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Travel
2020.05.11

手持ち0円で旅立つ、黒ヒョウと戦って肉を食べる……無謀すぎるのがカッコイイ冒険者列伝

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一刻も早く旅立ちたい。次はどこへ行くべきか。

新型コロナウイルスのせいで、自宅に引き籠もらなければならなくなっている人が増えているからか。旅行したい欲求が高まっている人は多い様子。SNSでは盛んに過去の旅行写真を貼っている人が目につく。

吾輩も旅に出たくてたまらない一人。ここ数年、桜の時期から初夏にかけてはなにがしか取材旅行を入れていたので、どこにもいくことのできない状況はどうにももどかしい。

この未曾有の流行病が治まったらどこへでかけるか。いまはただそれだけを希望に毎日を過ごしている。
こんな時、鬱々とした気分を吹き飛ばしてくれるのは先人たちの旅行記である。

今も色あせないバックパッカーのバイブル

多くの人を旅へと誘った旅行記として記憶されるのは、まず小田実(おだまこと)の『何でも見てやろう』(1961年 河出書房新社)。これは1958(昭和33)年にフルブライト奨学金を得て渡米した著者が「一日一ドル旅行」でアメリカからヨーロッパを経由してアジアを旅して帰国するまでの旅行記である。

この本に続いてベストセラーとなりバックパッカーを志す人なら必ず読んでおきたい一冊として今なお色あせないのが沢木耕太郎(さわきこうたろう)の『深夜特急』(1986年 新潮社など)だ。

この時、沢木が持っていたのはトラベラーズ・チェックと現金を合わせて1900ドル。沢木が旅した1970年代の為替相場が安い年でも1ドル=195円。今よりは高いけれども旅の目的地であるユーラシア大陸の西の果てまでは心許ない。早くも香港あたり(手元にある文庫版は全6巻なのだが、その1巻)で、もう帰ろうかなどと迷ったり、あれこれと考えあぐね、それでも旅を続けていく姿が描かれる。単に見るものや聞くものが楽しいだけではない。日常ではなかなかする機会のない自分自身との対話を繰り返して、なにかを見つけ出していくことに本当の旅の楽しさがあると教えてくれる。

『深夜特急』のせいばかりではないが、筆者も旅の時には様々なことを考え旅日記を書いているのが、書いているのは「どこどこが楽しかった」なんてことはほとんどない。ひたすら「○○行きの車中でふと、あの時のことを思い出した」とか「ぼくの人生はあと何年続くのか」とかしか書いていない。そんな普段は考えないことを考えることができるのだから、やっぱり旅は楽しい。

少しでも長く旅行しようと思ったら旅は必然的に野宿に。朝もやの中で目覚めて今日はどこへいこうかと考えるのだ

この先がどうなるかはわからない。それでも、とりあえず勢いでいってしまおう。そんな出たこと勝負の旅は危なっかしいけど魅力的。今では「自己責任」だとか「他人に迷惑」なんて言葉に騙されて、安全重視の旅が主流のようだけど、やっぱり勢い任せでなくては旅は面白くない。

明治時代に現れたすごい旅行者は財布を持たない

明治維新を迎え、江戸時代よりも海外旅行の規制が緩くなるとさっそく海外へと飛び出すものすごいヤツらは次々と現れた。

中でも無茶な旅行を成し遂げたのが中村春吉(なかむらはるきち)という豪傑だ。この人物、1902(明治35)年に日本を出発し1年をかけて自転車で世界一周を成し遂げたのである。しかも、単なる世界一周ではない。膨大な距離を無銭旅行で成し遂げたのである。

自転車があれば、確かに交通費はかからない。でも、まったく無銭で成し遂げられるものか。ともかく、その顛末は小説家・押川春浪(おしかわしゅんろう)が取材をもとに書いた『中村春吉自転車世界無銭旅行』(1909年 博文館)に記録されている。

貧乏旅行というものはいつの時代も多くの人が志しているもの。とはいえ無銭となるとハードルは一気にあがる。いったいいかにして、中村が無銭旅行を成し遂げたのか。なんと、行く先々で出合った在外日本人たちが、その豪胆さに感銘を受けて寄付をしてくれたというのである。

