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2025.07.17

菅原道真公も愛した梅の木6000本! 太宰府天満宮「梅守」に聞く、特別な絆とは?

「ちょうど、ものすごい量の紫蘇(しそ)が(あるから)ね」と1人目の男性。

「そう、明日から紫蘇摘み。この色をつけるために」
2人目の男性が指さす透明の容器。
入ってるのは濃い赤紫色に染まった見事な「梅干し」だ。

「みんな、(紫蘇を)手でちぎって。揉んで、塩を振って。原材料は梅、紫蘇、食塩だけ」と3人目の男性が笑う。

そんな3人のやり取りを前に、時折、自分のいる場所を忘れてしまう。
一体、私はどこで何の取材をしているのかと。

ズバリ言おう。
ここは「梅干し」の会社ではない。
日本全国の天満宮の総本宮、学問の神様としても有名な菅原道真公を祀る「太宰府天満宮」なのである。

一体、どうして。
太宰府天満宮に「梅干し」が?

読者の方も、そんな素朴な疑問を持たれたであろう。
それもこれも、すべての始まりは「梅」。
正確には、御祭神である菅原道真公が愛したとされる「梅の木」である。

今回は、そんな「梅」にスポットを当てて。
知られざる「太宰府天満宮」と「梅」の特別な絆をご紹介する記事となる。

お話をうかがったのは、コチラの方々。
冒頭の「梅干し」の話で、既に息の合ったやり取りを見せていただいたお三方となる。

左から古賀義悟氏、真木智也氏、中島紀寿氏

中央は広報も担当される権禰宜(ごんねぎ)の真木智也氏。

その両隣には、境内の神苑管理を担う古賀義悟氏(左端)と中島紀寿氏(右端)。
ちなみに、一級造園技能士の国家資格を持つお2人だが、じつは対外的にもう1つの肩書があるという。
その名も「梅守(うめもり)」。
太宰府天満宮の「梅の木」をお世話される方たちなのだ。

さても、どのような驚くべき話が出てくることやら。
それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は太宰府天満宮の「飛梅(とびうめ)」です
※本記事の写真は「太宰府天満宮」「かのや」に許可を得て撮影しています
※この記事に掲載されているすべての商品価格は、令和7(2025)年6月末現在の価格となります
※古代は「大宰府」で表記しています

太宰府天満宮の場所は御墓所の上?

福岡県太宰府市にある「太宰府天満宮」。
西鉄太宰府駅からは徒歩で6分ほど。といっても、改札口を出てすぐの表参道には、太宰府名物「梅ヶ枝餅(うめがえもち)」をはじめとする多くの飲食店が連なり、鳥居まではあっという間。あちこちで中国語や韓国語が飛び交い、海外からも含め多くの参拝者で賑わう通りである。

太宰府天満宮の鳥居

今回の取材先は、受験生にダントツの人気がある太宰府天満宮。
だが、そんな太宰府天満宮を、じつはあまり知らないというコトに思い至った。
例えば、御祭神が「菅原道真」公であるのは周知の事実。それに加えて、道真公は学問の神様であるとか、天満宮には梅の木が多いとか。なんとなく知ってはいても、その詳細な理由までは自信がない。

ということで、まずは簡単に菅原道真公のご紹介を。
道真公は父祖三代続く学者の家に生まれ、幼少よりその才を遺憾なく発揮。11歳で漢詩「月夜見梅花」を詠み、周囲を驚かせたという。この漢詩からもかなりの「梅好き」の片鱗が見える。
その後、学者としても順調にキャリアを重ね、元慶元(877)年、33歳で学者の最高位である「文章博士(もんじょうはかせ)」に。

月岡芳年「月百姿」「月輝如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉房馨 菅原道真」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

