Culture
2020.06.16

室町時代の築城の名人・太田道灌の最期とは?壮絶な死に際や「死の絶叫」と真意も紹介

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歌人の穂村弘(ほむらひろし)氏は、私の大好きなエッセイスト。

お気に入りの1冊は『絶叫委員会』。町に溢れている無数のオカシな言葉が、シュールに紹介されている。なかには、言葉というよりも、魂の叫びに近いモノも。全く計算されていない、剥き出しの人間の本質が、不意にココロを突きにくる。

とっておきは、コレ。
「でも、さっきそうおっしゃったじゃねえか!」(穂村弘著『絶叫委員会』より一部抜粋)

いいねえ。
不条理さに抗議したい気持ちと、立場上できないアンバランスさ。その狭間で揺れ動く苦悩が、急に飛び出したって感じ。その瞬発力は、本人自身も驚くほど。ときとして、言葉は想像以上のモノを生み出せるのだ。ましてや、それが死に際なら言うに及ばず。

さて、今回は、「私たち、畳の上で死ねました…」の逆バージョンの話。
予め死を予見するからこそ、自分の人生に終活できる。ひねりにひねった辞世の句だって、自由自在に残せるワケで。しかし、群雄割拠の戦国時代では、そうも言っていられない。予期せぬ展開で、死が突然訪れるコトも。

その代表格が戦国時代初期の名将「太田資長(すけなが)」。「太田道灌(どうかん)」の方が有名だろうか。

彼の最期はあまりにも非情。正直にいえば、誰もがダントツで「御免被りたい死に方」と思うラストである。そんな悲劇に見舞われた道灌が、じつは、死ぬ間際に力を振り絞って叫んだ言葉がある。

それがこの4文字。
「当方滅亡(とうほうめつぼう)」

絶叫に込められた彼の真意は、一体、どこにあるのだろうか。
今回は、その壮絶な死に際から、主君の未来まで。これらをヒントに、一緒に探っていきたい。
※この記事は、入道後の「太田道灌」の名で統一しています。

聡明すぎて、出る杭は打たれた?

「出る杭は打たれる」とは、よく言ったものだ。

太田道灌の父・資清(すけきよ)は、息子の将来を、既にこの時点で見抜いていたのかもしれない。あまりにも聡明過ぎて驕(おご)る態度の息子に、あえてこのような苦言を残している。

「驕者不久(驕る者久しからず)」

この意味を問われた当時15歳の道灌。彼は「分かっております」と言いつつ、いけしゃあしゃあと、こんな返しをしている。

「できれば、この四字とは別に、五字を書き加えたいのですが」

「鶴千代(当時の道灌の名)はすぐに筆を取り、その側に『不驕又不久(奢らざるもまた久しからず)』の五字を大きく書いた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋) 

鎌倉の建長寺、そして足利学校。当代随一の学問の場で、道灌はその才覚を伸ばし続けた。『永享記(えいきょうき)』には、鎌倉五山(鎌倉にある臨済宗の5つの名刹で現代の大学のようなもの)で修業した道灌は「五山無双の学者」と呼ばれたとの記録もある。

そんな太田道灌の功績は、じつに多岐に渡る。
まず、最初に挙げねばならないのが、江戸城。

江戸城

世に「軍法の師範」といわしめた彼が行き着いた先は築城。戦において多くの計略をめぐらしてきたが、その要となる「城」が最も大事と気付いたのだろう。江戸のみならず、河越(埼玉県川越市)、岩槻(埼玉県さいたま市)など、多くの城を築いた。

また道灌は、築城のみならず、戦の戦法も大きく根本から変えた。これまでは騎乗した武将の「一騎討ち」が主流。両者が「やあやあ我こそは」と優雅に名乗り合い、合戦へと突入するスタイルであった。うん? だったら足軽たちは、一体、何を、と疑問に思うところ。じつは、彼らはサブ。武将の一騎討ちのサポートという役回りだったのだ。

それを道灌は一変させた。足軽のみで編成した部隊を作らせ、騎乗した武将を取り囲み、槍で突く、引き倒すなどの戦法を確立。のちに「足軽戦法」といわれる戦法である。彼は、源平合戦以来続いていた一騎討ち戦法を、様変わりさせたのだ。

日頃から多くの書物に触れ、変わらずに学び続けた道灌。歴史をはじめ、医書・兵書・歌書など数万巻を集めていたとも。一方、平日は書画や詩文をたしなむ姿もみられたという。

「当方滅亡」は単なる恨み節?不穏な予言?

