縄文人の芸術の都、長野県諏訪地方で体感! 土器と土偶に見る八ヶ岳山麓の爆発的クリエイティビティ

縄文人の芸術の都、長野県諏訪地方で体感! 土器と土偶に見る八ヶ岳山麓の爆発的クリエイティビティ

目次

「縄文を知りたかったら、まず諏訪に行け」ー縄文好きの人々は、口を揃えてそう言います。「三内丸山遺跡」で有名な青森や、アイヌ文化の都、北海道ならまだしも、なぜ諏訪なのか・・・? それはこの土地が、縄文時代にもっとも栄えた中心地の一つであり、また、縄文時代が終焉を迎えて数千年たった現在でも、縄文スピリットを頑なに守り続けた文化や信仰の形が色濃く、いや濃すぎるほどに残っているからです。そんな諏訪は、人呼んで「縄文銀座」! 縄文好きなら、絶対に避けては通れない土地、それが諏訪なのです。

今回「和樂web」では、実際に諏訪地方を訪れ、各所「縄文体感スポット」を根こそぎ取材してまいりました! これから全4回に渡って、その旅の記録をお届けします。

第1回の今回は、言わずとしれた我が国最古の国宝「縄文のビーナス」を所蔵する「尖石縄文考古館」より、この地を生きた縄文人の爆発的クリエイティビティをレポートします。さすがは「縄文銀座」と呼ばれるだけあって、八ヶ岳山麓で出土する縄文人の遺物は、芸術的質という観点から見ても、クレイジネスという観点からみても、興奮必至の一級品ばかりです。ではさっそく、想像力を充分に働かせて、縄文人の生命力と創造性に満ち満ちた精神文化に迫ってまいりましょう!

八ヶ岳。日本屈指の荒々しい火山地帯です。

縄文人の創造性が爆発した「縄文中期」とは?

縄文時代は、約15,000年前の草創期から、3,000年前の晩期まで、およそ12,000〜13,000年の長きに渡りました。1万年以上も続いた縄文時代の中で、もっとも時代特有の文化が花開き、土器や土偶などのクリエイティビティが爆発したと言われているのが、今から5,500〜4,500年前の「縄文中期」です。


縄文時代の時代区分

中期になると、それまでにはなかった二本足で自立できる「置物型」土偶や、30cmを超える大きなサイズの土偶が登場し、芸術的表現にもこだわりはじめます。また縄文土器の造形がもっとも装飾的で派手だったのも中期。縄文中期は、まさに縄文文化の創造性と叡智の黄金期だったといえます。

そしてこの頃、全国で最も栄えた場所の一つが、八ヶ岳山麓、特に諏訪地方です。八ヶ岳を有す長野県には縄文時代中期の遺跡が集中し、その数は全国的に見ても圧倒的です。またこの地で生まれた土器様式は、中部〜関東に及ぶ一大文化圏を形成し、土偶にいたっては全国の国宝5点のうち2つが諏訪出身という芸術性の高さを誇っています。旅のはじまりは、八ヶ岳文化の特異性を伝える、縄文考古館からお送りします!


考古館の目の前には、数々の良質な出土品を誇る「尖石遺跡」があり、復元された竪穴式住居の中に入ることもできます。

「縄文銀座」の中心地に建つ「尖石縄文考古館」に行ってきた!

今回訪れたのは、八ヶ岳連峰麓のちょうど中央に位置する「尖石(とがりいし)縄文考古館」。JR茅野駅から車で20分ほど、山の匂いを感じつつ山道を走り、だんだんと頬に感じる風が涼しくなり始めると、木々に覆われるようにひっそりと建つ考古館が見えてきます。館内で私たちを出迎えてくれたのは、学芸員の山科哲(やましな・あきら)先生。縄文時代の諏訪についてアツいお話をたくさん聴かせていただきました!


尖石縄文考古館。山の中腹、とっても気持ちのいい場所にあります。

あゝすばらしき、意味不明な縄文土器の世界!