そんな道真公に転機が訪れたのは、仁和3(887)年に起きた「阿衡(あこう)事件」だろう。
宇多天皇と藤原基経との間に起きた事件の解決に尽力したコトで、勢いに乗る藤原氏を抑える存在として、その後、宇多天皇より重職に抜擢。その厚い信任を受け、朝政の中枢に携わることとなるのである。
なお、日本史の中では、寛平6(894)年、遣唐使の停止を建言したのは有名な話。道真公、御年50の頃である。

昌泰2(899)年、続く醍醐天皇にも重用され、藤原時平は左大臣、菅原道真は右大臣に。学者としては異例の出世を果たす道真公だったが、これまで他氏をことごとく排斥してきた藤原氏がこの人事を見過ごすはずもないワケで。その2年後、時平の策謀により、道真公は「大宰権帥(だざいごんのそち)」に左遷。エリートコースから突然の転落となったのである。

「府の南館(現在の榎社)」で謹慎すること2年。
望郷の思いにかられながら、延喜3(903)年2月25日、道真公はこの世を去る。享年59。
道真公の亡骸は京都に戻さず、牛車に引かせ、牛がうずくまって動かなくなった場所に埋葬された。

太宰府天満宮の太鼓橋

その後、たたりと称する異変が都で相次いで起こったといわれている。
それだけが理由ではないにしろ、結果的には、延長元(923)年に罪を取り消され本官に復し、正暦4(993)年には正一位太政大臣が贈られた。
その間も、道真公は多くの人たちに「天神さま」として崇められ、その信仰は全国に広がっていったのである。

なお、道真公が埋葬された地には「祀庿(しびょう、お祀りする社)」が造営され、さらに延喜19(919)年には御社殿が創建。それが、この太宰府天満宮である。
つまり、全国の天満宮の中でも、道真公の御墓所の上に創建されているのは太宰府天満宮のみ。総本宮といわれる理由はここにある。

太宰府天満宮の楼門

それだけではない。
太宰府天満宮の宮司は現在で40代目。代々菅原家直系の子孫が宮司となり、道真公の精神が今なお受け継がれている。
こうした様々な理由から、全国の天満宮の中でも唯一無二の存在といわれるのだ。

その特殊性は、神紋である「梅の紋」にも見て取れる。
じつは、一口に「梅の紋」といっても、それぞれに違いがあるのをご存知だろうか。
全国の天満宮で多く見られるのは「梅鉢紋(うめばちもん)」。5枚の花弁を円形で表し、太鼓の撥(ばち)を組み合わせた幾何学的なデザインだ。

一方で、太宰府天満宮の神紋は、梅の花を写実的に表現した「梅花紋」だ。
コチラは手水舎の吊灯籠の「梅花紋」。確かに梅の花そのままである。

手水舎の吊灯籠の「梅花紋」

コチラは、124年ぶりの大改修中の御本殿に代わって参拝する仮殿。
その賽銭箱にも、さりげなく彫られた「梅花紋」を発見。

仮殿の賽銭箱の「梅花紋」(御本殿は令和8年頃に竣工予定)

同じ天満宮でも、神紋が異なるのは当然のコト。
ただ、この「梅花紋」を神紋とするのは、全国の天満宮の中でも太宰府天満宮のみ。
まさしく、道真公の墓所の上に建つ「信仰の聖地」だからこそといえるだろう。

「梅」が大事にされる理由

そんな太宰府天満宮で「梅」を語るとなれば。
最初に触れておかなければならないのが、コチラの「飛梅(とびうめ)」。
現在、大改修中の御本殿に向かって右手にある、柵で囲まれた梅の木である。

太宰府天満宮の御本殿の右手にある「飛梅」

この「飛梅」のいわれはというと。
道真公が左遷される際に、庭にある梅の木に歌を詠まれて、別れを惜しまれたという。

東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
(春風が吹いたら、その匂いを大宰府まで送っておくれ、梅の花よ。私という主人がいないからといって、春を忘れてはならないぞ)
(太宰府天満宮のホームページより一部抜粋)

