ああ昭和の味。小津安二郎が愛した焼き鳥の「伊勢廣」

ああ昭和の味。小津安二郎が愛した焼き鳥の「伊勢廣」

目次

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文豪・文化人が愛した昭和の味(3)

 江戸時代や明治時代を語るように、すでに「昭和時代」と呼ばれるあのころ…。ていねいな暮らし、シンプルな暮らしが見直されている今、〝昭和の食〟も注目されています。決して「今はなき…」ではないけれど、懐かしくてあたたかい、そんな〝昭和の食〟は、文豪や文化人など、たくさんの食いしん坊たちによってにぎわい、書き残されました。〝昭和の食〟第3弾は、文化人たちが愛した味をご紹介します。
上の写真/東京・京橋のオフィス街。その裏路地にひっそりとたたずむ焼き鳥の『伊勢廣』。夕刻になって看板にあかりが点ると、待ちかねたように黒塗りの車が到着し、スーツ姿のビジネスマンや外国人客が店の中に吸い込まれていきます。小津安二郎が愛した店は、今も映画のワンシーンのような風景のなか、のれんを掲げます。

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小津安二郎がひいきにした
東京・京橋の焼き鳥『伊勢廣』

 高層ビルがそびえるオフィス街の谷間、中央通りの裏路地にある、まるで小津映画の舞台にでもなりそうな風情ある木造2階建て。それこそが焼き鳥屋の『伊勢廣(いせひろ)』です。
 大正10(1921)年、鶏肉の専門店としてスタート。昭和初期には、当時では珍しい焼き鳥屋を営み始めました。たった4席の小さな店でしたが、毎朝にわとりを丸ごとさばくため、品質と鮮度はどこにも負けない。しかも鶏肉以外の食材にもとことんこだわり、ねぎは千住のねぎ専門問屋から、しいたけやししとうは築地の料亭に卸す八百屋で、塩も自ら探した静岡の職人による塩を使用。すべての食材を鶏肉の水準に合わせた最高級のものに揃えたところ、たちまち評判を呼んですぐに4席では足りなくなりました。
 小津安二郎が『伊勢廣』に通ったのは昭和28(1953)年ごろ。好んだ席は、店の奥にあった畳の小上がりだったと当代は語ります。「昭和27年に嫁いできた母が小津先生とお会いしています。いつも静かに召し上がって、静かにお帰りになっていたようです」
 創業時から「焼鳥フル・コース」は変わりません。1本目は火の通りが早くて客を待たせずに出せるお通し代わりの笹身。上にのせたおろしたてのわさびの香りが鼻に抜けます。そしてレバー、砂肝、ねぎ巻き、団子、かわ、もも肉、合鴨、手羽と続きます。一番人気は団子です。串に刺せないおいしいすべての部位を、つなぎを使わずに少量の塩と麻の実を入れて、1本に旨味を凝縮しています。
 食材に関するこだわりは、よき時代の「ほぼ原形どおりです」と、当代は姿勢を正します。きびきび立ち働く店員と昭和の美味。小津安二郎が食したコースもそのまま。カウンターでその焼き鳥とお酒をやっている0うちに、常連に愛され続けている理由がわかるような気がします。
伊勢廣

伊勢廣 本店

東京都中央区京橋1-5-4http://www.isehiro.co.jp/

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小津安二郎の鎌倉でのお気に入りは
『光泉』のいなりずしでした

 小津監督の好物は、北鎌倉にもありました。
「小津先生の印象は、大きくてこわいおじさんでした」と笑うのは、JR北鎌倉駅前『光泉(こうせん)』店主の高井洋子さん。女学生のころの思い出だそう。
 『光泉』のいなりずしは、甘みが控えめな油揚げと、まろやかな酸味の酢飯の組み合わせが品のよい印象。小津作品によく出演した俳優・笠智衆(りゅうちしゅう)も、ここのいなりずしが好物でした。
「もともと、小津先生のお母様がお好きで、先生がお求めくださるようになりました」(高井さん)
――森と昌子ちやん くる 光泉から稲荷すしをとつて麦酒をのむ――『全日記 小津安二郎』(フィルムアート社より)
 小津の日記のように、いなりずしでビールを飲めば、昭和がよみがえってくるに違いありません。
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光泉

神奈川県鎌倉市山ノ内501
いなりずし、いなりずしとかんぴょう入りのり巻きとかっぱ巻きのセットの2種類の持ち帰りのみで営業する『光泉』。笹の葉模様の包み紙も昭和な気分。

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伊丹十三といえばラーメン…ではなく、
東京・日本橋『たいめいけん』のオムライス!

