歩く私たちを、ゆっくりと抜き去っていく。
それからしばらくして。
遥か先で車はゆるゆると止まり、そのまま動かなくなってしまった。
見ていると、運転席から1人の男性が慌てて降りてくる。
スマホ片手にくるりと振り向き、車の向こう側を背景にピースで自撮り。
数枚撮影した後、運転手はしばし立ち尽くしていたが、車内へ。
一体、何事かと思っていると。
今度はその車がそろりとバックしてくる。
止まったかと思うのも束の間、すぐにまたバック。その繰り返しだ。
そして、とうとう。
近くまで下がってきたところで、驚きの光景に目を奪われた。
──かわいい仔馬が、車に頭突きをかまそうとするシュールな姿
確かに、これなら車も衝突を避けて下がるしかないだろう。
ようやく一連の不可解な動きのナゾが解けたのである。
それにしても、車道を自由気ままに闊歩するウマたちの姿よ。
先ほどの仔馬も、さすがに車へ突進するのは諦めたようで、母親のウマのあとをついて回っている様子。

──自由だっ!
──最高だっ!
もちろん叫んだのは、私ではない。
ウマの一味である。
いや、もっと正確にいうならば。「御崎馬(みさきうま、岬馬とも)」の群れたちだ。
コチラの御崎馬。
一般的な牧場で見かけるウマたちとは少し系統が違う。一回りサイズが小さめだ。なんでも日本在来馬の1つとして、国の天然記念物に指定された「野生馬(学術的には「半野生馬」)」で、非常に珍しいのだとか。
そんなレアなウマたちに遭遇できる謎の楽園があるコトを聞きつけて。
恐怖心よりも好奇心の方に軍配が上がったダイソン。
こうして足軽よろしく、ひょひょいと南国の雰囲気溢れる宮崎県へと飛んだワケである。
さても「御崎馬」とは、どのようなウマなのか。
そして、若い頃に負った「ウマ」への「トラウマ」は克服できるのか(※決してダジャレではない)。
それでは、早速、ご紹介していこう。
※御崎馬は学術的には「半野生馬」ですが、本記事では都井岬のガイドブックも考慮して「野生馬(半野生馬)」と表記しています
宮崎県の最南端の都井岬へ
車で大雨の中を走り続けること1時間半。
訪れたのは、宮崎県串間(くしま)市にある「都井岬(といみさき)」。
都井岬は、宮崎県と鹿児島県にまたがる日南海岸国定公園の中にあり、地図上では宮崎県の最南端、ちょうど突き出た部分の先端に位置する。宮崎市内からだと車で1時間半、串間市内からでも車で30分ほど。海岸線に沿ってのドライブから一変し、最後は奥深い山の中を通り抜けて、ようやく到着となった。
それにしても、海の気配など全くしない。
ただの山中である。一体、どこに「岬」があるのかと訝しむも、隣のカメラマンは終始無言で運転中。いつの間にか雨はやみ、代わりに周囲には霧のようなモノが立ち込めていた。
辺り一帯が怪しく感じられ、さらに速度を落とす。
慎重に前進すること数分。
突如、前方に現れたのがコチラの建物。
なんだか料金所のようでもある。「駒止(こまどめ)の門」というらしい。

近付いてみると。
「400円」という文字が見えた。「ウマの楽園」の入場料かとも思ったが、あくまでも「野生馬保護料金」という協力金の名目らしい。納めると、引き換えにガイドブックなどをいただいた。
それによると。
ゲートより向こうが、やはりお目当ての御崎馬の生息地のようだ。私のいう「ウマの楽園」であり、彼らが自由に暮らすエリア、野生馬(半野生馬)の保護地区となる。
確かに、地形を思い浮かべると。
ここから先は、細長い先端部分の「岬」しかない。
そして、岬一帯には牧柵が設置されているから、岬唯一の入口となるこのゲートさえ管理すればエリア外には出れないワケで。つまりは岬全体が「放牧地」となる。なるほど。自然の地形をうまく利用した放牧スタイルだ。

エリアの敷地面積は、なんと550ヘクタール。
数字だけではイメージがつきにくいが。ちょうど鳥取砂丘の砂地面積と同じ広さ。東京ドームに換算すると約117個分になるという。そんな広大な敷地の中を、御崎馬は日によって場所を変え、自由に移動する。
放牧エリア内には道路もあるが、制限速度は30キロだ。
御崎馬が急に飛び出しても止まれるよう、徐行運転となる。あくまで私たち人間は、御崎馬の生息地のビジターだ。仮に車道で遭遇しても、冒頭の車のように、彼らが進むのをゆっくりと待つか、うまく避けて通るかの二択となるのだろう。
こうして状況が飲み込めたところで。
御崎馬に注意しながら、高低差のある道を進んでいく。
数分もしないうちに。
意外とすぐに、視界が開けてきた。
これぞ待ち望んだ絶景である。鹿児島県側の志布志(しぶし)湾が見える。

