Travel
2020.06.04

仏像を生涯に12万体も彫ったといわれる円空とは。いかにしてその数を成し遂げたのかに迫る!

この記事を書いた人

今までに体験したことのない自粛生活。自分を律することの難しさやリアルに人と会えない、話せない生活は、否応なしに自分自身と向き合う時間となった。「美味しいものが食べたい!」「外に出たい!」「喋りたい!」など、あまりに当たり前だったことができないことの辛さ、もうこれは修行以外の何物でもない! そう思い、血迷いながら占いにはまったり、瞑想してみたりするものの、心落ち着かない私は、考えあぐねた結果、一つの答えを得た。「そうだ、仏像を彫ろう!」。仏教美術の知識にうとい私でも、仏像を見るとなんだか心落ち着くではないか。しかし思い立ったのもつかの間、すぐに壁にぶち当たった。何を隠そう、私は子どもの頃から家族もあきれるほどの不器用だったのだ。その顛末は最後に書くとして。

この仏像を生涯に12万体も彫ったといわれる人物がいた。江戸時代に生きた円空上人だ

「善財童子立像」(神明神社所蔵)円空自身と言われる善財童子。優しい微笑で祈る姿が印象的だ。こちらは国立新美術館で2020年6月24日から開催の「古典×現代2020-時空を超える日本のアート」に出展されます。『写真提供 関市観光協会』

12万体という想像を絶する数は、本人が残した記録ではないのだが、円空が何度も訪れたとされる荒子観音寺(愛知県名古屋市)の住職が書いた『浄海雑記』に記されている。円空は諸国を旅しながら、修行の一つと言われる仏像を彫り続け、一生を終えるという壮絶な人生を送った。何が彼をそこまで駆り立てたのか。自粛生活は解除されたものの、先行きの見えない不安がまだまだついて回る今、己と向きあって仏像を彫り続けた円空の足跡を訪ねてみた。

若き円空を襲った悲劇が、仏門へと導き、厳しい修験道の道へ進む

寛永9(1632)年に美濃国(現在の岐阜県)に生まれた円空は、長良川の洪水で母を亡くすという悲劇に見舞われる。それがきっかけかはわからないが、仏門に入り、出家したとされている。岐阜を訪れたことのある人はわかるだろうが、長良川は本当に美しく、地元民にとっては愛すべきふるさとの風景だ。子ども時代には、川辺で遊んだこともあっただろう。その美しき川に母を奪われた悲しみ、その不条理を円空は仏門に入ってもなかなかぬぐうことができなかったのではないだろうか。

円空最期の地、関市円空会館近くにある入定塚の前を流れる長良川の清流

そう思ってしまうのは、江戸時代に書かれた伝記『近世畸人伝』に円空が、23歳の頃に寺院を出て、富士山や加賀白山に籠ったことが記されているからだ。円空は日本古来からの山岳信仰に触れ、厳しい修行の中で悟りを得るとされる修験道の道へと進んでいく。険しい山道を何日も歩き、滝に打たれ、断食し、荒行とも呼ばれる修行に耐え抜く日々。そして、修行のうちの一つ「造仏」を生涯かけて成し遂げることになる。人は癒しきれない悲しみを背負うと、その痛みを打ち消すために、さらなる苦行へと自分を追い込んでいくのかもしれない。

