技術者の技と熱狂を体感! 橋を歩けば日本がわかる
水の都、東京。隅田川のクルーズでは、いくつもの橋をくぐったり見上げたりしながら東京を眺めることができ、「東洋のヴェネツィア」と言われるのもうなずけます。
「隅田川に架かる橋は、形も色もすべて違います。これほど多種多様な橋が架かる川は世界でも本当に稀です。しかも隅田川は同じような川幅と地形ですから、同じ構造の橋を架ければ、日数もかからずコストも抑えられる。なのにこれほど多彩なのはなぜでしょう?」
そう話すのは、元東京都建設局橋梁構造専門課長として、橋の建設に携わってきた紅林章央(くればやしあきお)さん。隅田川に架かる橋の多くは、大正12(1923)年の関東大震災の復興で建設され、それ以前は構造やデザインに多様さはなかったとか。
「橋の復興を担った担当者が、後年、こう答えています。すべて同じ構造にしてしまうと、同じスピードで老朽化し同じ時期に壊れてしまううえ、大地震がおきたらすべて被災してしまう。そのリスクを避けるため多様な構造の橋にしたと。でもこれは建前(たてまえ)で、本当は、若い技術者がこれほど一気に橋の建設に関われるチャンスはめったにない。さまざまな構造の橋にチャレンジすることで、日本の橋の技術全体がアップできるから、というのが本音だったそうです」
実際、欧米諸国から遅れをとっていた日本の橋の技術はこの復興事業で飛躍的に上がり、一気に先進国の仲間入りを果たしました。
「当時、橋の復興事業に関わったのは課長クラスでも30代半ば、技術者はほとんど20代の若者でした。しかも面白いのは、構造設計は土木技術者が行いましたが、デザインに若手建築家を招いたこと。当時流行していたアールデコ調のデザインを飛び越え、モダニズムをデザインに取り入れたことで、現代に通用する、シンプルな機能美の橋梁群が出来上がりました」
そんな若き技術者たちの熱い想いと熱狂を、今も実際に体感できるのが橋の魅力。重要文化財に指定されている橋は、それぞれ、その構造や美しさ、技術力などの評価とともに、当時の日本の空気感や勢いなども伝えてくれます。
「いつの時代も、橋は先端技術の象徴であり、アート作品であるといえます。〝橋の博覧会〟ともいうべき隅田川の橋を、たまには立ち止まり、鑑賞してみてください」
日本橋 にほんばし
●重要文化財 明治44(1911)年竣工/石造アーチ橋/49.1m
威風堂々! 日本の起点に佇む、100年現役の美名橋

五街道の起点・日本橋。昔は橋上から江戸城と富士山が見え、江戸一のビューポイントだった。初代架橋は慶長8(1603)年頃。数十回架け替えられ、明治5(1872)年、和式から西洋式木橋に、明治44(1911)年、現在の石造アーチ橋に。平成11(1999)年、西洋式デザインと日本的モチーフを取り入れた和洋折衷様式が意匠的に優秀と評価され、重要文化財に。現在、日本橋再開発の一環として、日本橋の上にかかる首都高速道路を地下へ移す工事が進展中。この風景は、やがて見られなくなる。

清洲橋 きよすばし
●重要文化財 昭和3(1928)年竣工/鋼自碇式チェーン吊橋/186.2m
世界で最も美しい橋がモデルです!

ドイツのライン川にあった〝世界で最も美しい橋〟と謳われた「ケルン大吊橋」がモデル。その優美で女性的なデザインから、「震災復興の華」と呼ばれ、復興祭ではポスターや記念メダルのデザインにも。また、一般の吊り橋と違い、ケーブルではなく鉄板をつないだチェーンを吊材に使用、橋の両岸に設置する碇がなく橋桁自身で碇を演じる自碇式(じていしき)チェーン吊り橋を採用。国内唯一の構造事例で、その希少性や美しさから平成19(2007)年、国の重要文化財に指定。隅田川の橋の中でも、永代橋(えいたいばし)とともに人気を二分する清洲橋。アイキャッチ画像は、日の出後、うっすらとオレンジ色に染まる空に、淡いブルーの吊り橋が映える。隅田川大橋から撮影。
永代橋 えいたいばし
●重要文化財 大正15(1926)年竣工/鋼バランストタイドアーチ橋/184.7m
重厚なフォルムで佃島のビル群を背負う姿は名勝のひとつ

徳川綱吉の50歳を慶賀して、元禄11(1698)年、生母桂昌院(けえいしょういん)の発案により架けられたのが初代の永代橋。以降、落橋事故による再架橋、木橋から日本初の鋼鉄製トラス橋への改架を経て、関東大震災の復興事業を機に現在のアーチ橋に。強度の高い軍艦用の高級鋼材「デュコール鋼」を世界で初めて橋に使用し、重厚で美しいフォルムが完成。平成19(2007)年重要文化財に。

勝鬨橋 かちどきばし
●重要文化財 昭和15(1940)年竣工/シカゴ型双葉式跳開橋+鋼タイドアーチ橋/246m
かつては橋桁がハの字に開いていた、国内最大の可動橋

都心から晴海や豊洲など埋立地へのアクセス向上のため、昭和15年に開通。大型船航行のため可動橋となり、規格はパナマ運河にも匹敵。開通当時は1日に5回開橋、1千トンの橋桁が70度まで開く様子を見に見物客が集まった。昭和45(1970)年跳開終了。戦前日本の最高技術の可動橋として評価され平成19年重要文化財に。
八幡橋 はちまんばし
●重要文化財 明治11(1878)年竣工/鋳鉄+錬鉄ボーストリングトラス橋/15.7m
赤くて小さな初の国産鉄橋は、文明開化のシンボル的存在

初の政府留学生として米国で学んだ松本荘一郎が設計を担当し、輸入に頼っていた鉄材を、初めてすべて国産で製作した鉄橋。当初は中央区の楓川(かえでがわ)に「弾正橋(だんじょうばし)」として架けられたが、震災後の復興計画で不要とされ、現在の場所(富岡八幡宮の裏手の公園)に移設。昭和52(1977)年、近代橋梁技術の価値が評価され重要文化財に。国内初、米国土木学会の栄誉賞が贈られた。
解説:紅林章央さん 元東京都建設局橋梁構造専門課長。奥多摩大橋など多くの橋や、ゆりかもめなどの建設を担当。著書に『東京の橋100選+100』『橋を透して見た風景』『HERO 東京をつくった土木エンジニアたちの物語』など。
撮影/尾嶝 太 構成/田中美保
※本記事は雑誌『和樂(2023年8・9月号)』の再編集による転載です。

