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6,7月号2025.05.01発売

日本美術の決定版!「The 国宝117」

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2025.04.21

「日本こいしや、こいしや…」江戸幕府に国外追放された、ジャガタラお春の逆転人生

この記事を書いた人

平戸の海。

今、まさに。
目の前に広がるこの海が。
恐らく、彼女が日本で最後に見た景色なのだろう。

ここでいう「最後」とは、死ぬ間際という意味ではない。
故郷の日本を離れる最後の日ということだ。
それも自分の選択ではなく、理不尽にも江戸幕府によって国外追放となる日である。

長崎県の北西部、平戸島付近の海

生まれ育った日本から追放されるとは。
きっとよほどのことをしでかしたに違いない。そう思うだろうか。

だが、彼女は何もしていない。
毎日を、ただひたすら生きていただけのこと。
あえて理由を1つ挙げるとすれば、生まれた時代が悪かったといえるのかもしれない。

江戸時代初期。
日本は、大きな外交政策の転換期にいた。
キリスト教の禁止、貿易の統制と管理。
その先に見据えるのは、徳川一強時代の確立だ。相次ぐ命令を発布し、江戸幕府は閉鎖的ながら強固で集権的な権力の礎を築いていく。
この外交政策により、日本人の生活は大きく制限された。日本人の海外往来は禁止、在外日本人は帰国もできない状況へと追い込まれたのである。

ただ、これ以外にも。
じつは、これまであまり注目されなかった措置がある。
それが「ヨーロッパ人妻子ら血縁関係者の国外追放」だ。

自らの意思とは関係ない「出生の事情」。
「血縁」というそれだけの理由で、日本から妻子たちが身一つで追放されたのである。

その中に、当時15歳(14歳とも)の「少女」がいた。のちに「ジャガタラお春」という名で、日本で一躍有名になる女性。
本名を「はる」、現地では「ジェロニマ・マリヌス」という。

遥か遠い異国の地で。
その後、彼女はどのような人生を送ったのか。
今回は、そんな追放された「はる」の人生をできる限り追ってみた。
長崎から平戸、そしてバタヴィア、つまり、現在のインドネシアのジャカルタまで。

──そこには
私たちの想像とはかなり異なる、「逆転人生」が待っていたのである。

※冒頭の画像は平戸港にある「じゃがたら娘像」です
※本記事の写真は、すべて「平戸オランダ商館」「万寿山 聖福寺」に許可を得て撮影しています
※本記事は「はる」の表記で統一しています

「はる」が生まれ育った長崎の町を訪ねて

まず、訪ねたのは、長崎市内のとある町。
JR長崎駅より市電で3分ほど。降車した「桜町」駅より坂道をぐっと上がっていくと、石畳の道が横に伸びている。この「筑後通り」周辺が、当時、はるが住んでいたとされる長崎市筑後町、現在の玉園町だ。

筑後通りの山側には寺が幾つか並び、近くには長崎歴史文化博物館や諏訪神社もある。現在は観光客も立ち寄るスポットの1つとなっている。

当時の筑後町町付近(現在の玉園町)

白石広子著『じゃがたらお春の消息』によれば、はるの父はイタリア人のニコラス・マリン。ポルトガル船の航海士をしていたが、のちに何らかの事情で職をやめたとか。どうやらポルトガル社会から離れ、イギリス人やオランダ人らに近しい生活をしていたようだ。

母は長崎の貿易商、小柳理右衛門の娘。洗礼名はマリア(マリヤ)だが、日本名は不明だという。夫の事情に合わせたのか、日本での届出名簿にはイギリス人の女房と名乗っていた様子がうかがえる。
そんな彼らの間に生まれたのが「はる」と姉の「万(まん)」。姉は4歳ほど年が離れており、現地では「マダレナ(マグダレナ)」という名で記録されている。

はるの両親は、俗にいう国際結婚だったが、その幸せは長くは続かなかった。
というのも、父のマリンが病気で死去。こうして、母と姉は母の弟の家へ。はるは小柳理右衛門の養子となり、この付近に住んでいたものと思われる。