ちょうど車を停めるスペースがあったので、車外に出た。
先までの雨が嘘のようだ。空には晴れ間が広がり、雨の湿り気が急速に気化していくのが分かる。時折、岬特有の突風が吹き抜け、もわっとした空気が一掃される。強風といい、天気の変わり具合といい、標高の高い山頂のようだ。
周囲を見渡すと。
強い日差しが反射して、先ほどの大雨で濡れた草木が輝いて見えた。
眩しいほどの緑に目がくらむ。現実とは思えないほど色鮮やかな風景の中をゆっくりと前に進んだ。
ふむ。
何かいるぞ。
前方に茶色い影を発見。
恐らくお目当ての御崎馬だろう。初めてのご対面に少し緊張する。
近付くにつれ、後ろ姿であることが分かってきた。ふさふさした尾の毛が風で揺れている。
第一村人ならぬ「第一御崎馬」だ。

第一印象はというと。
「無」。
というのも、まずもって驚いたのが、かの御崎馬が何の反応もしないコトである。
ウマの視界は350度ほど。正面を向いたままでも後ろ足の部分まで見えるワケだから、私たち人間の存在も感知しているはず。それなのに、全く動こうともしない。
数分待ってみたが。なんら景色は変わらない。
一瞬、本気で時が止まったのではと疑ったほどだ。いつ見ても、何度瞬きをしても、「第一御崎馬」は斜面の草を食(は)み続けている。どうやら人間のコトなど、一向に気にならない様子らしい。
意を決して、御崎馬の前方へと移動したが。
やはり何の変化もない。マイペースな佇まいである。

彼らは、ただ草を食むだけ。
いうならば、ここにある「今」に集中しているゆえのコト。「マインドフルネス」絶賛実践中なのである。
そんな御崎馬を、少し離れて観察中のダイソン。
未だにウマへのトラウマは消えず。それでも、鬣(たてがみ)が風に揺れる様子からは目が離せないでいた。
ひっきりなしに鳴り響くシャッター音も気にせず、御崎馬は食み続ける。
その姿を見ていると。
不思議なことに、自分でも意外なほど穏やかな気持ちになっていたのである。
「御崎馬」ってどんなウマ?
癒し効果は想像以上である。
恐るべし。御崎馬。
それにしても、ウマが苦手な私でも、そこまでの恐怖心を感じないのは、なぜなのか。
素人目でも、御崎馬が小さいのは分かる。競走馬の体高(地面から肩までの長さ)は1.7mくらいだが、御崎馬は大きいもので約1.3m。ちょうど人間の肩辺りの高さとなるからか、威圧感もあまりない。
だが、違いはそれだけではないだろう。
一体、彼らは通常のウマと何が違うのか。
まず、大きな違いの1つは。
御崎馬が日本の「在来馬」であるというコトだ。
日本の在来馬は体が丈夫。
その上、粗食に耐えることができ、骨や蹄(ひづめ)が堅く、さらには性格も温和で賢いといわれている。つい、昔の日本人が求める結婚相手の条件かと思ってしまうほどに、完璧だ。

ただ、日本の在来馬といっても、始まりは「日本」ではない。
日本のウマの起源は、諸説あるも、4世紀末にモンゴルから伝わってきたとされるのが一般的だ。
その後、日本全体でウマは人や物の運搬として欠かせない存在となり、さらには軍馬や農耕馬など多くの役割が与えられることに。だが、明治時代を境に、大きなサイズの西洋馬が日本に来たことで、状況は一変。これまでの在来馬と交配され、品種が改良されるに至ったのである。逆をいえば、日本各地で固有の在来馬が次々と姿を消していったのだ。
なお、日本の在来馬として現存するのはわずか8馬種だ。
北から順に、「道産子(ドサンコ、北海道)」「木曽馬(キソウマ、長野県)」「野間馬(ノマウマ、愛媛県)」「対州馬(タイシュウバ、長崎県対馬)」「トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)」「宮古馬(ミヤコウマ、沖縄県)」「与那国馬(ヨナグニウマ、沖縄県)」。そして今回取り上げた「御崎馬(ミサキウマ、宮崎県)」となる。この8馬種の中で、御崎馬だけが昭和28(1953)年に国の天然記念物に指定されている。