諸国行脚の旅で、円空は説法ではなく、仏像を彫ることで人々を救った

寛文5(1665)年に、江戸幕府は、「諸宗寺院法度」という宗派や寺院、僧侶を統制する制度を発令する。これにより、僧侶の活動は寺の中だけに限定され、寺を出ての布教や説法は禁じられた。そんな時代に円空は、どこの寺院にも所属せず、遊行僧となり、32歳で諸国行脚の旅に出た。新潟から北廻り船で下北半島に入り、そこから松前藩(北海道)に入ったとの記録が残されている。厳寒の地において、ここでもまた山に籠り、厳しい荒行を続けていった。そして病や災害、干ばつに苦しむ人々を救うため、念仏を唱えながら、仏像を彫り、請われれば寺院に奉納したとされる。円空自身の生活も貧しく、托鉢をしながら旅を続けた。時には民家に泊まらせてもらいながら、その際に一宿一飯の恩義として彫った仏像が今も各地に残されている。北海道には、観音坐像を中心に40数体の円空仏が現存しているが、初期の作品は円空の荒削りで大胆な仏像ではなく、丁寧に彫られ、微笑をたたえた優しい表情のものが多い。僧侶といえど、乞食僧と呼ばれる身分で、辛いこともある遊行。だが、常に民衆の中に身を置き、苦しみや悲しみに寄り添った円空は、人々から愛される存在だったのではないだろうか。そう思うと、あの円空仏の微笑がよりリアルに感じられ、心が温かくなってくる。

大木を鉈で割り、荒削りと言われる仏像は、アイヌに影響されている?

そして、この北海道での遊行が、後の円空の作品に大きく影響を与えている。木の特徴を生かし、無駄にすることなく、そのまま鉈とノミで大胆に彫っていく仏像は、木の中に神がいるとの思想が反映されている。これは北海道でアイヌと生活を共にし、すべてのものに精霊が宿るというアニミズムに影響されていたと考えられるからだ。円空仏が語られる際に、そのプリミティブな力強さが円空仏の魅力の一つと言われる。静物であるはずの仏像から、漲るエネルギーが発せられているのは、北海道という大自然の中に身を置いたからこそ生み出せた作品なのではないだろうか。

「狛犬」(南宮神社所蔵)狛犬の体の模様には、アイヌの文様が彫られていることからもアニミズムに影響を受けたと言われている

円空ゆかりの地・荒子観音寺に残された1250体もの仏像

荒子観音寺は『浄海雑記』によれば、奈良時代、天平元年(729)に泰澄和尚によって開基された

名古屋市にある荒子観音寺の名で知られる浄海山円龍院観音寺は、円空が修行を積んだ白山信仰の祖である泰澄大師が創建した寺だ。この寺に残されている『浄海雑記』にはこの寺を何度も訪れ、当時の観音寺十世円盛から血脈(※)も受けたと記されている。

※血脈とは、仏教における師から弟子へと受け継がれる教義、戒律など。

荒子観音寺に残る聖観音菩薩は、慈悲と智慧により人々を救う観音霊場の本尊

荒子観音寺の仁王門の中に納められた仁王像は3メートルを超える。敷地内の池に檜の大木を浮かべ、仁王像を彫ったとの伝承がある

そして45歳から約3年間も荒子観音寺に逗留をした円空は、円空の代表作ともいわれる聖観音菩薩を彫った。これは住職に頼まれた仁王門に建つ一対の仁王像を彫った時に残った余材で作ったと言われている。

円空は1本の木から仏像を彫る際、その木くずも捨てることなく残したと伝わる。このことを証明する大発見が昭和47年に見つかった1024体の仏像だ。発見された当初、名を残さず、ひっそりと生涯を終えた円空の想いを汲み取った住職は公にしようとしなかった。しかし毎日新聞にスクープされ、一躍、世間の注目を集めることになる。この時、厨子の中にはたくさんの千面菩薩と共に木くずが詰められていたそうだ。「木を見たらそこに神がいる」とこの上ないほど木を大事にしたと伝えられていた円空の想いを象徴する出来事だった。すべての木に神様がいる―その想いは終生、円空の仏像彫刻に込められていたのだ。

荒子観音寺に残された毘沙門天だ(一番右)。これは仏像を彫る時に使用していた作業台に顔をつけたもの。作業台に使用した木も無駄にしたくないという円空の思いが伝わる作品

ふるさとに帰り唯一定住した弥勒寺で、静かに仏像を彫りながら、終焉を迎える

東海から関東、近畿を遊行し、岐阜に戻った後、晩年、円空は長良川にほど近い緑あふれる山間に、滋賀県の三井寺から血脈を受け、廃寺となっていた弥勒寺を再興させた。大正9(1920)年の火災で焼失してしまい、現在は跡地のみとなるが、その静かな緑の大地は、円空の人生の終焉にふさわしい場所だったと言える。