僕の畢生の目的が無銭旅行なら、成程少しでも他人の補助を受けては値打ちが下がるかも知れぬが、無銭旅行を畢生の目的とする馬鹿者が何故にあるものか。其様な区々たる名義はどうでもいい、僕の将来に横はる大望を成就する便益の為には、時に正当の補助を受くるは当然のみ

果たしてどこまで本当だったかは、本人の弁以外には証拠がない。ともあれ横浜港から汽船・丹波丸に乗船した中村はシンガポールへ。一度はビルマからインドを目指すが急峻な山脈の横断を断念。イギリス船で働く代わりに船賃をタダにしてもらってインドへ。

このインド旅からは、本当に大冒険。砂漠で食べ物がなくなり死にかけたかと思えば、現れた黒ヒョウと戦い肉を食料に。イギリスからアメリカへと乗船した船はマストが折れるような嵐に遭遇し九死に一生。常に日の丸を掲げた自転車と一緒の旅は当時話題になったようで、行く先々で見物人が集まりパリやロンドンでは歓迎会も催されたという。なるほど、これなら無銭でも困らない。

船に揺れて見知らぬ異国へ。最安の船室には人生の旅人が集う

こうして帰国した中村は汽車賃・船賃・宿賃・家賃・地賃を克服した「五賃征伐将軍」略して「五賃将軍」として長らく冒険者の代名詞となった。

誰もやったことがない。一人でサハラ砂漠を横断しようとした男がいた

時代は下って高度成長期。戦後、日本人にとて海外旅行はかなりハードルが高かった。海外旅行は業務や留学など理由が制限され、持ち出せる外貨も制限されていた。

その制限が撤廃されたのは1964(昭和39)年。当初は高額だった旅費も次第に下がっていくと多くの日本人たちが、まだ誰も見たことがない世界を見てやろうと、漠然とした夢だけで無計画に日本を飛び出したのだ。

本気の旅人たちの魂が刻まれた本はあてどもない旅に疲れた心を癒やしてくれる

そうして世界を目指した人物の中に今なお情熱が忘れられない者がふたりいる。ひとりが、ラクダに乗って一人でサハラ砂漠を横断することに人生のすべてをかけた上温湯隆(かみおんゆたかし)である。

1959(昭和34)年生まれの上温湯は東京都立町田工業高等学校を1年で中退。貨物船の見習いコックで資金を貯めて1970年から2年あまりをかけてアフリカ全土を走破する。帰国後、大学検定試験を受けて大学進学を志した上温湯だったが、旅の情熱は止まなかった。それも単なる旅ではなく、誰もやり遂げたことのないサハラ砂漠の単独横断である。

 世界最大のサハラ砂漠をたった一人で横断するのは、極めて困難なことだった。1972年にはイギリスのジェフリー・ムーアハウスという作家がガイドとラクダ5頭を連れてモーリタニアのアタールからエジプトのカイロを目指すも、途中で断念している。上温湯もこの冒険には影響を受けているが、目指したのはより難易度の高いことだった。

上温湯の胸中にあったのは、ただただそれをやり遂げたいという情熱だけであった。

僕は自分の心を何度も確かめ、サハラ砂漠の魅力に取り憑かれた男の狂信的な冒険心からではなく、その挑戦に意義を見出したとき、自分のすべてを賭ける決心をした。

現地人も「砂漠の神が許さない」と恐れる単独行

計画したルートはモーリタニアのヌアクショットから、スーダンのポートスーダンまでアフリカ大陸をサハラ砂漠経由で横断する旅である。もちろん、誰が見ても無謀な旅である。たどり着いた出発地・ヌアクショットでラクダを探していると現地人に「砂漠の神が許さない」と説得される。それでも自分が命を賭けていると断言する上温湯に圧倒された現地人の世話でラクダは手に入り、1974(昭和49)年1月25日、旅は始まった。

しかし、7000キロに及ぶ過酷な旅は遅々として進まなかった。半年あまりが過ぎた6月1日。およそ2700キロ地点でラクダが衰弱死したことで旅は断念せざるを得なかった。
 
それでも上温湯は諦めなかった。ナイジェリアのラゴスにたどり着いた上温湯は現地の時事通信社支局でアルバイトをしたりして再び支度を調えると1975(昭和50)年5月15日に再びサハラへと旅立った。