じつはコチラの御崎馬だが。
厳密には1度だけ、大正時代に洋種の血を引く小さめの種馬が導入されている。アメリカン・トロッター種の直系の血を引く北海道産の「小松号」だ。当時は日本馬全体の血統の改良を目的に「種牡馬検査法」が制定され、体高の低い民有種牡馬の供用が禁止されたからだ。
こうして、御崎馬の種馬として、已む無く「小松号」を僅か1年ほど取り入れたのだが。その結果、これまで御崎馬には見られなかった傾向が出てきたという。例えば、額に白斑が出現するなどの特徴である。その後、御崎馬は国の天然記念物に指定を受け、今では在来馬としての純粋性が追求されるようになっている。
ちなみに、コチラは御崎馬の背中である。
黒い筋があるのだが、お分かりいただけるだろうか。

世界で唯一の野生馬といわれる、モンゴルの野生馬「モウコノウマ」。
その特徴の1つが、背中にある鰻のような一筋の黒い線である。これを「鰻線(まんせん)」という。日本の在来馬にもこの鰻線が見られるが、これは品種が交配されずにそのまま原種に近い場合に現れるとか。まさしく御崎馬にも当てはまるのである。
さて、そんな御崎馬の体重はというと、300キロ前後。
なんと1日約40キロの草を消費するという。確かに睡眠時以外はずっと食べ続けるワケだから。それくらいの量にはなるはずだ。
蒲池明弘著『「馬」が動かした日本史』によると。
「野生の芝草であるノシバ。白っぽい穂ができるチガヤをはじめとするイネ科植物」の雑草が主食で、冬には常緑樹の葉などを食べて春を待つそうだ。

550ヘクタールという広さがあっても。
禿げ山にならないかと少しだけ心配したが、そこは杞憂であったようだ。なんせ、彼らの食べ方は草刈り機と同じ。根こそぎは食べないのだとか。これも自然の知恵なのだろう。
実際に放牧エリアに足を踏み入れたが。
大草原と穏やかな丘陵地だけではなく、近くには大きな林があり、じつに山そのもの。このように山林があれば、台風や豪雨の雨風を避けられるし、真夏の強い日差しも遮ることができる。実際に、真夏は尾根などの涼しい場所で、冬は海岸近くの南向きの山林で過ごすというから、御崎馬にとってはこれがベストな環境なのかもしれない。

このエリアを管理している団体がある。「都井御崎牧組合」だ。
遡ること江戸時代。
日向国(宮崎県)には幾つかの小さな藩があったが。この地は、そのうちの1つである高鍋藩営の牧場であったという。
ひょっとすると「高鍋藩」という名よりも「秋月藩」の方が分かりやすいかもしれない。
初代藩主は秋月種長。豊臣秀吉の九州征伐に早い時期に抵抗を示して敗北した戦国武将だ。命は取られなかったものの、筑前国(福岡県)からこの日向国財部(たからべ、のちに高鍋)3万石へと移封。その後、天下人となった徳川家康からも、同じ所領が安堵されている。
都井村史によると。
元禄10(1697)年8月に当時の高鍋藩主である秋月家が牧場を開設。「牧奉行」を置いて放牧をしていたことが分かっている。
その後、江戸時代は終焉を迎え、藩制度が廃止。これに伴って、高鍋藩営の牧場も放置されたという。

この状況を受け、県が政府に廃牧を申請。
そして、明治7(1874)年に新たに入札したのが「御崎牧組合」である。
約155名の人たちが出資して組合を結成し、牧場やら山林やら土地を共有するに至った。山口富郎氏の寄稿した『御崎馬の今昔』(日本ウマ科学会『Hippophile(12)2002・4』)によると、当時のウマの頭数は種牡馬6頭、牝馬117頭。ウマの払い下げ代金は652円88銭だったという。
現在の頭数はというと。
令和7(2025)年4月初旬に、メディアで御崎馬の出産がニュースとなり、直近の総数が報道された。
それによると、7日に今年初の仔馬が生まれ、その1頭を含めて総数は101頭だとか。例年4月から5月が出産シーズンとなり、ほぼ毎年20頭ほど生まれるというが、ほぼ近い数の御崎馬が死ぬため、総数はあまり変わらないようだ。
サファリ体験を大満喫
それでは、再度、車を移動させ、都井岬の標識のある駐車場へ。
ここからは徒歩で、近くにある「小松ヶ丘」付近を散策する。疑似サファリ体験のスタートである。