「そんな道真公を慕って、都からこの太宰府へと一夜にして飛んできたと伝えられています」と権禰宜の真木氏。

なんとまあ。
その心意気は、健気そのもの。

実際に目にすると。
意外といってはなんだが、かなりボリューミーで存在感が半端ない。遠目から見ても迫力が違う。

太宰府天満宮の「飛梅」

「色玉垣」という八重の品種で、極早咲なのだとか。
そのため飛梅は、毎年、境内の梅に先駆けて開花するという。

「『飛梅』の子孫を残しながら、ずっと繋いでるみたいなやり方」と古賀氏。

なるほど。
時代を超え、存在し続けるには当然のコトだろう。
それも「飛梅」の子孫なのだから、道真公への献身的な愛がしっかりと受け継がれているはずだ。

そんな飛梅も毎年6月には多くの実をつける。
貴重な実は、諸願成就を願う「飛梅御守(一生一代御守)」として授与されるという。

「『飛梅神事』というおまつりをして。神職が(梅の実を)落として、巫女が拾って、それをご神前にお供えをしてから御守りにします。こちらに関しては、おまつりに御参列いただいての特別な授与になります。月のはじめ、1日のおまつりの時に、宮司自らが祝詞を詠んでお渡しします」と真木氏。

もちろん「飛梅」のみならず、境内にある梅の木の実も御守りとして授与される。

「梅実守」(初穂料1,500円)

それにしても、どうして「梅の実」を御守りにするのだろうか。
尋ねると真木氏が教えてくれた。
「道真公がこよなく愛した植物、梅であって。実際に種を開けるとですね。なにか人が入ったような形に見えるというか。特にこの地域では、梅の実の中に天神さまが宿っているという信仰があって。それが御守りにもなっているということです」

ってコトは。
毎日食べてる梅干しの種。それって……捨てられないじゃん。
そんな風に思ってしまったのは、どうやら私だけではなさそうだ。
太宰府天満宮には、なんと梅の「種」を捨てる場所まであるという。

「梅の種」納め所

実際に行ってみると、納め所はなかなか見つけにくい場所にあった。
御本殿向かって右側の奥。つまり、裏手である。ひっそりと置かれた石の箱。

真木氏曰く「(種を置かれるのは)特に地域の皆さんですけど。もういっぱい溜まってますよ。もちろんある程度溜まったらお焚き上げします」

ちょっと失礼して、中を拝見。
ホントに梅の種がどっさりと置かれていた。バラバラなモノもあれば、1つの袋にまとめられているモノも。梅の種を捨ててなるものかという強い意志が感じられる。

立札の日付は「天保十五年(一八四四)正月」。

「梅の種」納め所の立札

江戸時代、いや、それ以前からかもしれないが、このような風習がずっと続けられていたというコトか。

「梅」への愛、恐るべし。
むむむと唸るしかなかったのである。

「梅」だけではないスーパー職の「梅守」

さて、「梅」への愛といえば。
やはり忘れてはならないのが、「梅守」の方たちだ。ここでようやくのご登場である。

両名とも歴20年以上の大ベテラン。
神苑管理の道を選んだ理由を「なんとなく」とはぐらかされてしまったが。終始、真剣な表情で話されていた古賀氏(右側)は、まさにこれぞ職人のような硬派な印象だ。
一方で、そんな古賀氏の誘いを受け、太宰府天満宮で共に働くことになった中島氏(左側)。聞いてると癖になる九州弁を笑顔で駆使し、私の足りない知識をそれとなくフォローしていただいた。

境内の神苑管理を担う中島紀寿氏(左)と古賀義悟氏(右)

最初に太宰府天満宮の「梅の木」について話を聞いた。
「うちの梅は献梅で、全部奉納されていて。境内にあるのは買った梅じゃなくて『奉納の梅』っていうことなんです」と古賀氏。

境内には約200種類、6,000本近くの梅の木があるというが。
そのすべてが参拝される方や信仰される方など、多くの方から奉納されたもの。まずその事実に驚いた。

続けて、古賀氏が説明する。
「だから、弱っても切らないんですよ。うちは。奉納された方がいるから。逆に切れないです。切らずに残すみたいな感じで、添え木をつけて立てたりと、大事にしています」