そんな太田道灌の名が世に知れ渡るには、それほど時間はかからなかった。

もともと、道灌の父は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の重臣。その家に生まれた道灌は、そのまま扇谷上杉定正(さだまさ)の家臣、そしてのちに家老となる。

この扇谷上杉家は関東管領を代々務める上杉家の一族だ。同じ上杉家には、山内上杉家ら4家があったが、うち2家は没落。山内上杉家との関係では、先方が格上。つまり、扇谷上杉家は山内上杉家の下に属していたことになる。しかし、道灌の才覚が冴えわたると、国政にも戦にもその功績がみられることに。次第に両家の関係は変化していく。こうして、いつしか扇谷上杉家の勢力は増大、形成は逆転したのであった。

これを良しとしないのが、山内上杉顕定(あきさだ)。なんとか、大田道灌を失脚させ、扇谷上杉家を落としたい。そう考えた顕定は、君臣の離間を思いつく。道灌とその主君である定正を仲違いさせ、漁夫の利を狙う作戦であった。

太田道灌像

もちろん、道灌もバカではない。山内上杉顕定を警戒し、衝突は避けられないと予測。江戸城や河越城を修築し、防備を厚くすることに。相応の準備をしていたのである。

ただ、道灌はもう片方、主君の扇谷上杉定正には無防備だった。そりゃ、相手は自分の主君、なんといっても味方の味方なはず。しかし、思いのほか、この扇谷上杉定正の器は小さかった。絶大な人気を誇る家老・太田道灌が目障りとなってきたのである。

この定正の心に芽生えた小さなしこり。
これを顕定は見逃さなかった。

「太田道灌、主家に異心あり」

顕定は間諜を放って噂を広める。これを信じた主君・定正。江戸城などの修築完成を報告に来た道灌の抹殺を、今が好機と判断。こうして、定正は糟谷(かすや、神奈川県伊勢原市)の上杉邸に道灌を招いたのである。

主家で湯を勧められる道灌。そんな入浴中の彼を、いきなり斬り付けたのは定正の命を受けた曽我兵庫(そがひょうご)。あの道灌であっても、そこは状況が状況である。抵抗も空しく、丸腰で斬られるほかはなかったという。血みどろになりながら、道灌は絶叫。

その言葉が、あの「当方滅亡」である。

じつは、道灌の最期については諸説ある。その場で事切れた。いや、道灌の墓がある「洞昌院(とうしょういん)」まで逃げ延びるも、そこで力尽きたなど。ちなみに、付き従っていた7名の家臣も討ち取られる。道灌の墓の近くには、供養のために建てられた「七人塚」もある。

どちらにせよ、道灌は信じていた主君の裏切りに遭い、無念な最期を遂げる。皮肉にも、大修築した江戸城が異心の証拠になったのだとか。ただ、残念なのは、それほどの頭脳の持ち主でありながら。どうして、主君の裏切りを予測できなかったのか、である。なぜ、山内上杉顕定のみならず、扇谷上杉定正も警戒しなかったのか。

きっと、太田道灌という人は、いい人だったのだろうと思う。
謀られた主君・定正の嫉妬は感じていたはず。しかし、自分が仕える主君を信じずに、真の武将といえようか。そんな矜持が、彼にはあったのではないだろうか。

「当方滅亡」

多くの書籍では、この意味を次のように解説している。
「これでは主家である上杉家も滅亡するだろう」

道灌は、主家の未来を予言したとも。
確かに、そうかもしれない。ただ、死ぬことが無念で叫んだのではない。自分が生涯をかけて支えてきた扇谷上杉家。その没落を目にするのはあまりにも忍びない。せめて、この言葉で気付いてほしい、目覚めてほしい。そんな思いがあったのではないだろうか。

ただ、道灌の願いは届かず。
扇谷上杉家と山内上杉家。のちに両家は、北条早雲に飲み込まれるのであった。

歌人としての謙虚さを学ぶ

太田道灌、享年55歳。
彼の忠儀は、死によって、さらに昇華した。

そりゃそうでしょうが。
だって、あれほど尽くした主君に、この裏切られよう。それも、襲われる場所が風呂場って。絶対に討ち取ってやるという主君の本気度マックス。かたや、当の道灌はホントに無防備。刀もなかっただろうし。格好もパンイチですらない。戦うにしてはあまりにも心許なさすぎる。

