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2020.01.04

ルーツは広島?大阪?実は東京!?お好み焼きの意外な歴史を巡るタイムトラベル!

この記事を書いた人

日本で「お好み焼き」といえば、主流となっているのが、広島スタイルと大阪スタイル。
お好み焼きの本家は、広島なのか? 大阪なのか?
この疑問を解くために歴史を遡っていくと、なんと予想外の東京!という結果にたどり着いてしまいました。

今回は、お好み焼きのルーツを巡る物語をタイムトラベル!しながらお伝えします。

弥生時代から小麦も食べていた日本!


日本を代表する庶民の味方的なグルメ「お好み焼き」に欠かせない小麦粉。
その原料となるのが小麦ですが、米が主食の日本人は、いつから小麦を食べていたのでしょうか。
まずは、弥生時代へタイムトラベル!

実は、日本でも実際に小麦が食べられるようになったのは、弥生時代の中頃くらいと言われています。
弥生時代といえば稲作を思い浮かべてしまう人も多いと思いますが、この頃には、水田での米作りと共に麦などの畑作も行われていたようです。

では、この当時の日本人はどのように小麦を食べていたかと言いますと、最初は重湯のようにして味わっていたとのことです。
今でいうオートミールのような食べ物ですね。

この時代から小麦は食べられていましたが、まだ、小麦を挽いて小麦粉にしてから調理するという技術は無かったようです。

小麦粉料理の誕生「煎餅」


奈良時代に入ると、中国の唐に留学をした吉備真備(きびの まきび)が日本に帰国して、小麦を挽いて小麦粉にする技術や、それを水で溶いて鉄板の上で平たく焼いた料理「煎餅(せんびん)」も我が国に伝えます。

文字だけ見ると「煎餅(せんべい)」と同じですが、それとは食感もかなり異なっている食べ物で、どちらかといえばクレープの皮のような食べ物とのこと。
しかし、この当時の日本では、小麦粉にする技術が伝来しても麺類や団子が人気となっていたので、煎餅(せんびん)のような食べ物が国内に定着するのは、ずっと先のこととなりました。

千利休が発案した「麩の焼き」


安土桃山時代に入ると、小麦粉が主体のグルメ「煎餅(せんびん)」が更に進化を遂げます。
この進化の立役者は、わび茶を完成させ「茶聖」とも呼ばれている茶湯の天下三宗匠の一人、茶人の「千利休(せんのりきゅう)」。

千利休は、水とお酒で溶いた小麦粉を平たく焼いたものを皮として、砂糖や山椒が入った味噌などをこの皮に塗りロール状に巻いたお茶菓子を提案し、職人に作らさせました。
このお茶菓子は「麩の焼き(ふのやき)」といい、お茶会や仏事用のお菓子として食べられていたらしいです。

お好み焼きと比べて、具と呼ばれるほどしっかりしたものではなく、しかも、お菓子の部類に入るものでしたが、これを「もんじゃ焼き」や「お好み焼き」の遠い祖先ともとらえる方もいるとのことです。

「お好み焼き」と「どら焼き」の起源と言われている「助惣焼」


江戸時代末ごろになると「麩の焼き」の皮に塗られていた特製味噌に代わって、もっと食べごたえがあるお餅などが餡(あん)種として使われるようになります。この発展により、水などで溶いた小麦粉を平たく焼いたものを皮として、お餅などの餡種を包んで焼き上げた「助惣焼(すけそうやき)」と呼ばれる和菓子が誕生。


この皮を焼く時、鉄板の代わりに金属製の丸い打楽器の銅鑼(どら)や、それに似た形状の鉄板で焼いたことから「どら焼き」という名前でも親しまれていました。こうした歴史的背景から、どら焼きのルーツとも言われているようです。

この時代に誕生した「餡種」により具となるようなものが加わり、お好み焼きのように具と共に皮を鉄板で焼き上げています。お菓子として分類されていたので、食事としてお腹の足しになる「お好み焼き」の性質とは異なりますが、お好み焼きに近づきつつありますね。

お好み焼きのルーツが東京と言われる理由の1つ「もんじゃ焼き」


明治時代の終わり頃になると、東京下町の駄菓子屋さんで「もんじゃ焼き」が販売されるようになり、これが大ブレーク!
当時の子どもたちは、ほんのわずかな裕福な家庭の子を除いて、文字を書いて学ぶのに必要な和紙を購入できなかったので、水で溶いた小麦粉で鉄板の上に文字を書いて勉強していたそうです。そんな最中に、駄菓子屋に大きな鉄板が置かれたのが、もんじゃ焼きの始まりとされています。
最初は、「水焼き」と呼ばれていたそうです。

駄菓子屋にある大きな鉄板の上に生地を流し、ヘラを使って文字の形にして遊びの中で文字を学びながら食べていたそうです。このことから「文字焼き」となり、「もじやき」、「もんじやき」などと発音された言葉が、最終的に「もんじゃやき」となり、「もんじゃ焼き」という名前になったとのことです。

