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縄文人も平安貴族も戦国武将も、みんな温泉が好きだった!
日本は全国津々浦々に温泉があります。それだけ多くの温泉があるのは、日本列島の縦横に火山帯が連なっていることと雨が多かったことによるもの。ときとして人々を苦しめてきた火山や多雨が一方で、温泉という、この上ない恩恵をもたらしてくれていたのです。
日本人と温泉とのつきあいの原初は不明ですが、縄文時代の遺跡には温泉地の近くにあったものが多いことから、縄文人が温泉を利用していたと考える人もいます。真偽のほどは不明ですが、狩猟生活をしていた人々にとって熱い湯が湧く温泉は、神秘的かつ偉大なものであったに違いありません。
それから長い時を経て、奈良時代になると温泉について記した文献が現れます。その最初が、和銅5(712)年に完成した『古事記』で、「伊余(いよ)の湯」の名で愛媛(えひめ)県・道後温泉が登場。その翌年には、地理や自然環境を記録した地誌『風土記(ふどき)』が各地で編纂(へんさん)されるようになり、『伊予国(いよのくに)風土記』には道後温泉、『出雲国(いずものくに)風土記』には島根県・玉造(たまつくり)温泉、『豊後国(ぶんごのくに)風土記』には大分県・別府温泉などが確認できます。その後の『日本書紀』には、温泉への天皇の行幸(ぎょうこう)が記されており、兵庫県・有馬温泉の名が頻出。奈良時代末に成立した『万葉集』には有馬温泉や道後温泉のほかに、和歌山県・白浜温泉などを詠んだ歌が残されています。
このように、奈良時代の文献に登場する温泉は、現在も古湯として有名なところばかり。日本人は1300年も前から、すでに温泉と親しんでいたのです。
空海や信玄が発見した温泉は今も大人気!
それらの温泉の発見の陰には、いくつもの開湯(かいとう)伝説に名を残す僧・行基(ぎょうき)がおり、続く平安時代には、弘法大師(こうぼうだいし)空海(くうかい)によって発見されたとされる温泉が全国各地に出現。紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』や清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』、紀貫之(きのつらゆき)の『土佐日記』などにも、温泉や入浴についての記述が見られるようになりました。
さらに、温泉に行く目的も変化し、奈良時代には療養や病気治癒のためであったのに対し、平安時代には行楽の一環として温泉を楽しむ貴族も現れています。そして、政治の実権を握った武士が鎌倉に幕府を開くと、地理的に近い静岡県・熱海温泉、神奈川県・箱根温泉、群馬県・草津温泉が栄え、温泉はより幅広い階層に親しまれるようになります。
戦に備えて日ごろから鍛錬を欠かさなかった武士にとって、けがや病を治してくれる温泉ほどありがたいものはありません。武将が発見したという温泉も出てくるようになり、その代表例が戦国時代の武田信玄(たけだしんげん)。領地であった甲斐国(かいのくに)を中心に周辺の国にまで、「信玄の隠し湯」と呼ばれる、泉質にも優れたゆかりの秘湯が数多く残っています。
江戸時代に全国各地で温泉リゾートが誕生!
医療が未熟だった時代に武士たちは、効能あらたかな温泉を重要視。温泉で健康回復を図る湯治(とうじ)も普及します。やがて天下人となった豊臣秀吉も温泉に魅了されたひとりで、有馬温泉にたびたび逗留。徳川家康は長逗留した熱海温泉の湯を気に入り、江戸城にまで運ばせていたほどです。それにあやかり、熱海温泉には参勤交代の途中に大名が立ち寄り、大繁盛。その影響は近隣にもおよび、多くの温泉郷をもつ箱根温泉が人気を集めるようになりました。
さらに、大名たちは自藩にある温泉に目を向け、湯治用の屋敷や、療養や遊興の施設をつくり、専用の入浴施設「御殿湯」を備えた温泉郷を形成。それが民間にも広がり、今でいう温泉リゾートが各地にできたのです。しかも、温泉は身分に関係なく利用できるものとなり、農民は農閑期に湯治を楽しむことが一般的になりました。お伊勢参りを中心とした空前の旅行ブームに沸いていた江戸時代に、温泉は観光の目玉となっていき、日本各地に湯宿も広がっていったのです。
アイキャッチ画像/「向瀧」のきつね湯。写真/篠原宏明
構成/山本毅 参考文献/『温泉と日本人 増補版』八岩まどか(青弓社)、『温泉の日本史』石川理夫(中公新書)
※本記事は雑誌『和樂(2023年2・3月号)』の転載です。