父を亡くしたはるだったが、それでも細々と暮らすことができた。
母の実家もあるし、親戚もいる。それに近所の友人らもいる。自らを支える信仰もある。亡き父はイタリア人だが、なんといっても、ルーツの1つはこの日本なのだ。生まれ育った土地で、時折、父との思い出に触れながら人生を歩んでいく。はるも、そう思っていたことだろう。

大それた願いではない。
平凡だが、ささやかな幸せ。
そんな少女の未来を、江戸幕府はいとも簡単に壊したのである。

歌川芳虎画  「徳川家御代記」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

次第に激しくなるキリスト教禁止の荒波。
それは、当時、国を越えて結ばれた夫婦やカップルにまで及ぶこととなる。

まずは寛永13(1636)年8月、ポルトガル人の血統の子どもらをマカオに追放。
ちなみに、父親がポルトガル人で、母親が日本人の場合、母親は日本に留め置かれたため、母子が生き別れとなるケースもあったという。

さらに、運悪く。
その翌年の寛永14(1637)年。長崎県の島原地方、熊本県の天草地方で、農民やキリシタンらの一揆が起こる。有名な「島原・天草一揆(旧名「島原の乱」)」だ。長崎のみならず江戸を揺るがす大事件となり、江戸幕府はより一層、禁教の動きを強化する。

こうして、寛永16(1639)年。
イギリス人や、貿易の相手国として認められていたオランダ人らの妻子たちを、バタヴィア、現在のインドネシアのジャカルタに国外追放。今度は、日本人の母親も含めて国外へと放り出されたのである。

オランダのハーグ公文書館に所蔵されている文書には、実際に追放されバタヴィアへと渡った31人(32人とも)の記録があるという。以下がその内容だ。

「一六四〇年一月一日、スヒップ船、ブレダ号で日本からバタヴィアにきた結婚しているもの、その他と子供達の覚書」の中に、「長崎のマリヤ(亡イタリア人を夫とする)、娘マダレナ(十八歳、メーステル・マルテンとの子供は台湾に留め置く)、ジェロニマ(十五歳)」と記載されています。
白石広子著『バタヴィアの貴婦人』より一部抜粋

こうして、ひっそりと。
はるは、母と姉と共に、強制的に国外へと追放された。
そして、日本から忘れられた存在となる……。
……はずだった。

「ジャガタラお春」が有名になった理由

それなのに、である。

「今日撮影した『長崎物語』のお菓子って、どういう繋がり?」
珍しく屋内撮影をしたからだろう。
取材地に向かって歩く隣で、いつもの如くカメラマンから質問が飛んでくる。

いきなり話題が変わって恐縮だが。
「長崎物語」とは、長崎土産の中でもカステラに次いで有名なお菓子の1つである。クリームを巻いた焼き菓子で、柑橘類の風味がアクセントとなり、非常に美味なのだ。今回の記事に使用するため撮影したのである。

長崎銘菓「長崎物語」

ちなみに「長崎物語」といえば。
同じタイトルの歌をご存知の方もいるかもしれない。
発表されたのは昭和14(1939)年のこと。由利あけみ氏の「長崎物語」だ。参考までに、その歌詞の一節を抜粋しよう。

赤い花なら曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
阿蘭陀(おらんだ)屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の ああ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
…(中略)…
平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの ああ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
(「長崎物語」の歌詞より一部抜粋)

おっと。
どういうコトだ。
って、ヤラセ的で大変申し訳ないのだが。
この歌に登場する「ジャガタラお春」に注目していただきたい。

ジャガタラとは「ジャカトラ(現在のインドネシアのジャカルタ)」のこと。オランダ領時代には「バタヴィア」と呼ばれていた地名だ。そして、はるの追放先でもある。
つまり「長崎物語」という歌は、バタヴィアに国外追放された、はるの心情を歌い上げたモノなのだ。