 西洋料理を日本人好みに仕立てた〝洋食〟。昭和が生んだこの料理の普及に努めたのが、昭和6(1931)年創業『たいめいけん』の初代、茂出木心護(もでぎしんご)氏です。
〝昔は洋食屋といえば軒や亭がつくもの。「けん」と名乗る以上は昔の洋食屋の心意気は守っていく〟という思いは、現在も1階で提供され続けているコールスローとボルシチの価格(なんと50円!)にも象徴されています。
 伊丹監督がひいきにしていたオムライスの中身は、創業当時からのシンプルなハムライス。卵3個と、たっぷりのバターを贅沢に使った王道の逸品です。伊丹映画の『タンポポ』で披露した半熟のオムレツをご飯にのせた斬新なオムライスは、監督が二代目当主の協力を得てつくりあげたもの。同店の人気メニューとなりました。
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たいめいけん

東京都中央区日本橋1-12-10https://www.taimeiken.co.jp/
気軽に〝昭和の洋食〟が食べられる1階、真っ白なテーブルクロスがかかったテーブルで洋食フルコースなどを楽しみたい2階と、フロアによって雰囲気もメニューも異なる『たいめいけん』。とはいえその料理は、どちらも〝正統派昭和の味〟を守る。1階の「タンポポオムライス(伊丹十三風)」を含め、オムライスは6種類。それぞれ食べ比べるのも楽しい。

シウマイ弁当

中坊公平は横浜『崎陽軒』の
シウマイ弁当にニンマリ

――待ちかねたように好物のシューマイ弁当のフタをとり、ニンマリする。――「背負ったものを、切り落し」(『アンソロジー、お弁当』パルコ 所収」
 ひもをほどいて掛け紙とふたを外すと、独特の香りが立ちのぼる『崎陽軒(きようけん)』のシウマイ弁当(同店ではシューマイのことをシウマイと呼びます)。この香りをかぐだけで、昭和のあのころに戻ったかのようです。経木(きょうぎ)の折(おり)には、ぎっしり並んだシューマイとおかずと白いご飯。「そうそう、これこれ!」と、つい顔がほころびます。
 横浜出身でなくてもなぜか懐かしさを感じてしまう『崎陽軒』は、明治41(1908)年、駅構内でサイダーやミルク、餅などを販売したことから始まりました。大正4(1915)年に駅弁の製造販売を開始し、昭和3(1928)年には列車の中でも食べやすいひと口サイズで、冷めてもおいしいシウマイを開発。横浜名物をと、南京町(今の横浜中華街)の点心職人との試行錯誤の末につくり出したものでした。
 そして昭和29(1954)年、ついにシウマイをおかずにした弁当を発売します。焼き魚と玉子焼き、かまぼこという幕の内弁当の基本を踏襲し、シウマイや甘く煮たたけのこ、鶏の唐揚げなどを加えました。幕の内らしい俵形ご飯の上には、黒ごまと小梅がひとつ。この装いがまさに昭和の風情ですが、平成の現在も1日に約1万9000食を売るという、長年駅弁界日本一の座を守り続ける弁当なのです。
 冷めてから食べることを前提に開発されたシウマイは、豚肉と干帆立の貝柱が入った餡をごく薄い皮で包んだもの。ご飯は炊くのではなく、蒸気で蒸すことによって時間が経ってももっちり。そして駅弁としての工夫は料理だけではありません。今では珍しくなった経木の折もそのひとつ。水分をよく吸う板目(年輪)をふたに、水分を吸いすぎない目の粗い柾目(まさめ)は底部分に使うなど、とても800円の弁当の容器とは思えない完成度! アツアツのご飯やできたてのおかずを詰めることができるのも、経木の折詰めだからこそなのです。
 少しでもおいしく食べてもらうために、手間を惜しまず工夫を積み重ねる。お母さんがつくるお弁当のような優しさが、懐かしい昭和の味の基本なのかもしれません。
崎陽軒

崎陽軒 本社

神奈川県横浜市西区高島2-12-6 http://www.kiyoken.com/
「懐かしさを変えてはいけない」と、シウマイは90年ほど前の登場当時のレシピのまま。切り昆布や生姜、そして箸休めにするか食後のデザートとして食べるか迷うあんずまで、絶妙なラインナップ! 横浜の景色をブルーのシルエットに、中華街のシンボルでもあるドラゴンを真っ赤に描いたシュウマイ弁当の現在の掛け紙は4代目。青のひょうちゃん(醬油入れ)は、昭和30年に登場した初代で漫画家の横山隆一によるもの。ひょうちゃん誕生60周年の2015年には、赤いちゃんちゃんこを着た還暦バージョンも登場した。

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湯川秀樹が好んだのは
京都『丸太町東洋亭』のビーフカレー

 洋食店『丸太町東洋亭』の創業者・山本豊次郎は、明治時代に世界見物を体験したとか。それゆえ、この店を満たす〝舶来のにおい〟はすべて本物。大正7(1918)年の創業以来、料理は立派な石炭ストーブでつくられます。効率とは無縁のストーブ料理は、食べる側にも余裕があってこそ。ゆったりと流れる時間もこの店の味のうちです。
 さて、ここのカレーライス(ビーフカレー)のとりこになったのが、店に近い京都大学理学部に在籍していた湯川秀樹先生。野菜と果物が入ったルーは、裏ごしされてなめらかに。別鍋で煮込んだ牛肉とそのルーを合わせれてビーフカレーは完成。口にすれば、とても贅沢につくられたことがわかります。カレーが庶民の食べ物になる前に生まれたレシピは、驚きに満ちたおいしさです。
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丸太町東洋亭