弥勒寺は、発掘調査により白鳳時代に建立された寺であったことがわかった。金堂、塔、講堂、南門などが確認され、国の指定史跡にもなっている

円空が何度も歩いたであろう竹林の山道を抜けたところに、関市内に残された作品を展示している関市円空館が建つ。

円空館には、関市の白山神社に奉納されていた像が数多く展示されている。円空が最初に彫ったのは神様だと言われるように、仏教も神道も、アニミズムも山岳信仰も、円空の中には宗派だけでなく、信仰にも垣根はなく、すべての神仏に祈りを捧げ、像を彫っていたと言える。それを裏付ける伝承がある。尾張・美濃は、キリシタン弾圧の激しい地域だったが、処刑された人々のために円空仏を彫っていたのだ。円空にとっては、人々を救済するための仏像であり、心の平安を象徴するもの。すべてを超えた境地。厳しい生活の中、定住せず、諸国行脚した円空の心の中には、本当の意味での自由が宿っていたと言えるのではないだろうか。

関市に寄贈された個人所有物だった「愛染明王」と「稲荷大明神」(関市円空館所蔵)

円空は如来から、菩薩、神像、天狗まで様々な像を彫っている。円空館では初期の作品から晩年の作品まで常時30体ほど展示されている。ゆっくりと円空仏に向き合える場所だ

64歳の生涯を自然に倣い、枯れるように閉じた円空の人生

元禄8(1695)年、死期を感じた円空は、自ら即身仏となって長良川湖畔に入定し、64年の生涯を閉じた。最愛の母を失った長良川湖畔を、自らの最期の地として選び、悟りの境地に達することを願ったのだろう。母なる川、長良川のほとりで、長い旅路の果てに、母への思いを抱きながら、ようやく安住の地を見つけたのだ。円空入定塚の横には、まるで円空自身のような木が生えている。自然の流れのまま、枯れるように人生を終えた円空は、今、どんな思いでこの時代を眺めていることだろう。

そして、仏像は無事、彫れたのだろうか

さて、最初の「仏像を彫る」話だが、「円空なら彫れるんじゃない?」という、身の程知らずの浅はかな考えが、そもそもの始まりだった。そして円空ゆかりの荒子観音寺で行われている円空仏彫刻体験教室を訪ねたのだ。しかし、そこで「いきなり円空は彫れません」と、私の浅はかだけど、熱い思いは木っ端みじんに打ち砕かれた。そして、ただの直線でさえ、木を思うように彫ることが難しいことを思い知らされる。目と鼻と口を入れるだけでも、勢いあまって、鼻がもげてしまう。口が左右対称にならない。微笑みにならない!!!という顛末。円空の足跡を辿る中で、改めて仏像を彫ることの難しさも痛感したのだ。「木の声を聴いてごらんなさい」。そんな風にはるか300年以上の時を超えて、円空さんに語り掛けられているような気がしている。

「円空仏彫刻 木端の会」代表の山田俊和さん。円空仏を学びながら、週に1度円空仏を彫る会を開催している。円空さん同様の優しい微笑で、彫り方を指導してくれる

顔を彫るだけでも手が震えるほどの緊張感。神経を集中させるので、出来上がりは別として、得も言われぬすがすがしい心境となった

関市円空館

住所:岐阜県関市池尻185
開館時間:9:00~16:30
休館日:月曜日(祝日を除く)、祝日の翌日(土・日・祝日を除く)
年末年始
入館料:一般250円
公式サイト

荒子観音寺

住所:愛知県名古屋市中川区荒子町宮窓138
毎月第二土曜日 拝観日 13:00~16:00
拝観料:500円
拝観日には、荒子観音寺内で木端の会による
円空仏彫刻無料体験を13:00~16:00で開催

書いた人

旅行業から編集プロダクションへ転職。その後フリーランスとなり、旅、カルチャー、食などをフィールドに。最近では家庭菜園と城巡りにはまっている。寅さんのように旅をしながら生きられたら最高だと思う、根っからの自由人。