩してもらいたいなと」
彫られる?
まさか、境内にあった1,000体もの石仏群のことだろうか。事前情報では、一般の方々が如来寺で石仏を彫られたと書かれていた。「ひるね寺」と「石仏群」は、それぞれお寺のみどころとして「別物」だと思っていたが、どうやら両者には繋がりがあるようだ。
「石仏を彫るのは、『ひるね寺』よりも前からされていたんですか?」
「そうです。石仏は平成7(1995)年からやってます。暑い最中ですので、皆さん、ちょっと本堂で休憩されてたのもありまして。それなら、多くの市民にも開放したいなと」
「そうだったんですね。どうして、石仏を彫るようになったんですか?」
「門から続く石畳の参道があるんですが。以前は「赤戸室(あかとむろ)」っていう、お城にも使うような石を使っていました。ただ、200年以上前からあったので、もう敷石がへこんだり、ちょっと水が溜まったりとかで、新しい石に敷き替えたんです。その掘り出した石をどうしようかと。破棄しようという話にもなったんですが、皆さんが信仰のために歩いてこられた場所なんで、何かその信仰の対象にできないかと」
「先々代の32代住職、私の伯父の時に、じゃあ皆さんで仏さんを彫らないかということになりまして。彫りたい方なら誰でもいいよと。お釈迦様には500人のお弟子さんがおいでだという『五百羅漢(ごひゃくらかん)』にちなんで、10年で500体を目指そうとなりました」
「どうやって人を集めたんですか?」
「お檀家さんとかにお声かけをして。そうしましたら、色んな方々が仏さんを彫ってみたいと」
工作が好きでという人もいれば、近しい人が亡くなり鎮魂と供養のためにという人もいたという。石を彫る理由は人それぞれなのだろう。
「小学生の男の子が夏休みの宿題にって。毎回彫って写真に撮ってね、さすがに学校へは持っていけないから、そういう形で記録したりして。80過ぎのおばあちゃんは、自分では彫れないけれど、どうしても寄進したいということで、近くの金沢美大の石膏科の学生さんにアルバイトを頼んでね、彫ってもらったりとか」
ご夫婦で1体、結婚何周年かの記念に彫り始めたという人も。
「でもね、バンドじゃないですけど。方向性の違いで、途中から別々に彫り出した人もいたしね。本当に、皆さん思い思いでね」
それにしても、石仏を彫るのは簡単なことなのだろうか。
きっと、ほとんどの方がこれまで石を彫る経験などしたことがないはずだ。一体、どのようにして彫ったのか。
「うちは浄土宗なんですが、同じ浄土宗で、寺町の『三光寺(さんこうじ)』の奥村住職が美大の彫刻科を出られたとかって。その方にご指導を仰ぐ形で、何日か先生として来ていただきました。都合のいい時に皆さん来られて、コツコツと自分のペースで彫って完成させたんです」
工程の期間は3ヵ月ほど。例年、石川県のお盆が終わった7月の後半から始まるという。10月の「魂入れ」の前日までに仕上がれば、どのようなスケジュールでも構わないそうだ。夏休みの宿題のようにラストで一気に仕上げる人もいれば、毎日少しずつ地道に彫っていくという人も。彫るペースもバラバラだ。
「目鼻口があって、額にぽつんとね、あの『白毫(びゃくごう)』があればOK。基本ルールはそれなんですね。あとはどう彫ろうがお好きに彫っていいですよと。コンテストじゃないので、自分の思うところで彫ってくださいと」
そうなると、最初の「石を選ぶところ」が肝心といえそうだ。
だが、こちらで石を選ぶことはできない。境内に50個ほど石が並べて置かれ、あとは天に任せるのみとなる。
「皆さんにくじを引いてもらうんです。どんな石が当たるかも縁なんですよね。大きいのが当たったり、小さいのが当たったり。目が粗いのとか、細かいとか。それによって彫りやすかったり、彫りづらさがあったりもしますので。でも、それは本当に自分が受けた縁だと思ってね、やってくださいっていうことで」
つい、隣の人の石を見て、羨ましいと思うこともあるだろう。だが、そうではないのだ。
「やっぱりね、この世の中、うまくいかないことは当たり前ですから。『何で?』ってそこに執着し過ぎないで、じゃあ次どうしようと。執着の『苦』から離れるのが仏教の教えですから。あるがままを受け入れられるようにっていうのも、石を彫りながら学べることじゃないかなと思います」
それにしても、興味深いのは、当初の目的が次第に変化していくコトだ。
当初は「石仏を彫る」のが目的だった。だが、如来寺を通じて多くの人が交流し、その輪が広がった。例えば、囲碁好きな男性2人が意気投合し、如来寺で石を彫りながら碁を打つこともしばしば。なんなら、この石彫りが縁で結婚された方もいるという。どれも実際の話である。
他にも、生活リズムの1つに組み込んだ人もいる。朝に家族を送り出してからバスで如来寺に到着。10時から2時間彫って、開放された本堂で昼食を取り、ちょっと一休み。それから、帰り道にスーパーに寄って家に帰る。
