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2020.02.13

羽生PA「鬼平江戸処」とは?理由や楽しみ方・おすすめメニュー・関所が置かれた理由も解説

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江戸時代の雰囲気を楽しめる施設というと、博物館やアミューズメントパークを想像するかもしれない。しかし、今回紹介するのはパーキングエリア。普通のPAとはひと味違った趣の「鬼平(おにへい)江戸処」である。

鬼平江戸処は埼玉県の羽生市にある。羽生市は埼玉の北東に位置し、市内東部を東北自動車道が縦断している。東北自動車道を上り方面に向かって車を走らせると、突如として古風な建物が出現する。それこそが羽生PA「鬼平江戸処」だ。池波正太郎の人気小説、『鬼平犯科帳』をモチーフとしており、江戸や鬼平の世界を楽しめる空間となっている。

ただ車を停めて休憩するだけじゃない。まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようなワクワク感が楽しめる、羽生PAの魅力を紹介しよう。

なぜ羽生に江戸の世界が?主要五街道と関所の役割

そもそも、なぜ羽生に江戸の世界を再現させたのだろう。
羽生PA付近、埼玉県の久喜市栗橋北。ここにはかつて、房川渡中田関所(ぼうせんのわたしなかたせきしょ)、通称「栗橋関所」があった。この栗橋関所にちなんで、PAを江戸への入り口と見立てているそうだ。

では江戸時代、東北自動車道とはどんなところだったのか。
江戸の交通を支えた五街道として「東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道」があげられるが、東北自動車道のルートはこのうちの「日光街道〜奥州街道」にあたる。鬼平江戸処を楽しむ前に、主要五街道に置かれた関所の歴史を辿ってみたい。

江戸から逃げる女性は御用!関所が置かれた理由とは

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌年から道路整備に取り掛かかり、街道の要所に関所を置いた。関所はおもに江戸の治安を守るために置かれ、「最重関所」と呼ばれる箱根同様、栗橋関所も「入(い)り鉄砲に出女(でおんな)」を厳しく取り締まった。日光街道から江戸への出入りを監視し、関宿(現在の千葉県野田市)と並んで江戸の北方を守る要だった。

「入り鉄砲」とは文字通り、江戸に持ち込まれる鉄砲などの武器、「出女」は江戸から出ようとする女性のこと。当時、諸大名の妻子は人質として江戸に住んでいたが、各地の関所はその妻子が逃げ出さないよう監視する役割もあった。逆に、江戸に向かう女性については、場所にもよるがそれほど厳しくなく、姓名や行き先を口頭で告げるだけで済んだ関所もある。

おでかけしたい庶民vs出国させたくない領主

そうした厳重な交通政策もさることながら、幕府も諸藩も、庶民が気楽な旅をすることをできるだけ制限したかった事情がある。

江戸時代も後半になると、農閑期には旅に出る者が多くなった。幕府や諸藩からすると、農閑期であろうとほかに労働は山ほどあるのだから、一刻も休ませたくない、というのが本音だったらしい。そのうえ東北地方では飢饉の影響もあり、農民の離村、逃亡が後を絶たなかった。土地から領民がいなくなれば、年貢を徴収することができなくなる。封建領主にしてみれば正当な理由がない限り、出国を認めたくない。だが逆に言えば正当な理由があれば出国できたのだ。

当時の正当な理由といえば「伊勢参り」「日光社参」などの、いわゆる巡礼の旅が一般的だった。「伊勢参りをするまで一人前とは呼ばない」「日光を見るまでは結構と言うな」なんてことわざもある。ほかには、病気の治癒のために湯治に出向く、といった理由も認められていた。

伊勢参宮略図 末社巡拝 国立国会図書館デジタルコレクション

しかし出女の監視ということもあり、女性が関所を通過するのはことさら厳しかった。通常の「往来手形」のほかに、「関所女手形」が必要で、さらに箱根ともなると「御関所の手形」も必要になる。しかも「他所の女は一切通さない」という関所は、幕府が設けた53ヶ所中21ヶ所にのぼる。時代が下っても、江戸方面から来る旅の女性には変わらず厳しかったものの、天明8(1788)年、巡見使に仕えた古松軒は、栗橋関所を通った際にこう記している。

ここは伊那半左衛門が預かっている関所で、往来の人を改める。特に女人の改は厳重である。しかしひろびろとした平地なので、二、三里もまわり道をすれば抜け道はいくらでもあるという。これもお上の慈悲深さであろう。(『東遊雑記』)