だからなのだ。
江戸城を築城し、知略に富み、歌人の大家でもある。そんな素晴らしい「生前の姿」がある一方。抵抗もできず襲撃され斬り殺される「死の姿」。その哀れな最期、無念な死に方が、逆に「生前の」道灌を余計に輝かせる。

そんな道灌の輝かしい人生の中で、切っても切り離せないのが「和歌」。歌人の大家としても名高い道灌だが、もともとは、武士として嗜む程度だったという。しかし、一念発起して和歌を極め、『江戸歌合』や『平安紀行』などの作品を作るまでに。その和歌の勉強をするに至った理由がまた面白い。

きっかけは、あの「山吹の花」である。

道灌が鷹狩りをしている最中でのこと。急な雨に降られてしまい、雨宿りのためにある民家へ。そこで、道灌は「蓑(みの)」を借りようとするのだが、その家の少女は、無言で一枝の山吹の花を差し出したのである。

はあ?
全くもって意味不明。
案の定、道灌は激怒。「花など求めていない」と帰っていったという。

しかし、じつはコレ。ある古歌の知識があったなら、ははあんと納得する、ウイットにとんだ返しなのである。

その和歌とはコチラ。
「七重八重花は咲けども山吹の みの一つだになきぞ悲しき」

『後拾遺集』に収められた一首で、兼明親王(かねあきらしんのう、後醍醐天皇の皇子)が詠んだ和歌である。「実の」を「蓑(みの)」にかけた裏の意味が含まれている。

「山吹は咲いておりますが、こちらは(貧しさゆえに)お貸しする『蓑(みの)』すらなく、心苦しい次第です」

のちに、道灌と少女のやりとりを聞いた家臣が「古い歌の心を暗示したもの」と教えたのだとか。裏の意味に全く気付けなかった道灌は、大いに恥じたという。それから、一念発起。猛烈に和歌を勉強し、和歌の大家となったのである。

そんな勉学への志は、現代にも通じるところ。
東京にある「湯島天神」。受験の時期になれば、多くの参拝客で賑わう神社である。学問の神様の「菅原道真(すがわらみちざね)公」がお祀りされている。

じつは、この湯島天神、太田道灌が夢で菅原道真公を見たのがきっかけだという。その夢の翌日、知人から菅原道真公自筆の画像を贈られて、霊夢だとピンと来たのだとか。道灌はすぐに城外に祠を建てお祀りした。湯島天神のホームページにも、文明10(1478)年10月に道灌が再建との記載がある。

太田道灌は、あまり知名度が高くない。
彼がそこまで身分の高い武将ではないからか。それとも、彼が生まれた時代が早過ぎたからか。

ちょうど戦国時代初期、織田信長より100年ほど前に道灌は生まれている。下剋上で次々とのし上がる兆しが、やっとこさ見えたくらいの時代なのだ。伊達政宗は天下を取るには、生まれる時代が遅過ぎたといわれるが、太田道灌はその逆。生まれる時代が早過ぎた。

しかし、東京には、こうして多くの太田道灌の軌跡が残されている。彼の生き様は、そここに刻まれているのである。

さて、最後に。
気になることが1つ。太田道灌の死に際の絶叫は、果たして的中したといえるのか。

「当方滅亡」と叫ばれた、主君の扇谷上杉定正。結局は、山内上杉家との衝突を避けられず。まあ、これは致し方ないだろう。定正は策略に乗って、まんまと忠臣を暗殺してしまったのだから。その火種を作った山内上杉家と争いになるのは必至。そうして、両家とも北条早雲の前に力尽きる。

ただ、意外だったのは、定正が全く関係のない原因でこの世を去ったというコト。

なんとも、腑に落ちない最期。戦いで敵軍に討ち取られたならともかく。定正は、荒川を渡る際に落馬して死んだのだから。不完全燃焼の感覚は、いかんせん拭えない。

一説には、大田道灌の亡霊が落馬させたとの噂も。
もし、本当にそうだったのなら。
馬から落ちる刹那、定正の耳には、あの聞きなれた声が聞こえていたはずだ。

「当方滅亡」

今度は絶叫ではない。耳のすぐそば。
それはきっと。囁き声だったに違いない。

参考文献
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 2007年8月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国武将50通の手紙』 加来耕三著 株式会社双葉社 1993年
『絶叫委員会』 穂村弘著 筑摩書房 2013年6月

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