最初は珍しかった御崎馬も。
この1時間でかなり見慣れた存在になってきた。ここにもあそこにもと目移りして、お気に入りの御崎馬を探すのが一苦労である。個人的には恐怖心も薄れ、驚くことも少なくなったといえる。
いつ見ても、彼らは相変わらずのお食事タイム。
このように、都井岬では1年を通して御崎馬を「放牧」するスタイルだ。それでも、彼らが「野生馬」と明確に定義されないのには、理由がある。
それは、監視員が遠くから常時見守っているからだ。
平成23(2011)年に馬伝染性貧血に感染した馬が確認され、12頭が殺処分となったが。このような伝染病などの場合を除き、監視員は一切手を出さない。本当に文字通り、ただ見守るだけ。餌など与えないのはもちろん、病気やケガをしても、手当てすることもない。繁殖も自然繁殖だ。
この「ウマに関わらない」というルールは、見学者の私たちも同じ。看板でも注意事項が表示されている。

一方で、彼らが暮らす環境については、都井御崎牧組合により最低限のラインが整えられている。
2月には「野焼き」、9月には年1回の「馬追い」が。さらには、危険な場所などの整備や、水汲み場の清掃も行われるという。
この「馬追い」は、江戸時代から続く伝統行事である。
江戸時代では、生まれた若いウマを捕獲する目的だったが、現在では、御崎馬を守るという意味合いで行われている。具体的には、竹の棒を使って御崎馬を柵に追い込み、ダニ駆除などを実施。また採血をして御崎馬の健康状態も調べるという。この年1回の「馬追い」は、一般人も有料で体験できるそうだ。
さらに、御崎馬を注意して見ると。
その躯体には、謎の数字が確認できる。

これは、御崎馬の管理番号だ。
放牧され、自然に近い姿で暮らしていても、内部では1頭1頭それぞれに番号が振られて「馬籍簿(ばせきぼ)」で管理されている。完全なる放置ではなく、広い意味で「見守り維持する」。この実情が「半野生馬」といわれる所以なのである。
それにしても、自然の中だからか、恐怖心も薄れつつある。
せっかくなので、もう少しだけ御崎馬に近付いてみる。今更ながら御崎馬の毛色に気付いた。黒っぽいモノから茶色のモノまで、随分と幅がある。なんでも、御崎馬の毛色は、鹿毛(かげ)、青鹿毛(あおかげ)、黒鹿毛(くろかげ)、栗毛(くりげ)の4種類あるとか。
個人的には、黒っぽい感じの毛色が好きだ。
都井岬で初めて見た「第一御崎馬」が理想の毛色。確かに思い出してみると、風でなびく鬣も良かった。「ファースト御崎馬」がまさかの「ベスト御崎馬」だったりしてと。
おっと。
危ない危ない。
御崎馬に見とれて、やらかすところであった。ウマにも地面にも注意が必要である。

こうして周囲を見渡すと。
不思議と、1頭だけで行動する御崎馬をあまり見かけない。
それもそのはず。御崎馬は数頭の群れで生活し「ハーレム」を形成(※「ハーレム」はれっきとした学術用語である)。牡馬1頭に対して数頭の牝馬、そして仔馬という家族群で生活をしているのだ。
これだけ聞くと、一部から羨ましいなんて声が上がるかも。
だが、人生、そう甘くはない。その後の牡馬(種馬)が辿る最期は意外なモノである。牡馬は14~15歳になると力が衰え、複数いた牝馬も去っていく。こうして1頭になった牡馬は静かに姿を消して、ひっそりと死を迎えるとか。家族に看取られてというワケではなく、孤独のラストとなるようだ。
あらん。
ここで前方に、可愛すぎる仔馬を発見。
先ほどの馬糞の画像とは雲泥の差だ。
自分でも意外だが。
生まれて初めてウマに近付きたいと思えたかも。こりゃ、たまらん。