京都府京都市上京区河原町通丸太町上ル東側桝屋町370 
カレーライスは昼のみのメニュー。ライスの上にカレーがかかる従来のスタイルではなく、カレーは鉄鍋で温めたまま供される。この心配りも古くから続く店ならでは。

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早川良雄が「ゲイジュツの味」と書いた
なにわ名物『大黒』のかやくご飯

 戦後日本のグラフィックデザイン界を牽引したグラフィックデザイナー、早川良雄は食通としても知られる人物。そんな彼が著書『大阪の味』のなかで「見た目のきれいごと」にあふれた食べ物を嘆き、「人間の舌を小馬鹿にしない親切な食べもの」の味がすると、なにわ名物『大黒(だいこく)』のかやくご飯を賞しました。このエッセイを寄稿したのが昭和48(1973)年のこと。今ではこの店のような、正しい〝おふくろの味〟が食べられる店は貴重になってしまいました。
『大黒』の創業は明治35(1902)年。戦前は道頓堀川の大黒橋の筋にあったのでこの名がついたといいます。創業当時、道頓堀には芝居小屋が立ち並び、店は花街にあったため、客の多くは芸者や芸人。手短に食事を済ませられる、おかずとご飯が一緒になった「かやくご飯」が重宝がられました。『大黒』のかやくご飯の具は、油気を担う「薄上げ」(油揚げ)、香りの「ごぼう」、歯ごたえの「こんにゃく」と3種類のみ。芸に携わる人の歯を汚さないために具を細かく刻むという配慮も、すべて初代が考えたもの。簡素かつ薄味ながら、だしの奥に味わいが重なり、飽きがきません。
 かやくご飯目当てに、地元のみならず遠方から人が通うのだから、「ほかにも専門店ができないのが不思議ですね」と2代目の木田節子さんにうかがうと、「うちの味はほかでは出せませんよ。だって、こんな大きな鉄釜(3升炊き)で炊いている店はどこにもないはずです。それに、鉄釜に長年のだしの味が染み付いていますもん」ときっぱり。加えて、まねのできない味の理由は、米と具、だしの配合の「勘どころ」だと言います。
「しゃもじの当たり具合でわかります。お米の乾燥具合も季節によって変わりますからね。今日はだしが多いかな、と思ったらそこで引いたり、逆に足したり。うちは具のかさ加減もすべて目分量で、それは昔からの測る道具を使うからなんですよ」
 いつ来ても変わらないと言ってもらうために、そのつど丹精して米を炊く。単純な作業のなかから生まれるおいしさ、その尊さを嚙みしめたくて、昭和の文豪・文人たちも、現代の私たちも、この店に通うのでしょう。
上の写真/かやく御飯(中サイズ、漬け物付き)、白みそ汁(豆腐)、なすの丸煮、南京の煮付に、ぬた。汁ものはほかに赤みそがあり、冬季にはかす汁が加わる。
大黒

大黒

大阪府大阪市中央区道頓堀2-2-7 
店内には8人掛けと6人掛けの長テーブルだけ。みなで肩を寄せ合いながら、熱々のご飯をかきこむ風景は温かくもあり、懐かしい。檀一雄や池波正太郎もこの店がお気に入りだった。かやくご飯は持ち帰り可能。

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荻昌弘が絶賛したのは
上野『ぽん多本家』のロースカツレツ

 重厚な木のドアを開けると、ジャーっというカツレツを揚げる音と、トントントンと小気味よくキャベツを刻む音だけが響いています。店内に漂うほどよい緊張感に、昭和の名店に来たことを実感するのです。
 ここ『ぽん多本店』のロースカツレツは、驚くほど淡く上品なきつね色。「何もつけないで召し上がる方も多いですよ」という4代目主人の島田良彦さんの言葉に従い、ソースなしで口に運ぶと、肉ははっとするほどやわらかく、濃厚な旨みが広がります。
 明治38(1905)年創業、東京・上野の老舗洋食店『ぽん多』のロースカツレツに惚れ込んだ文化人は多く、食通の荻昌弘も絶賛、噺家・柳家小さんなども常連でした。ロース肉の脂身を徹底的に落とし、肉の〝芯〟のみを使用。切り落とした脂身からつくる自家製ラードで、低温から徐々に温度を高めてじっくり揚げていきます。初代が考案したこの調理法と味を頑固に守り、4代目は今日も揚げ鍋の前に立ち続けます。
――とんかつはヒレよりも、ロースを選ぶ。豚は、脂(あぶら)であって、はじめてウマい。――荻昌弘『味で勝負』毎日新聞社より
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ぽん多本家

東京都台東区上野3-23-3  
ロースカツレツは、ひと口で食べやすいよう12等分し、繊細なキャベツのせん切りを添えた美しいひと皿。1階はカウンター4席、2階はテーブル席、3階には個室が。

撮影/石井宏明、小池紀行(パイルドライバー)、小寺浩之、小西康夫、篠原宏明、ハリー中西

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