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2020.03.21

東京の桜の名所をつくったのは、あの暴れん坊将軍だった!?まるで文化祭な江戸のお花見

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あぁ春ですね、ご時世とはいえひとりでぶらり見る桜も美しいものです♥さて江戸時代、桜の名所だった隅田川では驚きの花見の宴が繰り広げられていたのです……。

江戸ごよみ東京ぶらり 卯月候

“江戸”という切り口で東京という街をめぐる『江戸ごよみ、東京ぶらり』。江戸時代から脈々と続いてきた老舗や社寺仏閣、行事や文化など、いまの暦にあわせた江戸―東京案内。
この季節の楽しみといえばお花見ですね。今も桜の名所である隅田川で江戸っ子はどんな風に花見を楽しんでいたのか、また売れに売れた今に続く老舗の桜餅についてもご紹介。4月を楽しむ東京ぶらりをご案内します。

上野から隅田川へ、江戸っ子が楽しんだ桜の名所

江戸初期のころは、桜の名所といえば上野の寛永寺でした。今でも朝から席取りをする姿が風物詩になっている上野公園は、寛永寺の跡地(*)です。開祖の天海大僧正は、一重桜から八重桜まで、ひと月ほど花見を楽しめるようにと、広大な寺内にさまざまな桜を植えました。当初は江戸市民で賑わったそうですが、四代家綱の霊廟が造られて将軍家の菩提寺になり、また宮門跡になった格式のある寺ゆえに、お酒はもちろん三味線などの鳴り物はご法度。暮れ六(午後6時ごろ)には閉門するため、夜桜見物をしゃれこむこともできませんでした。
*幕末の上野戦争により敷地の大部分が上野公園に。現在の寛永寺(根本中堂)は上野桜木町1丁目にある。

年に一度贅沢気分を味わえる行楽だった花見。若い娘たちは着物を新調して出掛けたとか。(歌川広重・歌川豊国「江戸自慢三十六興 東叡山花さかり」/国立国会図書館デジタルコレクション)

 
そこで江戸っ子が出向くようになったのが、今も桜の名所とされる隅田川や飛鳥山、そして品川の御殿山。これらの地には江戸市民の行楽ためにと、時代劇でもお馴染み、八代将軍・徳川吉宗の命によって桜が植えられました。余談ではありますが、防火対策のために屋根を瓦葺きにすることを奨励したり、目安箱を置いて市民の訴えに耳を傾けたり、米価の安定をはかるなど善政をしき、民心に添った改革を行った暴れん坊ならぬ名君・吉宗。泰平の世には、人びとの楽しみが大事なこともわかっていたのでしょうね。

花見客で賑わう隅田堤。下のほうには何やら危ない輩の姿も?*冒頭画像にも使用(歌川国芳「隅田川花見」三枚もの中央/国立国会図書館デジタルコレクション)

幕府は隅田堤の桜の枝を折ることを禁じ、また十一代将軍家斉によって隅田堤の土手を高くして新たな桜の植樹を行ったことで、より美しい桜の名所として知られるようになります。その光景は「長堤十里花の雲」と呼ばれたとか。緩やかに流れる大川のもと、満開の桜がまるで雲のようにたなびく景色が浮かんできますね。上野・寛永寺と同じように、隅田堤もさまざまな桜を植えて、長く花見を楽しめるようにしたとか。ひと月も花見に繰り出せるなんて、さぞ心躍る季節だったことでしょう。

三味線に長唄、歌舞伎役者姿でひと芝居と、まるで文化祭?

江戸の年中行事を記した天保9(1838)年刊『東都歳事記』には、隅田堤の桜について「都下の良賤日ごとにここに群遊し、樹下に宴を設け、歌舞して帰るを忘るるは、実に泰平の余沢にして是なん江戸遊賞の第一とぞいうべかりける」と記されています。江戸の花見には、歌舞音曲はつきものだったようです。歌川広重の浮世絵「飛鳥山花見の図」には、さまざまな音曲の師匠と弟子たちの花見の様子が描かれています。樹々の下では、常磐津節や清元節に長唄と女性たちが奏でる鳴り物や唄が響いていたことでしょう。粋なご様子ではありますが、なんとなくホコ天の対バンみたいな気も……。

歌舞音曲の師匠と弟子たちの華やかな一団。右から角木瓜紋は常磐津節、桜草紋は富本節、杵の紋が長唄、三つ柏紋が清元節。あちらからは常磐津が、こちらからは清元が、桜の樹の下で行われる大発表会ですね。(歌川広重『飛鳥山花見の図』(部分)/都立中央図書館特別文庫室所蔵)