抜け道を行く者がいることを幕府も知っていたが、黙認していたことが窺える。地元民の手引きによって、案内料を支払ったうえで抜け道を案内してもらい、関所抜けした旅人も実際はかなりいたようだ。明治2(1869)年、250年に渡って続いた諸街道の関所は、明治政府によって廃止された。

街並みもメニューも!江戸と鬼平の世界が満喫できる「羽生PA」

江戸時代の関所の歴史を想像しながら、PA内を探索してみる。
小説の舞台をテーマにした鬼平江戸処では、18世紀末〜19世紀前半の江戸の賑わいを、史実に基づいて忠実に再現している。さらにこのPA、単に”江戸時代を再現した”だけではない。『鬼平犯科帳』に登場する店名があちこちにあったり、お土産処は鬼平が闊歩したという上野広小路を再現したりと、徹底して「鬼平のいた江戸時代」にこだわっている。

鬼平ファンでなくても楽しめるPAの佇まい

凄腕の人情家長官 鬼の平蔵

ところでこの「鬼平」、長谷川平蔵という実在した人物がモデルということをご存知だろうか。
ドラマ「鬼平犯科帳」は1989年から2016年まで、28年という長期間に渡って放映された。今もなお根強い人気があるが、知らない方のために少し説明しておきたい。

最終シーズンを務めた二代目中村吉右衛門。初代鬼平は吉右衛門の実父、八世松本幸四郎が演じた。

小説『鬼平犯科帳』は「史実を元に創作したもの」とされており、「鬼の平蔵」の呼び名も、作家による創作であるようだ。「鬼の平蔵」こと、「火付盗賊改方 長谷川平蔵」。生誕は延享2(1745)年頃だとされ、50歳で没した。

平蔵は旗本の子でありながら少年期に非行に走り、そのやんちゃぶりから「本所の銕(てつ)」などと呼ばれるほど、手に余る少年だったらしい。しかしやがて改心したのち、42歳で火付盗賊改方に任命され、盗賊や放火犯を次々と召し捕っていくことになる。その凄腕から盗賊たちからは「鬼の平蔵」と恐れられる一方、江戸に流入する貧民、窮民の救済に心を配る人情家でもあった、という人物として語られている。

グルメが描いた「食の世界」。鬼平馴染みのメニューが並ぶ

美食家として知られた池波正太郎は、小説の中でもさまざまな老舗や名店の味を描いた。鬼平江戸処の「食事処」では、江戸の伝統的な味と技を継承している老舗や名店がずらり。ドラマでも重要な役割を担う密偵たちとの会合の場「五鉄」や、辻売りのうなぎ屋「忠八」といった江戸の味を、鬼平の捕り物や江戸時代の暮らしに想いを馳せながら、そして密偵気分に浸りながら堪能したい。

「五鉄」といえば、しゃも鍋!ドラマでも度々登場した。写真は季節メニュー:五鉄しゃも鍋・からあげ定食(2020年1月現在)

江戸や鬼平にちなんだ商品が並ぶお土産処「屋台連」

小説の世界観を忠実に再現した「物語型PA」が埼玉にもうひとつある!

小説の世界観を再現したPAは、「物語型PA」と呼ばれる。これは全国の数あるPAの中でも、関越自動車道の「寄居 星の王子さまPA」と、「鬼平江戸処」の2ヶ所のみ。「ダサイたま」なんて呼ばれてしまう埼玉県だが、こんな遊び心満載なSAが二ヶ所もあるのだ。ぜひ休憩を兼ねて足を運んでみてほしい。

江戸時代を満喫したらいざ、東京へ

江戸へのタイムトラベルと鬼平グルメを満喫したら、現代の旅の続きに戻るとしよう。ちなみに鬼平江戸処は一般道からも入店できるが、そこから入るとちょっと裏口っぽくて、関所破り気分を味わえるかもしれない。

そういえば、2019年に大ヒットした映画『翔んで埼玉』。「埼玉県民には草でも食わせておけ!」などの名言(?)を残し、千葉からは「ここまでいじられると逆に羨ましい」、当時の埼玉県知事からは「悪名は無名に勝る」などと言われた。映画では「埼玉県民が東京に行くには通行手形が必要」というシーンがあるが、もちろん現代は必要ない(たぶん)。安心して東京方面に向かってほしい。

東北自動車道 上り線 羽生PA 鬼平江戸処

アイキャッチ画像:歌川広重筆「東海道五十三次内 品川」(江戸時代) 国立国会図書館デジタルコレクション

書いた人

埼玉生まれ。未だ迷いながら生きてる不惑の世代。迷走しつつ、音楽好きだけは貫いています。人生前半は仕事育児と突っ走って来たので現在、長期息切れ中。これからはゆるく伝統文化を堪能したりしながら、のんびり過ごしたい。