それだけではない。
先ほどご紹介した長崎市筑後町(現在の玉園町)。
その筑後通り沿いの「万寿山 聖福寺(しょうふくじ)」にも「ジャガタラお春」にまつわるモノがあるという。
早速、取材へと向かった。

「万寿山 聖福寺」山門 / 説明版 / 「万寿山 聖福寺」天王殿 / 廃材の瓦を積み重ねて作られた「瓦壁(かわらべい)」

コチラの聖福寺。
日本に黄檗宗を伝えた「隠元(いんげん)禅師」の孫弟子が創建したとされ、境内は映画『解夏(げげ)』のロケ地にもなったとか。
山門や天王殿などは国指定重要文化財となっており、さすが目を引く外観である。

そんな聖福寺の境内にあるのが、「ジャガタラお春の碑」。
昭和27(1952)年5月26日に建てられた石碑である。
歌人の吉井勇氏が「ジャガタラお春」で有名となった「はる」を偲んで、「長崎の鴬(うぐいす)」という5首の歌を詠んだという。そのうちの1首がその石碑に刻まれているというのだ。それがコチラ。

「長崎の 鶯は鳴く 今もなほ じゃがたら文の お春あわれと」
(白石広子著『じゃがたらお春の消息』より一部抜粋)

それにしても、疑問である。
「はる」は国外追放の身。知らぬ間に日本から追放され、忘れられた存在のはずだ。それなのに、歌謡曲にしろ、石碑にしろ、どうして「ジャガタラお春」として、こうも世間に広く知られているのか。

じつは、そのカギとなる人物がいるのだ。
「はる」を「ジャガタラお春」として世に送り出した男。
その名も「西川如見(じょけん)」。
慶安元(1648)年に長崎で生まれたとされる、江戸時代中期の天文学者、地理学者だ。一時期、8代将軍「徳川吉宗」に仕えたという経歴を持つようだ。

彼は、隠居後に多くの作品を執筆した。
そのうちの1つが、享保5(1720)年成立の『長崎夜話草』だ。5巻から成り、江戸期の長崎や異国に関する見聞を、子に口述筆記させたものである。この中で、如見はある手紙を紹介している。国外追放先のバタヴィア、つまり「ジャガタラ」から送られてきた手紙。今では「ジャガタラ文」と呼ばれる手紙だ。

詳細は後述するが、とにかく手紙の内容は悲劇そのもの。
日本が恋しい、毎日泣いてばかりいるなど、涙なしには語れない内容なのである。その手紙の差出人とされたのが「はる」。これ以降、彼女のジャガタラ文は後世まで語り継がれることとなる。
こうして、はるは「ジャガタラお春」として有名になり、この悲劇のストーリーは手を変え品を変え、様々な形へと派生した。

今こうして聖福寺の境内で、私たちが必死に探している「ジャガタラお春の碑」もまさにその1つ。
あいにく、聖福寺は大規模工事中。プレハブが建てられ、シートに覆われた寺の境内は、その全貌が全く掴めずカオス状態。そんな中で、石碑探索にカメラマンと右往左往する事態となった。

上から下へと階段を往復すること15分。
その甲斐あって、ようやく見つけた「ジャガタラお春の碑」。

それでは、じっくりご覧いただこう。
コチラが、今回の記事のメイン画像となる……。
「……」

「万寿山 聖福寺」の境内にある「ジャガタラお春の碑」

互いに無言である。
なんなら、カメラマンは死んだ魚のような目をしていた。

まさかの、石碑に刻まれた文字はほぼ見えず。
背景も無機質なプレハブ。正直、メイン画像に使えるとは到底思えない。
確かに、取材のアポ取りの段階で、工事中だと告げられてはいたが。春なのに、汗が背中を滴り落ちる。

ヤバい、まずい、写真(え)がない。

黙り込む私を見て、カメラマンがぶっきらぼうに振ってきた。
「平戸に、本物の『ジャガタラ文』があるって?」
「はあ。まあ」(放心状態のダイソン)