そしてハロウィンの仮装がすっかり根づいた日本ですが、明治ごろまで隅田堤でも仮装花見が流行っていたそう。町人が武士を真似したり、歌舞伎役者を真似て忠臣蔵四十七士や花川戸助六(成田屋・市川團十郎のお家芸ですね)、白浪五人男などの仮装で盛り上がったとか。鳴り物を鳴らしたり、小唄に興じたり、ひと芝居うったりと、なんだかまるで文化祭。江戸っ子のみなさん~、桜の花は見ていますか?と聞きたくも。そして夜になれば仮装姿のままに、川向こうの吉原へ。天保初期(1832~1836)刊の寺門静軒『江戸繁盛記』にも隅田堤の花見を存分に楽しみ、暗くなれば吉原の花々へと向かう男衆の姿が描かれています。

花見客が買い求めた江戸生まれの桜もち

そして隅田堤や向島へと花見に訪れる江戸っ子には、もうひとつお楽しみがありました。それは享保2(1717)年創業の「長命寺桜もち 山本や」の桜もち。江戸名物とも称された風流な菓子は、長命寺で寺男をしていた初代山本新六によるもの。日々、土手から寺へと落ちてくる桜葉を掃き集めていた新六は、桜の葉で巻いた餅菓子を思いつき、塩漬けにした桜葉で包んだ菓子を門前で売りはじめます。餅菓子は花見客に大層喜ばれていたようで、文政7(1824)年には一年で38万7700個を売り上げたという記録がのこっているとか。春を告げる菓子として人びとに愛されていたのがよくわかります。

お店でいただく場合はお茶とセットで350円(税込)。(*3、4月の販売は予約優先。店内販売が中止の場合もあります)

浮世絵(下段)にも描かれている持ち帰り用の篭詰め。篭詰セットは、十個入り2700円(税込)。(3、4月は要予約)

今でも創業時とほぼ変わらぬ場所で、桜もちだけを商っています。暖簾を受け継ぐ十一代目の店主が手掛けるのは、真っ白な薄い皮でこし餡を包んだ関東風の桜もち。小麦粉製のぷるんと柔らかい皮に包まれた、香りがいいなめらかなこし餡の桜もちは上品で優しい味わいです。西伊豆の契約農家が手掛けたオオシマザクラの葉の塩漬けを2、3枚使って餅が見えないように包むのも店ならではのこだわり。塩漬けの桜葉は食べても問題はないけれど、ほんのり漂う香りや菓子をみずみずしく保つために包んでいるものなので、桜もちだけで食べて欲しいそう。江戸の花見に思いを馳せて、味わいたい桜もちです。

篭詰の桜もちをお土産に持ち帰る女たち。いつの時代も甘い誘惑には勝てません。(歌川広重・歌川豊国「江戸自慢三十六興 向嶋堤ノ花并ニさくら餅」/国立国会図書館デジタルコレクション)

おまけ二十四節気、4月は清明と穀雨

最後に江戸市民の暮らしに寄り添っていた暦・二十四節気(にじゅうしせっき)についてもご案内を。2020年の卯月(うづき)こと、4月の二十四節気は4月4日の「清明(せいめい)」と4月19日の「穀雨(こくう)」です。

4日の「清明」は、「清浄明潔(せいじょうめいけつ)」の略。春の光をあびて草木が芽生え、万物が生き生きとした様子を表します。昔から農耕行事をはじめる日としても知られています。また沖縄では「清明祭(シーミーサイ)」といって、お墓参りの時期だそう。19日の「穀雨」は、穀物の成長をうながす雨のこと。農耕にかかわる人にとっては恵みの雨です。穀雨の終わりには、春から夏へと季節が移り変わる八十八夜。童謡にもあるように、茶摘みをはじめるころです。

さて、桜といえば思い出すのは芭蕉と同時代を生きた俳人・上島鬼貫(おにつら)。彼が吟じた「咲くからに 見るからに 花の散るからに」は、咲きはじめも散りぎわも桜の花は美しく趣深いという句。いつ見てもどこで見ても美しい桜ですが、江戸っ子を楽しませた名所での花見もまたいいものです。

江戸的に楽しむ4月の東京案内

年中販売しているとはいえ、この季節に食べたくなる桜もち。3、4月に確実に手にしたいならば予約がおすすめです。花見気分があがる篭詰セットは、この時期の手土産にもふさわしいかと。賞味期限は当日のみです。

長命寺桜もち 山本や
東京都墨田区向島5‐1‐14
TEL:03-3622‐3266
営業時間:8:30~18:00(火~日曜)
定休日:月曜
http://www.sakura-mochi.com/
(*3、4月の販売は予約優先。店内販売が中止の場合もあるので電話で確認を)

書いた人

和樂江戸部部長(部員数ゼロ?)。江戸な老舗と道具で現代とつなぐ「江戸な日用品」(平凡社)を出版したことがきっかけとなり、老舗や職人、東京の手仕事や道具や菓子などを追求中。相撲、寄席、和菓子、酒場がご贔屓。茶道初心者。著書の台湾版が出たため台湾に留学をしたものの、中国語で江戸愛を語るにはまだ遠い。