縄文人が何を思い、どういう考えでこの地に大集落を築き、1,000年もの間暮らしたのか? それを知りたかったら、まずは縄文土器をゆっくりじっくり見ることです。縄文土器には、縄文人の「世界観が表現されている」とも「神話が描かれている」とも言われるからです。ではまいります。

わ、わからない・・・! しかしこの躍動感、「これでもか」と執拗に施された文様、鍋として使うには邪魔すぎる、上方に向かって延びる縁部分!!「作ってたら楽しくなってきちゃって、無駄に派手になっちゃった」という可能性が全くないわけではありませんが、見る側に訳のわからない興奮を強いるこんな形の土器が、この辺りの遺跡からはわんさか出土するのです。確かに神話を読み解くのは難しいですが、あふれる生命力と彼らの創造性の高さは確かに伝わってきます。


大型の中空突起がつけられた土器(左)と、「使えない」取手付土器(右)。(いずれも尖石縄文考古館蔵)

左の土器は、重心が上になってしまって使いづらい上に、巨大な中空の突起が明らかに無駄だし、右の土器についている「取手」は、確かに掴みやすそうではありますが、実際に取手として使ったらすぐに壊れてしまうでしょう。しかしどちらも文様は丁寧に施され、とても「失敗作」だとは思えません。きっと、「こうでなければならなかった」彼らなりの物語性が秘められているのです。

縄文人は蛇がお好き?! 関東〜中部まで一大文化圏を築いた八ヶ岳の土器がすごい!

そもそも、「縄文土器」と一口に言っても、地域や時代によってその造形は様々。たとえば有名な「火焔型土器」は、中期中葉の新潟周辺で500年間だけ作られたスタイルで、他の時代や地域で見ることはできません。八ヶ岳の土器は、一般的に「勝坂式土器」と呼ばれています。このスタイルの土器は、長野県各所はもちろん、山梨県、群馬県、また遠く埼玉、東京、神奈川にも広がり、一大文化圏の体をなしています。勝坂式土器の特徴は、ひとえに「豪壮かつ雄大」な造形にあります。ではさっそく、その素晴らしき謎すぎる造形をご覧頂きましょう。

蛇体把手土器(じゃたいとってどき)

勝坂式土器に特徴的なスタイルの一つに、「人や動物の顔を土器に模す」というものがあります。中でも、蛇のような装飾が施された「蛇体把手土器」は、まさに尖石遺跡のあたりで生み出され、各地に広がっていったと見られている、この地域のシンボル的土器です。


「蛇体把手土器」(全て尖石縄文考古館蔵)

土器の表面をよく見てみると、白い粒々した砂が混ざっているのがわかります。これは八ヶ岳付近を原産とするデイサイトと呼ばれる岩を砕いたもので、土器の乾燥を早めるために混ぜたとも、土器を焼く際の爆発を防ぐために混ぜたとも言われています。ここで驚きなのは、八ヶ岳から離れた松本や甲府盆地で作られた蛇体把手土器にも、八ヶ岳のデイサイトが使われているということ。つまり、遠方の八ヶ岳でしか手に入らないものをわざわざ運んできて混ぜていた、あるいは八ヶ岳の麓で粘土にデイサイトを混ぜてその粘土を運んできたということです。蛇体把手土器の発祥地である八ヶ岳に敬意を払ってのことか、「蛇体把手土器には必ず八ヶ岳のデイサイトを」という認識があったのかもしれません。

抽象文土器(ちゅうしょうもんどき)

「蛇体把手土器」から少し時期を遡ると、苦し紛れに「抽象文土器」と呼ばれている、謎の文様の施された土器が出てきます。こちらもやはり、八ヶ岳文化圏に特徴的な土器の一つで、ここを発生源に遠く東京都や神奈川県にまで広がっています。


「抽象文土器」(全て尖石縄文考古館蔵)

このイルカのような、ワニのような文様、一体何を表しているのでしょうか。


「抽象文」拡大。研究者の間でも長いこと議論がなされているようで、イルカ、ワニの他、サンショウウオ、魚、ナメクジ、あるいは縄文人の神話に出てくる伝説上の生き物(龍や鳳凰のような)ではないか、などの意見もあるんだとか。

ここで山科さんが、その謎を解くヒントとなる土器をみせてくれました。


「抽象文土器」(尖石縄文考古館蔵)

こちらの土器は、先に示した抽象文土器が作られるようになる少し前の時期に作られていた、抽象文土器の原型と見られる土器です。ここで用いられているモチーフは、やはり蛇。ということは、やはりあの謎の抽象文のモチーフも、元々は蛇だったんでしょうか・・・?

でもなぜ、蛇なのか?