「行くか?」
「えっ?」
「平戸」

近年でここ一番。
カメラマンが男前に見えた瞬間であった。
こうして、急遽、平戸へ行くことに。
まさしく、はるの足取りを追うことになったのである。

足取りを追って、いざ、平戸へ

長崎市内から車で3時間弱。
大村市、佐世保市を越えて、ようやくたどり着いた平戸港。

真っ赤な平戸大橋を初めて渡ったが。
今更ながら、平戸が「島」であるコトに気付いた。つい陸続きかと勘違いしそうではあるが、地図で確認すると、九州本土の西北端にある「タツノオトシゴ」のような形をした島が「平戸島」。そして平戸港は、その島の最北東にある。

海沿いの駐車場に車をとめると、まず目に入ってきたのが白い銅像だ。
「じゃがたら娘像」とある。
しめしめ。
これで、今回の記事の写真が確保できたと、ひとりほくそ笑む。

平戸港にある「じゃがたら娘像」

「じゃがたら娘像」は、胸の前で手を組み合わせ、海の方を見ている女性の立像だ。
平戸市が設置した説明版は以下の内容となっている。

じゃがたら娘像
この像はジャガタラより望郷の念をジャガタラ文に託す娘の姿をしのび、1965(昭和40)年に建立した。
平戸市

そもそも、どうして平戸に「じゃがたら娘像」が建てられたのか。

これには、ワケがある。
じつにバタヴィアへと追放される船の出航は、この平戸からだった。そのため、はるたちは長崎から平戸へと移動させられたのである。
永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記(第四輯)』によれば、西暦1639年10月15日に一行が平戸に到着したというくだりがある。そして、同年10月31日に平戸より出航。

つまり、2週間ほどだが。
はるたちは、この平戸で過ごしたことになる。
ここでの生活が、彼女の最後の日本での暮らしとなったのだ。
一体、はるは、この平戸の地をどのように感じただろうか。
およそ385年の時を経て、実際に平戸の町を歩いてみた。

平戸市の情緒ある町並み / ロマンチックな外観の「喫茶 御家紋」

休日、それも晴天で桜も見頃の時期だったが、意外と人の姿はまばら。
町並みは飛騨高山のようなレトロな雰囲気で、非常にコンパクト。メインストリートをすぐに制覇することができた。

じつは長崎港よりも先に栄えたのが、この平戸だ。
平戸といえば、オランダ東インド会社の日本支店である「オランダ商館」が建てられた場所としても有名だ。どうにも「出島」のイメージが強いが、じつは最初に設置された場所がこの平戸なのだ。

慶長14(1609)年に江戸幕府から貿易を許可され、平戸に設置された「オランダ商館」。当初は土蔵のついた家1件を借りていたようだが、次第にその規模が拡大。最終的には、民家72戸分を立ち退かせ、商館を建設したといわれている。一時期、交易が途絶えたこともあったが、その後再開。大きな倉庫なども建設され、オランダとの貿易が順調だったことがわかる。

そんな当時のオランダ商館の遺構があるという。
オランダ商館通りを進むと、左手に案内板が見えた。どうやら坂のようだ。

オランダ塀の案内板 / オランダ塀 / 桜と平戸城

漆喰(しっくい)で塗り固められた塀。通称「オランダ塀」だ。この高さ2mの塀の東側に、当時のオランダ商館があったという。外部からの目隠しのため、また延焼防止のために造られた塀だとか。

満開の桜も相まって。
見事な景色に思わず足が止まる。
向かいに見えるは平戸城。ただ、慶長18(1613)年に焼失し、その後100年間は築城されなかったというから、はるが見た景色の中にはなかったのだろう。

坂の中腹には「日蘭親交記念碑」があり、「ジャガタラの道」という謎めいた表示が見える。
じつは、オランダのみならず。
平戸には、一時期、イギリスの商館も設置されていたという。その後、イギリスは貿易競争に負けて撤退するのだが。最盛期の平戸は、西欧人が行き交い、自由で活気ある雰囲気の町であったと推測できる。