もんじゃ焼きは、安土桃山時代の「麩の焼き」がルーツと言われています。
その証拠や名残りの1つとして、現在でも、東京下町のお好み焼き屋やもんじゃ焼き屋の老舗店などでは、「麩の焼き」の発展形の餡種が入った「助惣焼」を「あんこ巻き」として扱っているお店もあります。

最初のもんじゃ焼きの生地は小麦粉に蜜を混ぜて溶いたようなものだったので、お菓子として扱われていましたが、その後、生地の中に野菜などの具も入るようになると、子どものおやつでありながらも、お菓子では無い小腹を満たせる食べ物へと変化していきました。

お好み焼きを生み出すきっかけとなった東京発祥「どんどん焼き」


大正時代になると、「もんじゃ焼き」をさらに進化させた「どんどん焼き」が登場します。
もんじゃ焼きは生地がゆるいので、お持ち帰りにすることもできなかったり、移動販売にも不向きでした。もっと多くの人に移動販売しながら売ることができないかとやり手の商売人が考えた結果、もんじゃ焼きの生地の水分を抑えて固めに焼き上げた「どんどん焼き」が誕生!
お好み焼きよりは小さなサイズで、子どものおやつに最適なほどの分量のものでしたが、大人でも縁日などで食べ歩くのにも最適な食べ物であったとのことです。

屋台を中心に、ドンドンと太鼓を叩いて客寄せして販売していたことから、この名が付いたという説や、飛ぶようにドンドン売れることからこの名となったという説など、この名前の由来は色々とあります。
しかし、努力の結果もむなしく、沢山の商売人がいる競争率の高い東京では、「どんどん焼き」はあまりヒットしなかったとのことです。

そこで、この商売人たちは、競争率の低い地方でこの「どんどん焼き」を売り始めました。
これが大きく当たって地方では次々と大ヒット!
地方で独自に進化を遂げた様々な「どんどん焼き」を現在でも特に東北地方を中心に味わうことができるようです。

お好み焼きの前段階「一銭洋食」


地方で大ヒットし発展した「どんどん焼き」は、その土地に根差した様々な名前で呼ばれるようになりました。
大阪や京都を中心に近畿地方では、どんどん焼きが「一銭洋食(いっせんようしょく)」と呼ばれ、ここでも大ヒット!

一銭とは、1円の100分の1の価格ですが、現在でいうワンコインで味わえる庶民の味方的なグルメを代表する手軽に味わえるものでした。当時、西洋的なおしゃれなイメージがあったウスターソースがかかっていたので、「洋食」という言葉もこの食べ物のネーミングに入れられたとのことです。

当時の一銭洋食は、水などで溶いた小麦粉を鉄板で焼いたものの上に、ネギ、とろろ昆布、粉末状のカツオなどがのっており、さらにウスターソースがかかって半月状に半分に折られていた食べ物でした。

生地と具を混ぜ合わせず、焼いた生地の上に具をのせるスタイルなので、これは、まさに、広島スタイルのお好み焼きの前段階ともいえるのではないでしょうか。
一銭洋食の名残りのせいか、広島でお好み焼きのお持ち帰りを注文すると、半月状に半分に折ってパッキングする老舗店なども少なくないそうです。

戦後、メリケン粉によって「おやつ」から「主食」に進化したお好み焼き


昭和の戦後の食糧危機の時代になると米不足になり、アメリカ軍から配給された多くの小麦粉を活用して作れる料理に注目が集まりました。飢餓で苦しむ人々で溢れていた中、大阪を中心に急に脚光を浴びたのが、かつては子どものおやつだった「一銭洋食」。

当時、小麦粉がアメリカ人から配給される時、「アメリカン」という言葉が日本人には「メリケン」と聞こえたので、「メリケンの粉」という意味で、戦後のこの時代を経験した人々の多くが今でも小麦粉のことを「メリケン粉」と呼ぶのはこうした背景によるものだそうです。

また、文明開化後に西洋から小麦粉が輸入されるようになるまでは、国内の小麦粉は、日本では「うどん粉」と呼ばれていたそうです。このうどん粉は、製粉技術が低かったので、ふすまなども混じっており薄茶色っぽく、西洋から輸入された小麦粉のように真っ白ではなかったとのこと。
この差を区別する意味でも戦後に「メリケン粉」と呼ぶようになったらしいです。

大阪スタイルのお好み焼きの誕生


これまで「おやつ」の扱いだった一銭洋食は、戦後の食糧危機と飢餓により一気に進化し、お好み焼きを誕生させます。
水などで溶いた小麦粉主体の一銭洋食の生地に、空腹感を満たせる細かく刻んだキャベツがたっぷり入ったのです。

