1565年(永禄8年)7月、犬山の城下町とその周辺から次々と火の手があがる。「織田信長(以下、信長)、犬山へ侵攻」「犬山城城主・織田信清、籠城」来るべきときが来た! と町人は感じていた。
尾張国(愛知県西部)と美濃国(岐阜県南部)を木曽川で別ける国境の町犬山では信長が侵攻し町の至るところに火を放たれて焼かれたと記録が残っている。今ではその遺構を示す物証は残っていないが、尾張平定の同時期に信長から直江景綱への書状や、美濃国の寺の住職が他の寺に宛てた書状から犬山は信長が侵攻した際に焼かれたと書き残されている。
なぜ信長は犬山を攻めたのか? なぜ町を焼いたのか? 信長を知る上で最も有力な資料『信長公記』や地域に残された口伝、燃やされた側の立場から犬山侵攻戦を検証、周辺国の事情も踏まえてまとめてみた。
なぜ信長は犬山を攻めたのか? ~準備編
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで勝利した信長は尾張国(愛知県西部)、三河国(愛知県東部)から今川勢を一掃した。1561年(永禄4年)4月、三河国の岡崎城に残った松平元康(後の徳川家康、以下、元康)と信長は同盟関係を結ぶ。この同盟関係で東側からの驚異が弱まり、信長は尾張国に隣接する三河国加茂郡西部(現在の豊田市周辺)に侵攻し勢力を拡大していく。
一方、今川勢が撤退し空き家となった岡崎城に入った松平元康は、松平一族や譜代の再結集に努め三河国の平定を進めていく。今川氏からの自立を果たした元康は信長との盟約で三河国の平定を成している。結んだ盟約は信長が死去するまで続き、尾張国と三河国は勢力を拡大させていくことになる。
尾張、三河国以外の周辺国では1561年(永禄4年)に美濃国(現在の岐阜県)を治めていた斎藤義龍が病死、わずか14歳の斎藤龍興(以下、龍興)が家督を継いでいる。美濃国は祖父の代から続く家臣の流出、14歳という若き盟主への不信感に加え、評判の悪い斎藤飛騨守の重用などにより家臣の信望を得られず混乱を招く。さらにこの混乱に乗じて1561年(永禄4年)には森部の戦い、1563年(永禄6年)に新加納の戦いと信長に攻め込まれる。信長の美濃国侵攻は家臣の竹中重治たちの活躍により退ける事ができたが、森部の戦いでは重臣の日比野清美、長井衛安などを失い、龍興はさらに家臣たちへの求心力を無くしてしまう。新加納の戦い後の1564年(永禄7年)には竹中重治と西美濃三人衆のひとり、安藤守就によって重用していた飛騨守が暗殺され、稲葉山城を占拠されてしまう。後に重治と守就は龍興に稲葉山城を返還するが、この事件によって美濃国内部の弱体化が表面化してしまった。
尾張国内には犬山の織田信清(以下、信清)とその家老たち(小口城の中島豊後守と黒田城の和田新介)が唯一信長に恭順せず抵抗していた。桶狭間の戦いで疲弊している信長を横目に美濃の斎藤龍興と手を組み、信長から尾張の実権をうばおうと画策し楽田城(現在の犬山市楽田)を落とす。犬山から美濃へ渡り、東美濃地方へ進行すると美濃攻略の方針を変えた信長に信清勢力という同族争いが再燃し、まずこれの排除に当たらなければならなかった。
1563年(永禄6年)、信長は居城だった清須城から小牧山(現在の愛知県小牧市)に城を新設し本拠地を移転する。余談だが、小牧山城は別名火車輪城(ひくるまわじょう)とも呼ばれていた。当時の建築技術は発展途上の段階で、後年のように城の威容で敵を圧倒することは困難だった。近年の発掘調査の結果から、小牧山城は3段の石垣を持つ城と判明している。当時の建築技術では石垣を高く積み上げることができなかったため、段状に石垣を組み、それぞれに人や松明を立てるだけのスペースを設けていた。このスペースに松明を掲げ、頂上の城を照らしていたというのだ。信長はこの構造を意図して作り、毎夜松明を掲げ周辺の城を威嚇したと思われる。