坂の中腹付近にある「ジャガタラの道」 / 向かいに見える平戸城 / 上まで続くオランダ塀 

だが、江戸幕府は方針を転換。
禁教令の取り締まりも厳しくなり、平戸にもその影響が直接及ぶことに。
というのも、寛永17(1640)年11月。平戸のオランダ商館のすべての建物の破壊が命じられるからである。

どうやら、前年に建造された倉庫に西暦の年号が使用されているという名目でのこと。あっという間に平戸のオランダ商館は閉鎖され、寛永18(1641)年には長崎の出島へと移転。それ以降、オランダ商館の人々は出島から自由に出ることが許されず、長崎奉行の厳しい監視下に置かれることになる。

平戸のオランダ商館の跡地には、その後、船の操舵を行う下級武士の屋敷「御船手屋敷(おふなてやしき)」が建てられたという。
これら一連の騒動は、ちょうど、はるたちが国外追放となる年の前後と重なる。

御船手屋敷石塀

はるが見た当時の平戸の景色。
それは、徐々に自由が狭められ、これから訪れるであろう「受難」を予期するモノだったに違いない。

こうして、わずか2週間の平戸での生活を終えて。
西暦1639年10月31日、はるたちを乗せた「スヒップ船ブレダ号」が出航。
最新式のオランダ船で非常に優秀な船だったようだ。
西暦1640年1月1日、無事にバタヴィアに到着。

「停泊中のバタビア号(複製)(原典アムステルダム国立博物館)」 【平戸市所蔵】 (平戸オランダ商館の展示より)
実際にはるたちが乗船した船とは異なるが、当時の船をイメージすることができる

それから数十年が過ぎ去って。
西川如見により「はるの手紙」が世間に知られることに。

なお、手紙に具体的な日付はなかったが。
文中では、国外追放されてからはや3年の春が過ぎたという内容が書かれている。
つまり、手紙が書かれた当時、はるは未だ10代であったようだ。

さて、ここで。
ようやく、かの有名な「千はやふる、神無月とよ」という名文から始まる彼女の「ジャガラタ文」をご紹介しようと思ったのだが。とにかく長い。かなりの長編である。なんでも3000字余りあるというではないか。

そこで、一部分だけをご紹介。
世に広く知られた「あら日本恋しや」という最後の箇所を抜粋する。

一、松かさ この手かしわのたね 杉のたね はうきぐさのたね 御ゐんしんたのみ参らせ候。かへすゞなみだにくれてかき参らせ候へば、しどろもどろにてよめかね申べく候まゝ、はやゝ夏のむしたのみ入候。我身事今までは異国の衣しやう一日もいたし申さず候。いこくにながされ候とも、何しにあらゑびすとは、なれ申べしや。あら日本恋しや、ゆかしや、見たやゝゝ。
じゃがたら はるより
日本にて おたつ様 まゐる

(口語訳)
一、松かさ、このてかしわの種、杉の種、ほうき草の種を折り返しお送りくださいませ。涙にくれながら書いておりますので、文もしどろもどろで読みにくいことと思いますが、もう夜明けも近く、夏の虫も目がさめたようです。私は今まで異国の衣装など一日たりとも着たことはありません。異国に流されてはおりましても、どうして、野蛮人になれましょう。ああ日本が恋しい。なつかしい皆様にお会いしたい。恋しい、恋しい、日本。
じゃがたら はるより
日本の おたつさま 御もとへ
(白石広子著『じゃがたらお春の消息』より一部抜粋)

最後の箇所のみをご紹介したが、手紙全体がこの調子。基本、嘆き節である。
故郷を追われたはる。
嘆き悲しむのは仕方のないコト。もちろん、そう理解することは簡単だ。

だが、それは真実なのか。
彼女は本当に哀れな末路をたどったのであろうか。
その後のバタヴィアでの彼女の人生とは、どのようなものだったのか。これは、次項に譲ることにしよう。