「皆さんでお茶を飲んでたら、横の方と初めましてって。そこからお友達になったとか。全くうちのお寺のお檀家さんではなかったんですが、それがご縁でお檀家さんになられたとか。本当に色んなご縁を仏さんにつないでいただいて。この取材もね、縁ですしね」
まさしくその通りだ。そうかそうかと、これで話が終わったと思いきや、さらなる続きがあった。
「10年かけて500体以上が彫れたんですね。完成記念のパーティをしまして。そしたら、その席上でですね。10年間彫ってきたが、11年目の夏からすることがないと。これを、もうあと10年やってくれないかと」
このような声を受けて、今度は「奉賛会(ほうさんかい)」という会を立ち上げて、さらに10年もの間、石を彫ることが続いたという。
「途中からね、その参道の石がなくなってどうしようかと。すると、うちに出入りしてます石屋さんがですね、無縁になったお墓。無縁墓って言うんですが、下の土台の石をそのまま廃棄してたそうで。それを彫りやすい大きさに全部切ってくださってね。今度は手を合わされなくなった墓石を信仰の対象にしようと。手を合わせてもらえるようにです」
こうして、また10年の月日が流れ、とうとう石仏は1,000体以上に。
「まだ少し石が余ってたもんですから、また彫っていいと。その石がなくなるまでということで、去年までちょこちょこ続いてまして。1,034体から少しずつ増えてますので、今は恐らく1,050体、1,060体ぐらいまでなっていると思います」
実際に、石仏群を見せていただいた。
境内を通り抜け、着いた先には想像を超えた風景が広がっていた。
思ったよりも背丈は高くない。座って彫るのにちょうどいい大きさだ。元々500体のはずが、1,000体を超えるとは。この石仏群にどれほどの思いが込められているのかと思うと、自然と背筋がシャキッと伸びてしまう。
1体、1体、じっくりと見せていただいた。
「作風もね、その年によってちょっと違ったりするんです。たくさんお顔があって、2体、3体がひっついてたりとか、あと、つるつるに磨き上げるのが流行った年もありましたね。その年によって傾向があって、誰かがやったら、これいいなと、やってみようって。皆さんだんだん新しい技法を編み出していくんです」
「石仏さんは外にありますので、24時間365日。誰でも見ることができます。それこそ雪が積もって雪に埋もれている写真を撮りに来られたり。お花が咲いてる時も、おいでになりますね」
吉田住職曰く、年代が古いと苔むしていい味が出てくるのだとか。
そんななか、2度見してしまうような石仏群も。またこれが新しいのだ。
「すごく……うまくて。なんだか、半端ない玄人感ですねえ」
「そうそう。最初の頃の仏さんはすごく素朴なんだけど……。手作業で作ってた頃と、工芸製品になってるくらいの違いがね」とご住職も苦笑気味。
「皆さん、色んな理由で彫られてね。例えばご主人さんを亡くして供養のために彫ったと。完成してね、自分はご主人さんのためを思って彫ったんだけど、今度は、色んな方がまた違う思いを持ってその石仏に手を合わせる。そうなると、もう自分のものじゃなくなるんですよね。魂入れをして安置されると万人の信仰の対象物に変わるんです。そこが非常に不思議というか、感慨深いというか」
自分の彫った石仏に手を合わせる人々の姿。
「理由があって彫って、それが祈りの対象になること自体に、ものすごく心が震えるというか。そういう思いを持ったとお聞きしてますね」
ちなみに、吉田住職も彫られたのだろうか。
「私も1体彫りました。ただ、その時はまだ副住職の時で。彫ろうと思うとね、先代住職から、彫り出して数分で声がかかるわけですよ。みんなに飲み物を買ってこいとか。なかなか腰据えて彫ることができなくて、結局、ラスト3日ぐらいで完成させました。それ1回だけです」
「実際彫られてみて、感想は?」
「奥村住職が言われたのが、何か形を作り出すというよりは、彫っていると自然に中から仏さんが出てくると。確かにね、自分ではこうしたいなと思うけど、彫り上がったら全然違う形になっている。でもそれはそれで、すごく自分の中でも納得できる形だし。だから、石の中に埋もれていたその形を、何かご縁があって、自分がうまくその形にできたのかなって」
その話を聞くと、正直、私も石仏を彫ってみたくなった。
一体、どのような姿の仏様が出てこられるのか。ある意味、自分の心の内側を覗くようだ。瞑想にも通ずる何かがあるのかもしれない。
惹きつけてやまない?ご住職の人柄
「面白いですよ。色んな方がわっと来て、色んな風になっていく。またね、如来寺に初めて来られた時と、彫るのが終わった時の様子が違ったりするので。どんどん色んな人の縁ができていきます」
如来寺を出発点に、人が繋がっていく。なんだか、人と人を繋ぐ「ハブ」のようだ。もちろん、如来寺の存在ありきなのは当然なのだが、やはり、そこはご住職の人柄が自然と人を惹きつけるのだろう。