そっと近づきながら、大学時代に負ったトラウマを思い出す。
期間限定バイトに応募したあの日のことを。
それは、京都の某有名観光所の近くにある駐車場の呼び込みの短期アルバイトだった。期間はゴールデンウイークのみ。1週間でお金が稼げると、軽い気持ちで応募したのだが。そこに立ちはだかったのが、まさかのウマ。じつは、その駐車場の事務所には、なぜかものすんごい、ごついウマがいたのである。それも事務所への通路の途中、ウマも身動きが取れないほどの狭い場所で飼われていたのだ。
絶対に大丈夫だから。大人しい子だから。ウマの横を通って来て。
そんな気休めの言葉を言われても。コチラは恐怖しかない。だって、これほど近くでウマを見るのも初めてだし。あまりにもデカすぎたのである。ウマの横を通る時に、後ろ脚で蹴られでもしたらと面接を断念。事務所の通路の前から「ムリでーす」と叫んでジ・エンド。
それ以来、ウマを見れば、なぜか汗が出る。あの場面が思い出されるのだ。
そんなほろ苦い記憶も、仔馬の前では薄れるのか。仔馬から目が離せない。
あら。まあまあ。あらん。
立つのか?
立てるのか?
あかん。カメラマンどこ行った?
世紀の瞬間なのに。
どこにいるか分からないカメラマンに「バンビが! バンビ! バンビ! 撮影!」と連呼していたら、後ろから冷静に一言。「ポニー」と訂正された。
それほど我を忘れて興奮した瞬間をキャッチしたのがコチラ。

ああ。きっと。
子どもの成長を見守るとはこういう気持ちなのだろう。
仔馬の母親でもなんでもないが。温かい気持ちが溢れ出て、もう母性の渋滞である。
そんな感動の場面で。
今度はなんだ?
目の端で何かが動いたではないか。
仔馬から目が離せないというのに。
何かと思えば。相手は全く気づいておらず。どんどんコチラに近付いてくる。
おい。
大丈夫なのか。二ホンアナグマよ。
ただならぬ殺気を感じたのか、それとも恥ずかしがり屋なのか。
二ホンアナグマは一目散に退散。マズいと思った瞬間、またもや後方のカメラマンから「撮影成功」と言われてホッとする。

それにしても、二ホンアナグマとは驚いた。
確かに、これほど自然豊かな環境なのだ。御崎馬のみならず、他の動物がいても不思議ではない。逆に、なかなか珍しい体験である。
時計を見ると、あっという間に2時間半が経過。
意外に時が経つのを忘れて、ワイキャイしていたようだ。
御崎馬から始まった疑似サファリ体験。もう大満足である。
それでは、ラストを。
この完璧なショットで締めさせていただこう。
これぞ岬、これぞ宮崎、これぞ御崎馬。

若い頃のウマのトラウマは、見事払拭。
それだけでも来た甲斐があるというものだ。
こうして、冒険心満たされる取材が終了したのである。
取材後記
北海道から九州まで移住し、様々な場所を訪れたが。
今回の取材で、またしても「初めて」の経験をした。
今でも信じられないが。
雨露で濡れた木々が、あれほど光り輝くのを見たことがない。
「駒止の門」から続く道でのこと。
晴れわたる放牧地を初めて目にしたとき、居ても立っても居られず、車を停めてもらって車外へと出た。
呆然と周囲を見渡すと。現実世界とは思えない圧倒的な美しさに、しばし時を忘れた。時だけではない。正直なところ、取材だというコトも忘れ、ただ、呆けた顔で立ち尽くしていたのである。
今から思えば、恐らく様々な条件が重なってのコトなのだろう。
大雨直後の晴天。緑が色鮮やかになる「初夏」という季節。午後2時の太陽の位置。それぞれのタイミングが合致して、あの忘れもしない景色が一瞬だけ作り出されたようだ。
とにかく、存在するモノすべてが鮮明で。
逆に人工的だとさえ思えるほどに、そこには完璧な色彩があった。
青空も、草木も、馬の毛並みも。目に見えるものすべてが、白黒からカラーの世界へと変わったかのような衝撃を受けたのである。
その景色の中に、彼らがいた。
自然と生きる御崎馬である。
丘陵地で悠々と草を食む彼らの姿は、絵本の1ページを切り取ったかのようで、そのバランスが見事だった。
この瞬間をどうしても残しておきたくて。
1枚撮影してもらったのが、コチラ。

これまでの人生の中で、忘れがたい特別な一瞬。
何度も何度も更新されてきた人生の絶景ランキング。
今回の取材で、またもや更新されそうな予感。
これだから、この仕事はやめられないのだ。
撮影/大村健太
参考文献
『Hippophile(12)2002・4』 日本ウマ科学会 2002年4月
『70年のあゆみ』 日本馬事協会 2019年5月
『「馬」が動かした日本史』 蒲池明弘著 文藝春秋 2020年1月
基本情報
名称:都井岬 駒止めの門
住所:宮崎県串間市大納6
公式webサイト:https://kushima-city.jp/toi/