バタヴィアでのはるの人生

さて、バタヴィアで始まった、はるの新たな生活。
そのヒントが「平戸オランダ商館」にあると聞き、早速、向かった。

コチラの「平戸オランダ商館」は復元施設だ。
大正11(1922)年に「平戸和蘭商館跡」として国の史跡の指定を受け、その場所に当時の倉庫が復元されたという。
偶然、雲一つない晴天だったからか、真っ白な壁面が空と海に映えて眩しいほどである。受付の方の衣装も異国風にアレンジされ、益々気分が盛り上がった。展示品はどれも興味深いモノばかり。激動の平戸をじっくり堪能することができる施設である。

「平戸オランダ商館」(復元建物)

さて、話を戻そう。
国外追放の受け入れ先となった「バタヴィア」。
布野修司著『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転成』によると、当時のオランダは、植民地の拠点の維持として日本人を招致する方針を立てていたという。資料によると、確実に日本人だと判明している人数は、西暦1620年は総人口2,000人のうち日本人は71人。1623年は総人口2,195人のうち日本人は159人、1632年は総人口8,058人のうち日本人は108人。これ以外にも、各年、日本人かどうか判明していない人たちもいた。次第に総人口が多くなっていくなかで、全体を把握するのは難しかったようだ。
一方でオランダに雇用されてバタヴィアに移送された日本人らを含めると、およそ300人の日本人がバタヴィアに居住していたと推定する研究者(岩生成一氏)もいる。

そんな状況で、日本から追放された妻子たち。
元々、日本人に対して歓迎ムードが漂っていたところ。今度は、ヨーロッパの人々を父に持つ子どもらが到着したのである。さらなる熱烈歓迎はいうまでもない。

西暦1640年1月8日付のバタヴィア総督府の報告書には、当時の総督のコメントが以下のように記されている。

「報道によれば、キリスト教のため、日本から追放されるべき日本人は四百人をこえるそうである。この人達はバタヴィアにおいて随分役に立つであろう」と言った
(白石広子著『じゃがたらお春の消息』より一部抜粋)

ただ、役に立つワケではない。
じつは、はるたちは、違った意味で、かなり注目の的となっていたのである。
というのも、当時のバタヴィアは圧倒的に女性の少ない社会。さらに、白人の女性たちは、熱帯の気候に耐えられず、若くして命を落とす人も。そのような状況で、バタヴィアで働くオランダ東インド会社の社員らは、次第に現地の女性と結婚することが多くなってきたという。

そこに、ヨーロッパの人々を父に持つ妙齢の女性らが来たとなれば。もちろん、彼らの熱い視線は彼女たちに集中する。ぶっちゃけ、はるや姉のまんなどは、結婚相手として非常に魅力的だったのである。
裏を返せば、このバタヴィアで彼女たちは結婚相手を自由に選べる立場となったのだ。

東南アジアにおけるオランダ商館所在地の地図(平戸オランダ商館の展示より)

それでは、実際にはるたち姉妹は、どのような家庭を築いたのだろうか。
現地に残された様々な記録。教会の婚姻簿や洗礼簿、また土地建物の賃貸借契約書、遺言状などから、その足跡を追った。

まず、姉のまんは、日本人と結婚。
相手は、当時のバタヴィアでかなりの有力者と思われる「村上武左衛門」という男性だ。彼はバタヴィアの現地情報を長崎奉行所宛に報告していることから、日本とオランダの橋渡し役として重要人物だったようだ。
ただ、まんは結婚して3年後に死去。

一方のはるはというと。
ジャカルタ国立文書館にある「オランダ人婚姻簿」に、以下の記録がある。

一六四六年、十一月二十九日、バタヴィアの教会において、会社の事務補で平戸生まれの青年、シモン・シモンセンと長崎生まれの若い娘、ヒエロニマ・マリヌスが結婚した。
(同上より一部抜粋)