信長は小牧山城の完成直前に美濃方に通じている犬山の支城の小口城と黒田城を攻めている。しかし攻略できずに小姓の岩室長門が戦死、生駒長家も負傷してしまう。美濃攻略の前に大切な戦力をこれ以上減らしたくない信長は、小牧山城が完成すると家臣の丹羽長秀に織田信清方の武将の中島豊後守と和田新介に調略を仕掛けるよう命じ、丹羽長秀はそれに応じる。犬山勢の両武将は松明に煌々と照らされる小牧山城の姿に驚異を感じ、丹羽長秀の説得にも応じ陥落、以降信長に恭順し、信長は木曽川沿いの重要な支城を手に入れ、街道も信長の管理下におかれた。犬山攻略の包囲網は着々と進んでいったのだ。
犬山孤立! 町内封鎖と街道に兵を配置
信長が犬山を攻略するまでに小牧山城の完成から2年の歳月を掛けている。拠点を移動して間もなく家臣の調略により犬山方の重要拠点である小口城、黒田城を無血開城させ、犬山包囲網が完成したのだが、すぐには犬山を攻めていない。
信長は犬山もなんとか無傷で手に入れようと、丹羽長秀や柴田勝家などの家臣を使いあの手この手で犬山方に開城を迫っていた。犬山にある寂光院には柴田勝家が入山し、信長の書状を当時の住職に渡している。書状の内容は信長に恭順すれば領地の安堵と石高を与えると書き記しているのだ。こうして犬山の有力寺院に書状を送り、信清を完全に孤立させようと手を尽くすが、これに反発したのは犬山にある臨済宗妙心寺派の総本山だった瑞泉寺と犬山に数多くあった臨済宗の寺であった。
瑞泉寺が信清や美濃衆と通じていて、信長恭順を拒み、籠城の手助けまでしていたとされる。この手助けにより信清は眼前にあった鵜沼城、伊木山城からの援軍や兵糧に支えられて信長と対峙していたのだ。つまり犬山方は美濃勢と共闘して信長への恭順を拒んでいたとされる。
しかし美濃の国内情勢は若い龍興に求心力がなく、竹中半兵衛などの軍師により謀反を起こされる始末。とても犬山救援に向かえる情勢ではなかった。それでも信清は瑞泉寺をはじめとした僧兵の力を借りながら犬山籠城を続け、美濃からの援軍を待ち続けた。
信長はこの籠城に対し、犬山へ続く街道や町を次々に封鎖する。恭順をしない臨済宗の寺社には再三書簡を送り、協力を求めてきた信長だが、徹底抗戦と籠城を続ける瑞泉寺と信清に業を煮やし始める。
犬山には善師野という地区には臨済宗の修行僧が集まる修業の場がある。北へ抜ければ中山道、南へ抜ければ東海道へと続く木曽街道(飛騨から瀬戸経由名古屋までの街道)の要所を信長は柴田勝家を派遣して制圧にかかる。
柴田勝家は瑞泉寺の次に勢力があり、僧兵や修行僧も多く抱えていた善師野宿の清水寺(せいせんじ)を焼き討ちし、善師野の宿場町も焼き払った。武力により善師野を抑えたことによって、犬山に続く街道のすべてが信長の勢力内に治まる。
信清は軍事的な拠点にもなり得る善師野宿と木曽街道を信長に抑えられてしまい、柴田勝家が犬山の眼前に迫る寂光院に陣を張り、頼みの綱であった美濃への補給路も絶たれてしまう。これらの拠点を抑え込まれたとにより信清はますます窮地に追い込まれ孤立していく。
現在の木曽街道の話を少し。室町時代に戦闘があったとされる場所は今はその面影はまったくなく、街道筋にはのどかな田園風景が広がる。善師野地区にある臨済宗の寺には信長焼き討ちの伝承が残っていたり、実際に戦火に包まれながら消失を免れた仏像もある。善師野という地名は元々「禅」「師」「野」と書かれていたとか。禅寺の集まる場所で、応仁の乱以降、京都の総本山が焼けてなくなった後に犬山へ仮本山を移転して、京都再建後も犬山の善師野を修行の場所として使っている。また、現在も臨済宗の修業の場として多くの修行僧が入山している。
信清が頼った瑞泉寺は京都の総本山の復興まで仮本山として使われ、古刹として今でも慕われている寺院、寺社仏閣の名が犬山市の住所にも記されているほどの由緒正しい場所だ。瑞泉寺には信長の犬山攻めの際に焼け残った大門が残っている。
信長は部下の武将に木曽街道を侵攻させた際、街道筋の寺社を次々に焼き払っていた。しかし従来のイメージのようなお寺憎しで焼き払っていた訳ではないようだ。
長く善師野に住む檀家の話だが、信長は犬山攻めの際に寺社全てに領地の安堵と石高の保証を記し、協力をお願いしていたと口伝ではあるが伝えられている。