なるほど。
つまり「梅守」という仕事は、ただ木を育てて終わりではない。1本1本、人々の気持ちが込められた梅の木を育て、維持し、管理する。献梅した人たちがいつまでも見られるようにと。そんな重要な仕事なのだ。

支柱を立てている梅の木。少しでも長く梅の木を残すことも彼らの仕事だという

ちなみに、この献梅だが。
梅の苗木を自分で用意することもできるし、太宰府天満宮側で準備してもらうこともできるという。

「こっちで準備する時は(すべての)品種が(神苑から)なくならないようにって考えて。(全体でいえば)『曲水の宴』っていうのが、3月の第1日曜日にあるんですよ。だから、そこには遅咲きの梅を植えて。で、それ以外は、赤がないなと思ったら赤(色の梅)を入れたりしてますね」と古賀氏。

曲水の宴とは、平安時代の宮中行事を再現した太宰府天満宮の神事である。
確かに3月であれば、時期的に「梅の木」では遅いような気もするが、ここは遅咲きの梅で対応する。他にも太宰府天満宮には多くの神事があるが、これらと連動しながら神苑を整備していくという。

様々な品種を組み合わせ、神苑のデザインを考えるのも彼らの仕事。いやはや。想像以上にセンスが求められそうだ。

ズラリと並ぶ梅の木だが、それぞれ品種が異なる

そんな「梅守」の1年のスケジュールはというと。
「梅の木の剪定が6月末ぐらいから始まって、11月いっぱいで境内を全部剪定して」と中島氏。

ふむふむ。梅の木の剪定に5ヶ月かかるのかと頷くが。
正直、ド素人なので、それが早いのか遅いのか全く分からない。

「梅の木が6,000本あって。で、山の方にもあるんですよ。だから、境内がだいたい11月いっぱいで終わって。それから正月の準備で竹垣とか変えて。また1月からは苗木の剪定とか、あと肥料やり。で、今度は梅の木に携わる。梅ちぎりの神事とか、そういうのもやったりします。あとイベントごと。草刈りも」と古賀氏。

さすがに、なんとなくだが、梅の木が多いのは分かってきたゾ。それに付随してやるべきこともたくさんある。
だが、それでも、まだピンと来ない。
一体、何人で行うというのだ?

古賀氏:「『梅守』は4人です」
中島氏:「女性の方もいます、3年目」

おっと。
少しずつだが、ようやく事のヤバさを理解してきた。
実際に神苑を回ると……なんと、まあ。梅の木だらけである。

それなのに、である。
「山のところにもあるんですよ。梅の木が。あの山の向こうにも」と中島氏。

両側はもちろん梅の木がズラッと並ぶ。さらに遠く彼方にに見える山にも梅の木が……

聞けば、山の谷に梅の木の段々畑があるというではないか。それ以外にも、御本殿の裏手にも梅の木がある。様々なエリアに梅の木があるようだ。

気付けば、汗がたらりと背中をつたっていた。
気候のせいではない。どれほどの仕事量なのかを、ここで初めて理解したからである。

中島氏:「(梅の木は)1年に1m以上伸びるんですよ、枝が。なんかすごいのだと2m近く伸びるね」
古賀氏:「200品種あるんで。世話の仕方っていうか、もう伸び方が違うんですよ。それに1本1本手作業なんで。バリカンとかで切るわけじゃないから。梅の木は」

加えて、切る作業にも経験がモノを言う。
「今切っても『3年後に実がなるように考えて切る』っていう感じの切り方なんです。今年切って。来年、芽が出て、で、次の年に花が咲いて、実がなるって感じで。経験ですね」と古賀氏。