ただし、この進化した一銭洋食は、具も生地に混ぜ込んで焼いていたので、一銭洋食になる前の「もんじゃ焼き」から派生した「どんどん焼き」の要素が強く出ています。
これが、大阪でのお好み焼き文化の幕開けとなり、おやつではなく、主食として扱われる食べ物への大きな進化となりました。しかし、この当時はまだ、「お好み焼き」という名前にはなっていませんでした。

広島スタイルのお好み焼きの誕生


一方、同じ時期、原爆投下によって大阪よりも被害が大きかった広島は、更にひどい食料危機で苦しんでいました。
当然、米不足で、広島でもアメリカ軍から配給された小麦粉を使用して手軽に作れる「一銭洋食」に大きな注目が集まりました。

被害が大きかった広島では、アメリカから供給された小麦粉が大変貴重なものとして扱われたため、一銭洋食を小麦粉が少量でも作れる広島の独自スタイルのものへと進化を遂げさせます。

それまでは、九条ネギの一種である観音ねぎがメインの具となっていましたが、この時を境に、安くてお腹がいっぱいになる細かく千切りされたたっぷりのキャベツがメインの具として投入されるようになりました。
また、クレープのような薄い生地の上に具が層状にのっている独自のスタイルになったのも貴重な小麦粉を節約するためだったと言われています。

こうして、広島でもお好み焼き文化が幕開けとなり、おやつではなく、主食としての食べ物へと大きな進化を果たしました。しかし、この時もまだ「お好み焼き」という名前にはなっていませんでした。


その後、更にお腹が一杯になるように、これまでの具に中華麺も追加して、広島ならではのお好み焼きのスタイルを確立していきました。

ちなみに、大阪にも中華麺が入ったお好み焼きがありますが、これは「モダン焼き」と呼ばれています。大阪のお好み焼き店「ぼてちゅう」で、まかないを作るためにお好み焼きに中華麺を加えたのがその発祥だそうです。
「盛りだくさんなお好み焼き」という意味でその中に出てくる文字の「も」、「だ」、「焼き」を取って「モダン焼き」となったそうです。
現代的なという意味でのモダンではないのですね。

「お好み焼き」と言う食べ物になったのは昭和に入ってから!


こうして、「お好み焼き」のルーツは、明治時代に東京で誕生した「もんじゃ焼き」もしくは、大正時代に東京で誕生の「どんどん焼き」と言われるようになったらしいのですが、「お好み焼き」という名前の食べ物になったのは、実は、昭和の時代に入ってからとのこと。

さて、「お好み焼き」と最初に呼ぶようになったのは、どこだかご存知ですか。
これも、なんと、東京なんだそうです。
当時、お店が用意したのは生地と鉄板だけ。
あとは、お好みに応じて好き勝手に自由に焼いて美味しく味わって!ということで、「お好み焼き」と呼ばれていくようになったらしいです。

そんな手軽さから、お好み焼きは、1つの鉄板さえあれば、戦後の貧しさの中でも誰もがすぐに商売をはじめられたビジネスの1つだったそうです。
特に、原爆投下によって戦争の被害が大きかった広島では、戦争で夫を亡くし「寡婦(かふ)」になってしまった女性も多かったので、この商売で家計を支えていた女性も大勢いたらしいです。こうした歴史的背景もあり、広島には、女性の名前が付いたお好み焼きの老舗店が多いとのことです。

多様性に溢れる「お好み焼き」

令和の時代に入ったばかりの日本ですが、令和は、本当の意味での多様性に溢れる世の中が期待されている時代です。

戦後の貧しかった時代から経済を飛躍的に成長させて、当時よりも経済的には豊かである現在の日本では、お好み焼きで使用される具などもさらに多様化!
小麦粉と大量のキャベツがメインなのは変わりませんが、海鮮類や肉類、チーズなどの乳製品類など、様々な人々のお好みに合わせた具材に加えて、色々なソースなども選択でき、さらに多様化した人々のニーズにも対応できるような「お好み焼き」へと時代と共に進化しています。

多国籍料理的なお好み焼きもよく見かけるようになりました。
令和の新たな時代には、もっと斬新で、マニア的なグルメ人も満足するような個性的なお好み焼きももっと増えていくのではないでしょうか。それと同時に、ヴィ―ガン仕様や小麦粉アレルギーの人でも食べれるお好み焼きなどヘルシー系のものも、もっと出てくるはず。

なんてったって、「お好み焼き」というステキな名前が付いている料理なんですから!
鉄板の上で自由を謳歌できる日本の食べ物「お好み焼き」で、あなたは、どんな自由を楽しみますか。

書いた人

猫と旅が大好きな、音楽家、創作家、渡り鳥、遊牧民。7年前、ノラの子猫に出会い、人生初、猫のいる生活がスタート。以来、自分の人生価値観が大きく変わる。愛猫を連れ、車旅を楽しむも、天才的な方向音痴っぷりを毎度発揮。愛猫のテレパシーと自分の直感だけを頼りに今日も前へ進む。