善師野の清水寺へ取材に訪れた際、信長からの書状は残っていないか、お寺の蔵を探していただいたが、結果発見できなかった。もしも信長の書状があれば歴史的な発見だっただけに残念である。
信長といえばすぐにキレて老若男女問わず切り捨てるイメージがあった、が、今回の取材を通して信長は臨済宗の総本山だった瑞泉寺には何度も書状を送り、日本最大の宗派の後ろ盾と犬山の住民への理解を求めていることがわかる。信長はものすごく我慢強く辛抱強い人物だったのではなかろうか。
夏の暑い日に犬山陥落! 焼き討ち、殺戮はあったのか? ~犬山攻略編
1565年7月、犬山は織田信長をはじめ丹羽長秀、柴田勝家、佐久間信盛など桶狭間で活躍した武将たちに囲まれる。信長は早朝、小牧山城から岩倉街道を通り犬山を目指し、途中、犬山方と美濃勢の抵抗があるのものの、次々と撃破、犬山まで2キロのところにある上野原(かみのはら)で本陣を設営、他の隊も犬山城の眼前で陣を張る。
『犬山里語紀(いぬやまりごき)』には信長が小牧山城から出陣して次の日の早朝には犬山城から南へ1キロの所にある木ノ下城へ入城し、本陣を移したとある。と同時に信長到着を待機していた柴田・佐久間・丹羽隊が犬山市街へと攻め込んでいる。各隊が動き出す合図は柴田勝家が瑞泉寺に火が放たれた直後から。善師野から寂光院に先発した隊が先に瑞泉寺を占拠し、火を放ったとあった。
犬山城は瑞泉寺炎上からわずか4時間ほどで陥落。この時に攻め入った各隊が犬山城下にある寺を小規模ながら焼き討ちしていき犬山を占拠したとある。瑞泉寺に残っていた僧兵の殆どはこの時の焼き討ちでほぼ全滅。町人は戦闘が行われる前に五郎丸や楽田方面や川を渡り美濃方面へ脱出していて、当時の犬山城に残っていた信清とその家臣は成すすべもなく降伏したとあった。信長が犬山に入ってわずか一日での決着であった。
信清は降伏後、城兵共々栗栖方面へ逃亡、その後木曽街道を経て甲斐国へ落ち延び、甲斐武田の庇護のもと犬山鉄斎と名乗り生き延びているのが確認されている。本能寺の変の後も犬山鉄斎の名で美濃国や尾張国の寺や神社宛に書状を送っていることが確認されている。
ここで不思議なのは、美濃国に援軍を求めておきながら敗走後の信清は甲斐国へ流れていること。また信長は善師野を制圧していたにも関わらず、瑞泉寺を占拠した後、木曽街道を開けていたことだ。木曽街道はその名の通り今の長野県まで続く街道で、多治見から瀬戸を抜け、三河経由で甲斐までつながっていたかなり長い街道で、現在の飯田を経由して長野市まで続いていた。
信長が信清を見逃したのは諸説あるが、同族の信清が美濃国へ流れることを危惧したのではという説が有力。甲斐国の武田氏と瑞泉寺の住職は書簡でやり取りするほどの仲がよく、その関係を頼って落ち延びたのだという説が有力だ。
もうひとつ興味深いのは、『信長公記』にも郷土史料でもある『犬山里語記』にも信長が活躍した時代に犬山城という城名は出てこない。犬山という地名は出てくるが、『犬山里語記』には「信長は犬山攻略後に犬山にある三光寺山城に入った」と記録されているのだ。
犬山城とはどこのことを指したのか? 多くの謎が残る犬山城とは?
「1560年代に今の場所に犬山城はなかったとされることは様々な書簡や史実から読み取っても明らかです」と長年犬山城移築説の研究者である高木鋼太郎氏は指摘する。
前出の『信長公記』にも実は犬山城の明記は一切出てこない。「犬山にある三光寺山城に入城」とはっきりと書かれているのだ。また信長公記以外を確認すると『犬山里語記』には「上総介公は三光寺山城に入城」と書かれている。
三光寺山城は木曽川のほとりにあった武家屋敷風砦で、現在犬山城のある山の隣山にあったとされている。城というよりも武士や水運業を営んでいた川並衆の詰め所のような造りで、いざ尾張内で戦が起こった時には背後(美濃国)から攻められないように監視した砦ではなかったのかとの指摘もある。
犬山城とは信長の時代には三光寺山城を指すのではないかと最近の研究で明らかになりつつあり、信豊時代には犬山城は存在していなかったことははっきりしている。
信長が犬山を攻略した理由は商いを発展させたかった?