未来を見据えて、長く伸びている枝を1本1本切っていく

3年先を考えながら切る。それも6,000本。
そして、この気の遠くなるような作業を、毎年毎年繰り返すワケである。

「まあ、1回これを全部切ってしまったら綺麗になりますから」と古賀氏。

いや、そうは言ってもである。
6月から11月といえば、ちょうど気温が上がる時期ではないか。特に太宰府市の夏は半端ない。全国のニュースで取り上げられるほど猛暑日の多い地域である。

中島氏:「めちゃめちゃ暑いですよ」
古賀氏:「梅の木も松の木も枯れたり、ツツジも枯れたり。気候が変わってきて、梅の木がどうなるかっていうのはありますね。暑いから。別の肥料を入れたりとか。先を見て変えていかないとって感じですね」

梅の木の前にあるのは……ツツジ?

あれ?
そのまま先へと行きそうになったが、頭の中で古賀氏の言葉を巻き戻しする。
「梅守」なのに。松の木も、ツツジもって。どうなってんだ?

再度、名刺を確認すると「神苑管理部」の文字が。
確かに、太宰府天満宮の神苑には「梅の木」以外にも多くの植物が植えられている。
まさか……。もしかして、他の木の剪定も?

「してます、してます。『梅守』といっても、じつはなんでもやります。言われるなら全部やります。6月はツツジの剪定です」と古賀氏。

その後、神苑の中を移動しながら取材すると。
手水舎の前を通過した際に、古賀氏が一言。
「これも、やりました」

キレイな紫陽花の花手水(※毎年6月上旬の1週間程度)

宝満山の一枚岩でできた手水鉢にあったのは、鮮やかな紫陽花の花手水(はなてみず)。
多くの人たちがスマホで撮影していたのも頷ける。

次に、池の横を通り過ぎると。
「あれもやってます。いいもみじがあって、池の前に植えたんだけど……」と古賀氏。

池に浮かぶ色とりどりの花菖蒲

視覚効果抜群の配置で、池に花菖蒲(はなしょうぶ)が浮かんでいる。
配色もさることながら、いきいきと咲いているその姿に足が止まる。

古賀氏曰く「まあ、神苑全部ですね」

というコトは。
太鼓橋付近に咲く見事な紫陽花も。

紫陽花

梅の木だけでなく、あれもこれも。
神苑全体を見事に造り上げる「梅守」の方々。

さすがに、取材の途中ながら。
私の口から出たのは、「参りました」の一言。
それにしても、悠長に花を見ながら取材だなんて。コチラはなんの考えなしに申し込んでしまったが、今更ながら、大事な時間をいただいたことに猛反省。

それでも、彼らはこう話す。
中島氏:「1月2月に来てください。全然景色が違うから」
古賀氏:「梅はつぼみから見れるから。つぼみも表情が全部違うんです。それに、だいたい自分たち、葉っぱが落ちても綺麗に見えるような剪定してるんですよ。葉っぱが落ちた時に来られた方がめちゃくちゃ綺麗だと思います」

残念ながら、画像は剪定前、つまり、ビフォーアフターの「ビフォー」の方である。
記事を読んで、太宰府天満宮へと行かれる方は、タイミングが合えば「アフター」が見られるはずだ。

番外編は「梅」にまつわる珍トリビア

記事がうまい具合に締まったので。
このまま取材後記を書いて終わろうと思っていたのだが。

おっと。
冒頭の「梅干し」に触れていないではないか。
いや、他にも「梅ヶ枝餅」やら「梅上げ」やら。
というコトで、最後は駆け足で番外編、梅にまつわる珍トリビアをご紹介しよう。

まず1つ目は、太宰府名物の「梅ヶ枝餅」から。

梅ヶ枝餅

真木氏によると。
「ちょっとわかりづらいですが、餅の上に梅の紋がついてるんです。道真公が京都から大宰府に左遷をされてきて。お食事もまともに与えていただけないようなご生活で。それを近くの浄妙尼(じょうみょうに)というおばあちゃまが、道真公が好きだった梅の枝にお餅を添えて差し入れされたんですね。それが「梅ヶ枝餅」として、太宰府の名物になっています」