専門家によると、これらの土器に表現されている蛇の種類は、おそらくマムシなのだそうです。それに対して山科さんは、「マムシには、他の蛇にはない特徴がある」と言います。まず、典型的な毒ヘビであるマムシは絶命必至の危険な生き物であったこと。それから、マムシの出産法がとても特殊であるということです。


「蛇体把手土器」蛇表現の把手部分拡大

蛇は爬虫類ですから、通常卵を産みそこから孵化していくものですが、マムシの場合、卵が母親のお腹の中で孵るのです。つまり、外目には哺乳類と同じように子供が生まれるということです。蛇の体内から大量の蛇がニョロニョロと出てくる様子には、きっと縄文人も言葉を失ったに違いありません。もしかしたら縄文人は、マムシの絶命必至の威力や、人間に似ていて、しかも多産であるという特徴にあやかろうと、願いを込めて文様を施したのかもしれません。

「石棒」も蛇の簡略化・・・?

蛇体把手土器や抽象文土器を見て、「え、なんかエロス・・」と感じた方、その感覚は決して間違いではありません。縄文人のマツリの道具として有名な石棒(男性器の象徴と言われる)や石皿(女性器の象徴と言われる)もまた、これら蛇をモチーフにした土器のすぐ後に出現し、大量に作られるようになるのです。


石棒(左)と石皿(右)(全て尖石縄文考古館蔵)館内には大きいものから小さな持ち運び用(?)のものまで、様々なスタイルの石棒と石皿が展示されています。

蛇は脱皮することから、再生のシンボルとして世界中様々な文化で特別な存在とされていますが、同時に、その外見から男性器のシンボルともされてきました。石棒はもしかしたら、蛇を簡略化した表現だったのかもしれません。縄文人が蛇に象徴させた願いの深さ、彼らの想像力の豊かさにあっぱれです。

「蛇体把手土器」や「抽象文土器」は、八ヶ岳を中心にして、やがて中部〜関東にまで広がる一大文化圏を築きます。この文化圏の縄文人は、みんな「再生」や「子宝」、「繁栄」また「霊力」の象徴として、八ヶ岳の蛇を信仰したのかもしれません。

八ヶ岳文化圏の縄文人の傑作、国宝「縄文のビーナス」と「仮面の女神」を間近で見る!

縄文人の「祈りの形」といえば、お待ちかねの土偶です。縄文時代、八ヶ岳山麓には、日本各地から稀少な特産物が集まる大規模な集落が数多く存在しました。国宝「縄文のビーナス」や「仮面の女神」が見つかったのも、そんな人とモノが集まる「銀座」の中心地からです。この場所に集まった人々は、いったいどんな祈りを込めてこれら土偶を作ったのでしょうか。

国宝「縄文のビーナス」


「縄文のビーナス」(尖石縄文考古館保管)

約5,400年前に作られたと見られる「縄文のビーナス」は、ここから車で10分ほど離れた場所にある「柵畑(たなばたけ)遺跡」にて、集落の中央に位置するお墓から出土しました。大きなお尻とくびれたお腹が作る、女性らしい曲線はドキドキするほどセクシーです。粘土に混ぜられた黒雲母(くろうんも)がキラキラと光り、「ビーナス」の名に恥じない神々しさをたたえています。多くの土偶が意図的に壊されて見つかる中、ほぼ破損のない完成形の状態で見つかった「縄文のビーナス」は、他の土偶とは違う「特別な」土偶だったと見られています。


「縄文のビーナス」発見時の様子。

しかもこの土偶、作られたのは5,400年前ですが、土に埋められたのはそれから数十年から数百年後のことだったらしいのです。つまり、数百年もの間、どこかで使われたり祀られたりしていたかもしれない、ということ。(!)

多くの場合お墓から見つかる土偶は、よく「再生への祈り」が込められていると言われますが、山科さんは、「用途は一様ではなかったはず」だといいます。その上で、ビーナスが「身近なお母さん」のような温かみのある表情をたたえていることから、ここに込められたのは「妊娠祈願ではないか」とのこと。なるほど、もしかしたら棚畑遺跡に生きた縄文人は、何世代にも渡ってこのビーナスを祀り、子宝への祈りを捧げていたのかもしれません。土偶のツヤツヤしたお肌も、数百年の間にたくさんの人が(ビーナスの恩恵に授かろうと)触り続けた結果なのかな、なんて想像してしまいます。

国宝「仮面の女神」


「仮面の女神」(尖石縄文考古館保管)