はるが21歳の頃だろう。
夫のシモン・シモンセンは、平戸生まれ。
父親は平戸のオランダ商館に勤務しており、はると同様にシモンも国外追放の身だったという。結婚当時、彼はオランダ東インド会社で事務補をしており、その後、順当に出世。最後は税関長の職にまで昇りつめた。退職後はフライト船を所有し、私貿易にて順調に利益を上げ、裕福な生活を送っていたようだ。
はるとシモンは子にも恵まれ、確実な人数は不明だが、3男4女の存在は確認できる。
ただ、はるが46歳の頃にシモンは死去。その後、彼女が再婚したという記録は見当たらない。

その後、西暦1692年。はるが67歳の頃の話である。
彼女は公証人を自宅に招いて、遺言書を作成している。はるの自筆の署名も確認でき、はるが実在した証拠にもなる書類だ。

内容はというと。遺産を娘のマリヤと孫3人の合計4人で分けること、また奴隷には自由を与えることなどが書かれている。この遺言書作成時点で、はるの子どものうち娘1人だけが生きていたようだ。
それにしても、夫のシモンが残した遺産は相当な額だったのか、晩年も奴隷を有するほど裕福な生活をしていたことが分かる。

そんなはるの生活を想像するヒントとなる絵画がある。
「平戸オランダ商館」に展示されているコチラの作品。
その名も「クノル家家族肖像画(複製)(原典アムステルダム国立博物館)」だ。

「クノル家家族肖像画(複製)(原典アムステルダム国立博物館)」 【平戸市所蔵】 (平戸オランダ商館の展示より)

ちなみに、この肖像画は、はるの家族を描いたものではない。
はるよりも2年前に、日本から同様に国外追放された「コルネリア」という女性の家族の肖像画である。中央の男性が夫、その右横がコルネリアだ。身に着けている衣装、右端に描かれた奴隷の存在など、この絵画から彼女がかなり裕福な生活をしていたことが読み取れる。はるとコルネリアは同じ境遇ということもあり、親しかったようだ。当然、はるもこの絵画のような生活を送っていたと推測できる。

そんなはるの人生の終焉はというと。
残念ながら、具体的に死去した日付は分からない。ただ、西暦1697年4月25日時点で、直近に故人になったという記録がある。そのため、恐らく、彼女は72歳頃まで生きていたと考えられる。

今回の記事のきっかけとなった「ジャガタラお春」のイメージ。
だが、彼女のバタヴィアでの人生を追うと、それは悲哀に満ちたものではなかった。
むしろ、生活のレベル、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)だけを切り取れば、当時の日本と比較して非常に裕福な生活だったといえるだろう。

そういう意味では。
はるが書いたとされる3000字余りのジャガタラ文は、これまで多くの方々に指摘されている通り、如見の偽作であることに間違いはなさそうだ。

そもそも内容自体にニセ情報を含んでいる。
例えば、平戸から出立した日の天気にしてもそうだ。ブレダ号の記録では「かなりよい天気」となっているが、如見が紹介したはるの手紙では「時雨」となっており、いかにも涙を誘う雰囲気を狙っているようにも受け取れる。

「シモンス後家 おはるより」という、はるの別の手紙(「写し」のみ現存)は、全体的に仮名書きで、贈り物の指示なども現実的だ。両者を比較すると、如見の紹介した手紙は、全体的にやたらと情緒的で、なおさら違和感がぬぐえない。古歌を挟み込み、14、5歳で日本を離れた少女が書いた文にしては、あまりにも整い過ぎているのだ。「如見の創作」という多数の指摘は、まさしく的を射るといえるだろう。

ただ、はるに関わりのあった人たちの名前などが書かれている点を考慮すると。
はるよりも22歳ほど年下だったという如見。同じ長崎で、生きている年代も部分的に重なっていれば、はるの手紙に接する機会があったのかもしれない。完全なる創作ではなく、追記や修正という可能性も十分考えられる。

「じゃがたら娘像」

それにしても、1つ気になることがある。
もし、西川如見が何らかの手を加えたとすると、一体、その理由は何だったのか。
彼の真意が分からないのである。彼の人間性を熟知しているワケではないが。いたずらに世間の興味を引くことが目的ではないと思うのだ。