実際、いただいたが。
じつに美味。
あんこの入ったお餅で、シンプルなのだが。これまた素朴な味が美味しいのである。

参道には、焼き立ての梅ヶ枝餅を売る店が立ち並ぶ。
聞くと、30店以上あるのだとか。

梅ヶ枝餅の店が軒を連ねる表参道

ちなみに、毎月17日と25日は餅の味が変わるという。

中島氏:「17日は古代米(の餅)やったね」
真木氏:「17日は九州国立博物館ができた記念として。25日は天神さまの御縁日なんで、よもぎ(の餅)も出ます」
太宰府天満宮へお参りの際に、是非ともおススメしたい。

次に2つ目。
冒頭でご紹介した限りで、暫く放置してしまった「梅干し」である。
まずは、ご覧いただくのが一番。

太宰府天満宮の手作り梅干し「天神さまの梅」

「みんなで作った梅干しです。これが本当のテイクフリー。神職、巫女含めて。昔ながらの梅干しですね。超手作りです。11月にお守り授与所で梅干しとして授与されます」と真木氏。

太宰府天満宮にある6,000本の梅の木には、当然のコトながら実ができる。
その収穫した実を、太宰府天満宮の職員が漬けて、梅干しを作るというワケである。

ただ、梅干しになるのは「白梅」のみだとか。
「白梅しか漬けてないんですよ。白い花が咲く梅の木ですね。紅梅は実が薄い。だから硬い。白梅の方が実が厚いんです」と古賀氏。

なお、梅の収穫である「梅ちぎり」は、御神木の「飛梅」から始まる。
2025年の「飛梅ちぎりの神事」は、5月20日に行われた。「飛梅」の枝を神職が竹ざおで揺らし、実を巫女が拾い集める。今年は61個の実が奉納されたという。
そして、これを皮切りに、神苑内のすべての梅の木の実を収穫していく。

「(梅の実は)恐らく2トンは取れてるはず。だいたい1週間くらい(かかる)。地域の幼稚園とかも手伝いに来てくれて、園児とかみんなで拾ってくれるんで」と古賀氏。

太宰府天満宮の手作り梅干し「天神さまの梅」

漬ける際には、エアコンで温度管理を徹底。
添加物一切なしのガチの梅干しである。

そんな「天神さまの梅」を家でいただいたのだが。
久しぶりの酸っぱさに、目がギンと開いた。昼間なのにもう一段階、目が覚めた感じである。それにしても、日頃、いかに「はちみつ梅干し」などで甘やかされていたかを痛感した。

ちなみに、当然ながら、年によって梅の実の収穫量は異なる。
なんでも、経験則上、なぜか「申年(さるどし)」は収穫量が少ないのだとか。だが、昨年はその申年よりもさらに少なかったという。
そんな貴重な年の梅干しだと聞いて、さらに恐縮。大切に1粒1粒しっかりと味わうのはもちろん、種は「納め所」へ返そうと心に誓ったのである。

最後の3つ目は。
太宰府ならではの「梅上げ」神事で締めくくろう。
コチラは、明治時代から現在まで続く地域の伝統行事で、初老(数え41歳)の男性と還暦(数え61歳)の男女が、厄除けに太宰府天満宮に献梅するという習わしのことである。

先ほど太宰府天満宮への「献梅」をご紹介させていただいたが。
真木氏によると。
「どうしても(神苑の)スペースに限りもあるからですね。やはりご自身の中で節目の時に(献梅)をお願いしてて。地域の皆さんも『還暦』とか『初老』とか。『梅上げ』神事という形ですね」

ここでいうところの「梅上げ」神事である。
そもそも「献梅」は、人生の節目でなされることが多い。その中でも「初老」と「還暦」の厄年に関しては、毎年3月に地域一体で行われるようだ。太宰府で生まれ育った方を中心に希望者らを募り、皆で1本の梅の木を奉納する。当日は、献梅する梅の木を台車に乗せ、餅を配りながら、三味線や太鼓を打ち鳴らして練り歩くという。参道には「お神酒」の接待が至るところであるとか。