しかし、彼が再び戻ってくることはなかった。マリ北部で、渇死した日本人の遺体が発見されたと外務省に連絡が入ったのは6月7日のことであった……。

なんとなく出来るような気がした。それだけで小野田少尉を発見した男

もうひとりの忘れえぬ旅人・鈴木紀夫(すずきのりお)もやっぱり帰ってくることがなかった旅人である。この人物は、今でもメディアで取り上げられることが多い旅人だ。それは、終戦後も日本の勝利を信じてフィリピン・ルバング島でゲリラ戦を続けていた小野田寛郎(おのだひろお)を見つけた人物だからである。

鈴木が「ルバング島で小野田さんを見つけよう」と思ったのは1972(昭和46)年12月のことであった。それまで3年あまりのバックパッカー旅行を終えて帰国した鈴木はアルバイトをしながら次の旅に向けて準備をしていた。しかし、旅立つ前と日本の状況は変わっていた。石油ショックを迎えた日本は混乱し、なにか大きな夢を探している鈴木にはまったく面白くなかった。

ウツウツとして考えているときに、小野田さんのことを思い出したのだ。小野田さん救出に、政府は大金と大勢の人間をくりこんだ。これは東南アジアに対する援助の仕方とまったく同じじゃないか。俺なら一人で東南アジアの人間に溶け込むことができた。小野田さんも、俺が一人で会いに行けば成功するんじゃないか。
そんな気がしてきたのだ。

緊張のあまりヌード写真をプレゼントしてしまう

まったくアテもないままルバング島にやってきた鈴木はジャングルにキャンプを張り、見事に小野田との接触に成功する。靴下にサンダル履きという現地人にはあり得ないスタイルだったので、発砲される寸前で事なきを得たというから、無謀な方法だったことは間違いない。感動の出会いであるが、まさかの接触に鈴木は小野田さんに週刊誌から切り抜いてきたヌード写真を渡そうとしたりしている(断られたそうである)。

この一件で「小野田さんの発見者」として有名人になった鈴木だが、それでも旅は終わらなかった。鈴木が次に目指したのは雪男の発見だった。幾度も雪男を求めてヒマラヤを旅した鈴木は1986年ネパールのダウラギリIV峰で遭難し、還らぬ人となった。

無謀すぎる旅人になぜ、心惹かれるのか

上温湯や鈴木の旅が今でも色あせないのは、無謀な旅路の中にかいまみえる等身大の人間性である。上温湯の日記などをもとにまとめられた『サハラに死す』(1975年 時事通信社)で、上温湯はサハラ砂漠の横断を終えた後の計画を綴っている。そこには「早大クラスの大学に入ること」と書かれている。鈴木の著書『大放浪 小野田少尉発見の旅』(1974年 文藝春秋)も最初の旅の理由を「ベトナムを歩いて肌で戦争をしている国を知りたいという夢があった」と綴っている。

誰もが考える漠然とした夢。そこにちょっとした「中二病」的なスパイスを混ぜ込んで、思い切りよく旅立ったというわけである。

言葉も通じぬ異郷で果てようとも本人が満足していれば問題ないと筆者は思うのだ

そんな旅は今だったらどんな風に考えられるだろうか。現代では多くの旅人がスマホやノートパソコンを持ち歩きSNSやブログにリアルタイムで記録を綴る時代。でも、事前に情報を調べることもできる、それらのツールは身の安全を守ってはくれる。

そのぶん「無謀」なことへの戒めはキツくなった。たとえ自分が命をかけても価値があるとした旅の途中で果てたとしても、無責任さが批判を浴びて「家に帰るまでが旅行」なんていう行儀のような言葉で否定されるだろう。

この記事を書くにあたって資料を探していて知ったのだが、鈴木は小野田発見後に結婚をして二人の子供をもうけていた。それでも、雪男を探す、というより雪男に会いたいという情熱は止むことがなかったわけだ。

たとえ無謀や無責任といった言葉で誹りを受けても、自分の心の中に宿る情熱を消すことなどできない。
だから、コロナ禍が過ぎた時にはどんな旅を目指そうか。今は、そのことに情熱を燃やして生きていたい。

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。