確かに、如見が夜中にノリ過ぎて筆が止まらなくなったんじゃね? と疑うのも分かるが。ここまで感情に訴えかけるには、はるの手紙を介して何か伝えたいことがあったと解することもできる。

普通に暮らしていた人々が突然、国を追われる。
そんな悲劇を二度と繰り返してはいけない。
このような気持ちがあったのかもしれない。

いつの世も、結局、理不尽な目に遭うのは弱者である。
ふと、自由の代名詞であった、かの大国を思い出した。
今こうしていても、現実に国を追われる人々がいるのだから。

人間の業とはなんと深いものなのか。
こうして、長崎から平戸まで一連の取材が終了した。

取材後記

再び故郷の地に足を踏み入れることが叶わなかった人たち。
個人差はあるものの、やはり望郷の念が強かったのだろう。
そんな彼らの気持ちが分かる遺品が「平戸オランダ商館」に幾つか残されている。

先ほどからご紹介している、バタヴィアに追放された人たちからの手紙。「ジャガタラ文」だ。
手紙の宛先は親戚など。いずれも、平戸という土地ならではといえるだろう。

コチラは「こしょろ」という人物の「ジャガタラ文」。更紗(さらさ)を縫い合わせた袱紗(ふくさ)に手書きで書かれており、非常に達筆だ。また先ほどの「コルネリア」の「ジャガタラ文」もある。併せてご紹介しよう。

袱紗に書かれた「こしょろジャガタラ文」 【個人蔵】 / 「コルネリアジャガタラ文」 【個人蔵】 (いずれも平戸オランダ商館の展示より)

「あっ」
撮影しながら、珍しくカメラマンが声を上げる。

気付かれた方もいるだろうか。
記事の最初の方でご紹介した長崎銘菓「長崎物語」。
えらく不自然な話題の転じ方であったが、じつはあのお菓子の包み紙が「こしょろ」の「ジャガタラ文」なのである。伊達に「長崎物語」という名前をつけたワケではないことを知り、感心してしまった。

「こしょろジャガタラ文」 【個人蔵】 (平戸オランダ商館の展示より) / 長崎銘菓「長崎物語」

さて、「こしょろ」の手紙の内容は以下の通りである。

日本こいしやゝ
かりそめにたちいでて、又とかへらぬふるさとゝおもへば、心もこころならず、なみだにむせび、めもくれゆめうつゝともさらにわきまへず候へども、あまりのことに、茶つゝみひとつしんじまいらせ候、
あら 日本こいしやゝ
こしょろ
うば様まゐる
(藤浦洸著ほか『平戸:人と歴史』より一部抜粋)

「日本こいしや、こいしや」と始まるこの手紙。
日本を離れ、二度と帰ることのできないふるさとを思うと、いてもたってもいられない。泣き過ぎて夢か現実かもわからないとの嘆きが心痛い。
このようなメッセージと共に、こしょろという人物は、現地から茶包を1つ贈ったようだ。

手紙の最後は、やはり「日本こいしや」。
そういえば、「ジャガタラお春」として名が広まるきっかけとなった「ジャガタラ文」も同じだった。
国外追放となった人々の思い。
それは、いくら月日を重ねても色褪せないものなのかもしれない。

バタヴィアの上流社会で、信仰を捨てることなく、はるは自由に生きた。
それがせめてもの救いだと思いたい。

異国の地で逞しく生きた人々に思いを馳せて。
もう一度、平戸の海を見つめた。

撮影/大村健太
参考文献
『平戸:人と歴史』 藤浦洸著ほか 淡交新社 1967年
『日本史探訪 第17集』 海音寺潮五郎(著者代表) 角川書店 1976年10月
『じゃがたらお春の消息』 白石広子著 勉誠出版 2001年7月
『長崎出島の遊女』 白石広子著 勉誠出版  2005年4月
『バタヴィアの貴婦人』 白石広子著 新典社 2008年5月
『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転成』 布野修司著 京都大学学術出版会 2021年2月

基本情報

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