真木氏:「私も参加してるんですよ。(3人とも)みんな参加してね」
古賀氏:「ずっと(お神酒を)飲みながら。(鳥居に)着いた頃には『初老』とかは、もう酔っ払ってる」
中島氏:「自分たちの時は、100人ぐらい集まってですよ」
真木氏:「参加した人しか分からない素晴らしさというか……」

「梅上げ」神事の話で盛り上がる梅守の方々

やけに楽しそうである。
お三方の話しぶりからしても、素晴らしい行事であることが、ひしひしと伝わってくる。

なお、準備は1年前から。
既に来年の準備がなされているというから、力の入れようが違う。

真木氏:「献梅された梅の木には大きな札がかかってあって分かりやすいです」
中島氏:「自分たちは辰年と巳年の同級生でやって、『辰巳会』という札でした」

コチラは、令和7年の還暦の方々の「献梅」である。「巳午会」という札がかかっているのが確認できる。

令和7年の還暦での献梅/「巳午会」

話を聞くだけだが、単純に、いいなと羨ましくなった。
故郷で、仲間と人生の節目を迎える。
それもまた、忘れられない一コマとなるだろう。

そして、梅の花の咲く頃。
自分たちの梅を見るために、太宰府天満宮へ。
それが、毎年毎年続いていく。

こうして、いつも人々に寄り添って。
太宰府天満宮はその一生を見守り続けるのである。

取材後記

今回の取材で印象に残った言葉がある。

「個性溢れる人たちばっかり、梅の木ばっかりやけん」

梅守の1人である中島氏の言葉だ。
最初は、ちょっとした言い間違いだと思った。
だが、取材を続けていくうちに、彼ら梅守にとって「梅の木」は、単なる神苑管理の対象ではないことを知った。

梅の木にも「個性」がある。
品種や樹齢が同じであっても、根の張り方や枝ぶりなど、やはり1本1本、その様相は全く異なる。そんな梅の木に対して、あたかも「人間」と同じように接しているからこそ。「個性ある木」ではなく、「個性溢れる人」という言葉が漏れ出たのであろう。

太宰府天満宮の太鼓橋付近の風景

真木氏はこう話す。
「何と言っても道真公がこよなく愛された木なんで。もちろん彼らも枯らすわけにはいかなくて。綺麗に境内を保っていくのと。うちの場合、それからまた梅干しまで作っていくので。綺麗に見せるのと実ができるようにと、両方兼ね備えないといけないんです。そういったところが大変かなと」

だが、大変な仕事でありながら、それでも彼らの表情は明るい。
そこには、恐らく「梅守」という仕事への「誇り」があるからだろう。

「ちょうど花が咲いた時期とか一番綺麗なんですよね。その時期に作業してて、『綺麗』とか、そういう声を小耳に挟んだりしたら嬉しいですよね」と中島氏。

「奉納された方が見に来られて。それで花が咲いて、やっぱり喜んで帰ってくれたりって。嬉しいですね。お孫さんたちも一緒に来たりとか。その方が亡くなってもそのお孫さんとか来てますね。代々繋がっていきます」と古賀氏。

梅の木に託された人々の想い。
消さないように。
絶やさないように。
彼らは日々奮闘する。

そんな日焼けした2人の顔が。
とても眩しく見えた。

撮影/大村健太

基本情報

名称:太宰府天満宮
住所:福岡県太宰府市宰府4-7-1
公式webサイト:https://www.dazaifutenmangu.or.jp/

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Dyson 尚子

京都出身のフリーライター。北海道から九州まで日本各地を移住。現在は海と山に囲まれた海鮮が美味しい町で、やはり馬車馬の如く執筆中。歴史(特に戦国史)、社寺参詣、職人インタビューが得意。
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