『犬山里語記』には1300年ほど続く鵜飼漁と木曽川を使った水運業の記録が残っている。特に鵜飼の船頭衆(以下、川並衆)の記録は多く、川並衆の多くは国に属さずに近隣の土豪に雇われた水運業を営んでいたとされる。
また同書の興味深い記述に、蜂須賀正勝(通称蜂須賀小六)を頭領とする蜂須賀水軍が犬山でも活動していたとの記録がある。
頭領の蜂須賀正勝は犬山より下流の蜂須賀村の土豪で、岩倉織田氏や斎藤道三に仕えていたとされる。道三の没後に信長に仕えた武将のひとりだ。興味深いのは蜂須賀水軍と犬山の川並衆が何かを取引していたとの記述で、犬山の川並衆は鵜飼漁だけでなく上流からの木材の運搬も請け負っていたようだ。蜂須賀水軍とは運搬部門で業務提携していたのではないかとの指摘がある。
信長が犬山攻略を急がずに調略を使い木曽川沿いの支城を無傷で手に入れたり、犬山攻略戦で焼き討を最小限にした最大の理由は、商いの要である大河木曽川を抑えたかったという意図があったのではなかろうか。
また、信清が落ち延びる先が美濃ではなく甲斐だった本当の理由は、木曽川上流の商圏を同族で固めたいという意図が見え隠れしてならない。
その理由として
①江戸時代になって木曽川における木曽木材の商権や管理権は尾張藩が取り仕切っている
②犬山が三河湾など各地へ木材を流す際の貯木場にもなっていた
③木曽川上流には尾張藩の奉行所や詰め所跡が残っていた
ことが挙げられる。
徳川家康と信長は商売に関してとても共通項が多いため、信長は戦国の世を駆け抜けながらも、町人の生活基盤の整備や商いに関して相当にオープンで公平な目を持っていた。即決即断の経営者というよりもいかに犠牲を少なくし、天下泰平を求めるにはどうすべきか、将軍を起てながら幕府を支えていこうという人物像が浮かんできている。犬山も例に漏れず、最大限民衆への配慮を敷いた上で攻略し、その後商い中心の町として発展している。
信長は犬山攻略後何をした?
犬山攻略後の話を少し。焼き討ちにあったお寺は信長が入城後に復興が許されている。瑞泉寺は領地を取り上げられることなく住職や僧の地位も脅かされることなく復興しており、当時臨済宗妙心寺派の総本山だった瑞泉寺の希少性を信長が理解していた事がわかる。
犬山侵攻の後、犬山の寂光院には柴田勝家、丹羽長秀、佐々主知の3人が寺領一町五段を安堵していることから、犬山占領の後に寂光院に陣を張り、美濃攻略の拠点にしていたことが判明している。また、犬山占領の翌年信長は寂光院に対して正式に領地を安堵する信長判物を発行、寂光院は正式に寺領の安堵と諸役の免除が保証されている。信長は美濃侵攻の拠点を寂光院に置き、東美濃攻略の足掛かりとしていたことがわかっている。
善師野を始めとした各街道筋は信長が尾張平定後に街道として再開発されている。木曽街道の宿場町の整備や犬山の栗栖から美濃へ渡る渡し船、犬山から小牧を抜け名古屋(東海道)へ至る街道、尾張一宮へ続く岩倉街道と特に街道整備に力を注いでいる。信長が本能寺で謀反に遭い豊臣の世の中になっても開発は続き、さらに江戸時代になって犬山は文化交流や交易の交差点としてもっとも栄えた。
犬山を拠点にした水運業は信長が美濃を平定後に盛大に商いが行われている。蜂須賀水軍と川並衆の活躍の記録は江戸時代まで続き、水運業の中心的な役割を果たします。特に木曽桧は建材としての需要が高く、美濃国や尾張国だけではなく全国各地に運ばれていたと記録にある。遠く伊勢神宮では今でも式年遷宮で木曽桧が使われている。
犬山攻略戦で犬山市内の一部を焼失させたのは信長。美濃攻略の足がかりになる犬山を早急に復旧させて木曽桧の木材販売権を手中に収め、意中の家臣を三光寺城に置き、ここから織田信長は美濃攻略を本格的に展開し美濃の東側と郡上八幡までを調略で次々と陥落させていった。
戦国時代から江戸時代にかけて時の権力者に翻弄されてきた犬山には、その痕跡を垣間見ることができる神社、仏閣、街道跡が残されている。国宝の犬山城だけでなく江戸以前の姿も残している犬山はお城の歴史よりもお寺の歴史に注目してみると、犬山の歴史的な面白さが所々に残されているのだ。
〜参考文献~
・犬山里語記
・信長公記