そんなご住職、じつは会社員の経験があるという。
「高校2年の冬ですね、正式に僧侶の資格を取ってと師匠の先々代(ご住職の伯父にあたる方)に言われまして。さすがにやっぱり、当時17歳の私は嫌ですと面と向かって言えずに……。僧侶系の関東の大学へ行って、そのまま関東の会社に就職しました。師匠が亡くなって、自分の父親が住職になるということで。師匠には何も恩返し的なことはできなかったので、会社に転勤を願い出てこっちに戻ってきました。同時に休日には副住職としてお勤めしようと」
その後しばらくして、会社を退職。令和に入ってからは代替わりをされ、34代住職に。
一体、どのようなお寺を目指されているのだろうか。
「本来、お寺というのは、色んな方がおいでで。一休さんって、お寺にみんなが来てそこで何かドラマが始まるでしょ。あれと同じで、何かあったら如来寺に集まる、そんな場所にしたいです」
さらに、吉田住職の言葉が続く。
「例えばお葬式とかでも、なぜお戒名が必要かとかね。皆さんあまりご存知ない。噺家さんになりたかったら、噺家さんのねお弟子さんになって、芸名をもらうでしょ。それと同じで、仏さんの国に行くんだから、仏さんの弟子になったら、そのお名前をもらう。それは仏さんの言ってる『戒』、規則を守るための名前だから『戒名』って言うんだよと。そうやって色々と仏教のことを話していきたいですね」
ちなみに、この「戒名」、本来であれば生前に受けるものだとか。ただ、亡くなってから仏様の国、つまり浄土へと行くのだから、その時に戒名授与のお参りがなされるという。
「よく戒名ね、ちょっといい名前とか、長い名前を頼んだらお金がかかると言いますよね。戒名は、お寺にどれだけ、仏教にどれだけ帰依して貢献したかを表す名前なんですね。ですので、極論を言えば、お金を払わなくても毎日30年間とかお寺の参道を掃除したらつくんです。ただ、今日会ったばっかりの方であれば、お寺への寄進しかないんですよ。この方はこれだけお寺にお布施をしてくださったから、この名前が付きましたと。ただそこが全部抜けて、お金だけが高いって話になってしまう。もっと話ができる機会があればね」
確かに、なかなか落ち着いてそんな話を聞く機会は少ない。
「友達なんかも、お花が咲けば石仏を見に来て。近所のパン屋に寄ってきたよって顔を見せてくれて。そうやってお寺にね、まずどこでもいいから1ヵ所行くと、自分のお寺も行きやすくなる。仏教に対して、色んな入り方をしていいと思うんです。そうやって多くの人に興味、関心持ってもらうようなお寺になっていけたらなと思います」
こうして、2時間にわたる取材は無事終了。
なんとも名残惜しい法話、もとい、取材であった。
取材後記
じつは、取材の途中、ある話で吉田住職と盛り上がった。
「本当に皆さん面白い。お坊さんって、職業じゃなくて、生き方ですよね。最初は本当に嫌で嫌で仕方なかったのが、今は楽しくて仕方がない。色んな業種の方々ともお話しできるし。だから、そういう意味では、同じ世代の人よりもちょっと面白い体験とか生き方とかさせてもらえてるのは有難いなって。その人と一緒じゃないと見れない場所からの景色が見れたりするので。それを自分の中に取り込んで、また皆さんに何か還元できたらと思います」
これは、私も同じく思うところだ。
取材では、様々な異業種の方にお会いする。普段であれば出会えないような方とお話をして、その経験を共有させてもらう。彼らの話のすべてが、私の人生の財産だと感じている。
だが、吉田住職は、こうも続けた。
「会社での仕事は、病院回りの営業してたんですよ。担当の助教授の先生がね、うちで石仏を彫られてたんですよね。月~金は病院で会ったら僕が先に頭を下げて。逆に土日に先生がここに来て、副住職として法衣をつけた私と会ったら、先生が先に頭を下げるんです。同じ人間なのに、場所と立場が変わったら、こんなことがあるんだなと」
「客観的に見れば、おかしな話ですよね」
「そう。でも、これって怖いなと。法衣ってすごい怖いなって。中身が一緒なのに、着ているものでそれだけ違うって、衣の力ってすごいよねと。だからそれを自分の力と過信しないようにしなきゃいけないなって、今も思っています」
ドキリとした。
別に、私自身になんら権力などないのだが、それでも、なぜか戒めのように聞こえた。
心に手を当て、自分に問うてみる。
「取材」だからと、相手に会ってもらえることを当然だと思っていないか。
「記事」だからと、読む人の時間を奪うという意識が薄いのではないか。
こうして、毎回、自分自身を振り返ることができればいいのだが。つい、時間が経てば忘れてしまう。
そして、また様々な出会いを通して、自分を省みる。
それこそが、現世での修行なのかもしれない。
基本情報
名称:如来寺
住所:石川県金沢市小立野5-1-15
公式webサイト:なし