一方「仮面の女神」は、棚畑遺跡から4キロほど離れた、中ッ原遺跡にて、こちらも大集落のほぼ中央のお墓から出土しました。作られた年代は、「縄文のビーナス」からおよそ1,000年後の縄文後期前半。「ビーナス」とはうって変わって、お尻は小さめで乳房の表現もありませんが、その代わりに女性器が表現されています。子宮の中を思わせるような、おヘソを中心にした渦巻き文様が印象的です。入れ墨なのか、衣装なのか、あるいはお化粧なのでしょうか。


「仮面の女神」お腹の渦巻き文様と、女性器の表現拡大。

この土偶も、右足が切り離されていた以外は、完全な状態で発見されました。中空の体内には、偶然とは思えない量の土がいっぱいに詰められ、また切り離された足と胴体をつなぐ部品が不自然な向きで見つかったことから、右足は意図的に切り離されたと見られています。部品がバラバラになって見つかる土偶も多い中、ほぼ完全形で埋めたのはなぜなのか、なんのために土を詰め、なんのために足を壊したのか? 現代人が縄文人の精神性に迫るには、まだまだ時間がかかりそうです。

女神たちは縄文人にとっても「国宝」だった?

土偶は現在、全国で20,000点ほど出土していますが、ここまで「出来の良い」土偶は実はとっても珍しいのです。館内にも土偶は数多く展示してありますが、これらを見ると、「ビーナス」や「女神」が縄文人にとっても別格であったことは安易に想像がつきます。


縄文中期に作られた土偶。(全て尖石縄文考古館蔵)「縄文のビーナス」を真似て失敗したような顔や、子供の粘土遊びとしか思えないようなものもけっこうあります。

多くの土偶が意図的に壊されて埋められる中、数百年もの間人の目に触れ続け、最後まで壊されることなく丁寧に埋められた「縄文のビーナス」。そして、諏訪の黄金時代である「縄文中期」が終焉を迎えた後、その体にいっぱいの土を詰めて、やはり壊されることなく丁寧に埋められた「仮面の女神」。

2つの土偶は、どちらも八ヶ岳文化圏の中心と言ってもいい大集落の、中央に位置する土坑に埋められていたのです。八ヶ岳文化圏のまさに中心で大切に祀られた女神たちは、もしかしたら、勝坂式土器でつながった一大文化圏を守る、母なる八ヶ岳の包容力そのものの象徴だったのかもしれない、なんて、考えすぎでしょうか。

なぜ、縄文時代中期、八ヶ岳は繁栄したのか?

縄文時代中期に八ヶ岳山麓で花開いたのは、もちろん土器や土偶などのクリエイティビティだけではありません。ここには数多くの巨大な集落が存在し、日本各地から様々なモノやたくさんの人が往来していたのです。しかしなぜ、栄えたのは八ヶ岳でなければならなかったのでしょうか。この山塊の何が、こうも人々を魅了したのでしょうか。そのヒントは、どうやらこの地域特産の石、黒曜石(こくようせき)にあるようです。黒曜石は、縄文人がもっとも重宝した生活道具の一つですが、日本全国数十箇所で採掘できる黒曜石の中でも、どうやら八ヶ岳の黒曜石は「ブランド化」した特別な石だったらしいのです。

八ヶ岳の繁栄を支えた「信州ブランド」の黒曜石は、いったい何が特別だったのか? 縄文人は黒曜石の輝きに、いったい何を見出していたのか? 次回は、縄文時代の黒曜石採掘坑に建つ「黒耀石体験ミュージアム」より、八ヶ岳文化圏の繁栄の秘密に迫ります!

「縄文銀座」諏訪へのいざない《全4回目次》

第1回 縄文人の芸術の都編〜尖石縄文考古館より〜
第2回 縄文時代の銀座編〜黒耀石体験ミュージアムより〜
第3回 弥生時代以降も守られ続けた縄文文化編〜神長官守矢史料館&諏訪大社より〜
第4回 縄文銀座の歩き方:現代に残る縄文スピリット編

取材協力

尖石縄文考古館
〒391-0213 長野県茅野市豊平4734-132
電話:0266-76-2270
開館時刻:午前9時〜午後5時(入館の最終受付は午後4時半)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合は、その翌日)と祝日の翌日

縄文人の芸術の都、長野県諏訪地方で体感! 土器と土偶に見る八ヶ岳山麓の爆発的クリエイティビティ
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